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* * *
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
このアパートの風呂場は狭く、男二人が入りこめばそれはもう余裕などほとんどなく、
「あ……はぁぁ……あ……っっ」
何が行われようと、妙に体躯を動かせば、あっという間に痣だらけになりそうだった。
「ん……く……ふ……」
歯を食いしばって震えに耐える。
シャワーの冷水はずっと出しっぱなしで、遙風の気が遠のく度、大地がその水を使った。それでも遙風がはっきりしない時は、大地は乱暴に遙風の髪を掴み、浴槽の水たまりに顔を押しつけたりした。
さーざー。ざーざー。
シャワーが立てる音のせいか、冷たい水の震えのせいか、遙風は繰り返し繰り返し、あの雨の日のことを夢に見た。
小さい遙風は背が伸びて弟が出来、ずぶ濡れの少年は立派な大人の男になって、雨の中で立っていたりしなくなった。
そのかわりに。
大人の男になった少年は、あの日の炎を眸に宿したまま、強い力を手に入れて、延々と復讐を続けていた。
何度も何度も。何度も何度も。
「大……地さ……あ、」
後ろ手に絡め取られた腕と、背中に押しつけられる胸板が、冷えきった身体に熱くて、熱くて、遙風は涙を流した。涙は温くて、太股の内側を流れ落ちていく体液とは比べるべくもなくあっさりしていた。
首筋につけられた歯形と、赤い痣となった口づけの跡。
「も……や……やだ……大地さ……大地さん!」
遙風の悲鳴じみた懇願に、
「いあ!」
大地は無表情に体位を変えた。
冷たい洗い場の床に遙風を乱雑に引き落とし、その上にのし掛かる。そして。
「黙れ」
そして両手で遙風の首を絞めた。
「…………!」
体重をかけて、気管も血管も何もかも押し潰そうとするかのように。
「……! ……!」
遙風は眸を見開き、ぶらぶらする手を空間にさまよわせた後、なんとか首にある大地の手に取り縋った。だがそんなことで彼の手を振りほどくことなどできない。爪が彼の指の皮膚を空しく掻くばかりだ。
「……! か……! ……!」
口の端からは唾液が垂れて、目尻からは涙が伝った。
大地は遙風の中に押し入っていて、二人は繋がったままだった。
涙で視界がかすみ、酸素欠乏か血流が止まっているのか、焦点が定まらなくなってくる中で、遙風は大地の 眸を見た。
そこには初めてぶたれた時と同じ、憎悪の青い炎に捲かれた暗い暗い深淵があった。
あれから幾重にも見ることになったそれは、母が死んだ後も全く変わらない強さで、いやむしろ年月を重ねるごとにより強く、大地の奥で燃え続ける。
「………ぃ……ち……さ………」
―――昔読んだ絵本の中で。
賢いきつねは言っていた。
『大切なものは、眸に見えない』
それではこの眸に映る総てのものは、果たして一体何なのだろうか。
いったい、いったい、これは。
何?
「……だ………」
そう、大切なものは眸に見えない。
本当は。
大切なものなんて、この世界の、何処にも存在しない。
きつねが教えてくれる前から、本当は遙風も知っていた。
何故なら、一度だって、大地の眸に、「本当に」遙風が映っていたことなどなかったからだ。
見えるものは大切ではない。
大地はずっとずっと、遙風を通して、遙風の後ろの眸に見えないものを見ていたのだ。
遙風の背後にいる二人の人間を見ていたのだ。
母と。父。
眸に見える自分などは大切ではない。大地とってはその後ろの『大切なもの』がすべてだった。
眸の奥に炎を抱いて、遙風の後ろの見えないものに、延々と、繰り返し繰り返し、いつまでもいつまでも大地は、復讐を続ける。
「―――」
大地の唇が、何か言葉を紡いだような気がした。しかし遙風の耳にはもう激しい耳鳴りしか聞こえなくなっていて、彼が何を言ったのか全く分からなかった。
きっと『誰か』の名前でも呟いたのだ。
そう遙風は思った。
そしてそれは、確実に、自分の名前では、ない。
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