眸に見えない

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*  *  * 浴室で、目が覚めた。 硬い洗い場の上で投げ出されていた手脚はぎしぎしとして、容易には動かなかった。髪も床もまだ濡れていて、痛めつけられた体躯が寒気と吐き気に小刻みに震えていた。 虚ろに見やると、向こうの畳の部屋で、大地が横になって眠っていた。 それは珍しいことだった。彼は大抵、行為が済むと遙風が目を覚ます前にいなくなっていた。 「…………」 遙風は立ち上がろうとした。しかし体を動かした途端、視界がぐるぐると回って、眼を開いているのにあたりが真っ暗になった。口元を必死に押さえてしゃがみ込む。 「……っ……っ…………はぁ…………」 肩で息をして、症状が収まるのを待った。壁にもたれ掛かるようにして、なんとか立つ。 ゆっくりと、目眩を起こさないように、なんとか大地のもとへと近づく。 大地は身なりもすっかり綺麗に整えて、静かに眼を閉じていた。 「…………」 窓の外は落ちてきそうな曇天だった。まだ昼の時間帯だったが、明かりをつけていない部屋の中は薄暗い。 遙風は濡れた髪のまま、しばらく彼の顔を見ていた。そして、またゆっくりと壁づたいに台所まで行くと、出しっぱなしになっていた包丁を手に持った。 「…………」 包丁の刃は銀色で、とても冷たそうだった。 小さい遙風は母親のセックスを何度か見たことがあった。何度か、ではなく、たくさん、だったかもしれない。 ここによく似た、ここよりも粗末なアパートで、母は幼子に構わず男たちとセックスをした。まるで遙風などここにいないかのように、母と男たちは夢中でセックスをしていた。自分は透明人間になったみたい。そう、小さい遙風は時折思った。 よく考えれば、昔から自分は透明人間だったのだ。包丁を掴んで大地に歩み寄りながら、遙風は思った。 この人も自分を透過して、後ろに別の人を見ている。 きつねは大切なものは目に見えないと言った。 しかし自分は、目に見えるけど無色透明なのだ。ふしぎなことに。 母のセックスを見て知っていたから、大地に初めて犯されたときも、あああれか、と思ったのだ。 あれ。そう。あれ、か。 「…………」 遙風は大地の横へ座り込んだ。包丁を持った手を上げる。 母はいつだって、行為の最中は卒倒せんばかりの歓喜に打ち震えていた。涙を流して、悦びに何もかも委ねて、リズムに合わせて半狂乱に何か叫んでいた。 「……………」 何と叫んでいたんだっけ。彼女は。 彼女は。 彼女は、確か。 「すきよ! すき! すき! ああ、すき!!」 遙風の耳に、鮮明に母の高い声が聞こえた。 律動とともに。強く。ただ強く強くそれだけを繰り返し。 繰り返し。 「…………」 遙風は包丁を大地の上にかざして、しばらくその状態で静止していた。 「…………」 しかし、ゆっくりとその手を下におろした。力を緩めた手から、ぽとりと刃物が畳に転がった。 「…………」 すき。 遙風は身体の震えが酷くなるのを感じ、自分で自分を両手で抱いた。それでも震えは収まらない。歯の根が噛み合わずにガチガチ言った。 「………う……」 視界が滲んで、大地の顔が歪んだ。涙の雫が一つ、遙風の白い頬に落ちた。 歯が鳴るのが嫌で、唇を強く噛む。 すき。 「…………っ……」 すき。 ぎりりと強く歯を噛みしめると、血の味がした。大地に噛まれた舌から血が出ていた。 「う……っ……う……」 『大切なものは、眸に見えない』 優しいきつねは、そう嘘をついたから。 大切なものなど何もなければ、どんなことが起こったとしても。 この人も、自分も。二人の間のやりとりも、行為も。 何一つ、重要じゃない。 何一つ、大切ではないから。 「う………う………っ……う」  痛くて、体中が痛くて痛くて、遙風は両手で顔を覆い、泣いた。 どんなに身体が痛かろうと、胸が、痛かろうと。 本当に大切なものなんて、この世界の何処にも、存在などしないのだ。
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