眸に見えない

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―――昔読んだ絵本の中で。 きつねは言った。 大切なものは、眸に見えないと。 大切なものは眸に見えないと、賢いきつねはそう言っていたけれど。 それではこの眸に映る総てのものは、果たして一体何なのだろうか。 「どうした。まさかこの程度で目眩でも起こしたんじゃないだろうな」 もしかしたら。 きつねは、嘘をついたのかもしれない。 それはきつねの、優しい嘘だったのかもしれない。 『大切なものは、眸に見えない』 「もう回数も思い出せないくらいしただろう。何を今更、そんな顔をしている」 優しいきつねは言えなかったのだ。 本当は。 大切なものなんて、 「遙風」 この世界の、何処にも存在しないということを。 顎に手をかけられて、床から視界が上へと移る。 遙風の眸に映ったのは、灰色の髪と瞳を持つ、端正な青年の顔だった。 「…………」 「なんだ。何か言いたいことがあるんじゃないのか」 眉一つ動かさず、表情のない整った顔が言う。 すらりとした長身。品のいい服装。育ちの良さを思わせる身のこなしと、血に恵まれた美しい顔立ち。 自分には縁遠い、高貴な世界の空気だ。そう遙風は思う。しかし、その空気はどことなく懐かしくもある。 彼の名は菅井大地。 遙風の母の弟。世間に二人の関係を名付けさせれば、甥と叔父だ。 「…………」 遙風は彼をぼんやり見つめた。口の中の粘った水が苦くて、視界が歪んだ。   言いたいことなど何もない。 「ああ。黙っているのはそういう訳か」 とても下らないことに気づいたというように、大地は吐き捨てた。 「飲み下せばいいだろう。そんなことも言われないと分からないのか」 苦い。 苦しい。 彼の言葉が耳に届くと、頭の中でわんわんと反響して、眸の奥がぐらぐらする。 耐えられなくて瞳を伏せると、溜まっていた涙が頬にこぼれた。 「それとも床にでも吐き出すのか。弟が帰ってくるこの部屋の床に? 帰ってくるまでに綺麗に掃除でもするというのか。滑稽だな」 全く面白くなさそうに大地が言った。 「…………」 遙風は突然、弾かれたように立ち上がって風呂場へ駆けた。 このアパートは風呂とトイレが同じ空間にある。 遙風は便器の中へ吐き出そうとしたが、結局足がもつれてうまく動けず、風呂の洗い場へ口の中のものを出した。 「……っ、……っ」 自分の唾液と混ざった白濁の粘液が遙風の唇を汚した。寒気と吐き気がした。熱いのに寒い。冷や汗で体が湿っているからだろう。少し眠いような気もする。 「そんなに汚らわしいか? 俺の精液は」 屈み込んだ体勢のまま顔だけ入り口へ向けると、大地が扉へ背を預けて腕を組んでいた。じっと遙風が吐くさまを見ている。 「お前のものと、大して情報は変わらないというのに」 まじめな顔で、そんなことを言う。 皮肉なのか、本気でそう考えているのか。 不思議な人だな。 頭の片隅、意識のとても遠くで、遙風は思った。 「っ……は……」 食道がぎゅうぎゅうすぼまって、喉を外へ押し出そうとしていた。しかし出てくるものは何もない。 右手の甲を口に押さえつけて、なんとかかんとか遙風は息をした。えづくのは苦しい。涙の粒がぽたぽた洗い場へ落ちた。 「遙風」 感情のこもらない声で、彼は自分の名を呼ぶ。 遙風は大地の声に応えず、肩で荒く息をしながら、浴槽に引っかかっているシャワーへと手を伸ばした。もう一方の手で蛇口に取り付く。とにかく、口の中をゆすぎたかった。 大切なものなんて、何もないんだ。 きつねは、とてもよいことを教えてくれた。 蛇口をひねる。水が勢いよく吹き出した。 大切なものなど何もなければ、どんなことが起こったとしても、それに心を砕く必要がない。 この人も、自分も。二人の間のやりとりも、行為も。 何一つ、重要じゃない。 「遙風」 遙風が蛇口からの水を口に含もうとしたところで、唐突に、大地が近寄ってきてシャワーを乱暴に奪った。 「なっ」 遙風が声を上げる間もなく、冷たい水が降ってきた。大地が、遙風にシャワーを向けたのだ。大地は蛇口をひ ねり続けた。水圧が上がる。 「大地さ」 降る水に溺れそうになりながら遙風は声を上げた。 「水が欲しいんだろう」 流水は驚くほど冷たく、あっというまに遙風の熱を奪っていく。 「やめ……」 やめて欲しいと言おうとして、水が気管に入り、遙風は激しく咳をした。うつむいて、痙攣のように激しく肩を震わせると、大きな手が髪を掴んできた。 無理矢理上げさせられた顔の正面にシャワーヘッドがあった。 驚きに眸を見開く暇もなく、そこから噴出する水は容赦なく呼吸器に入り込む。 ―――息が出来ない。 「洗いたいんだろう。好きなだけ洗わせてやる」 袖の先も、ズボンの裾も、上等な靴下もびしょ濡れにしながら、大地は遙風を溺れさせた。 粗末な風呂の洗い場が、シャワーに叩かれてざーざーとうるさい音を立てる。 「………っ………げ……あ……」 冷えと苦しみと酸素欠乏で、遙風は気が遠くなってくるのを感じた。 ざーざーという水の音が、何重にも歪んで聞こえて、うるさかった。 ざーざー。 ざーざー。
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