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「そんな、荒唐無稽な……」
そう言う俺の声はわずかに震えていた。彼の言っていることはどこまでも荒唐無稽なのに関わらず、奇妙な説得力を以て俺の耳に入って来る。
「嘘でも妄想でもない。証拠を見せようか」
彼がどこからともなく取り出したのは、幾何学的な図形を組み合わせた奇妙な紋章を刻んだメダルだった。彼はそれを俺に差し出した。
「このメダルに刻まれた紋章は、ほんの少しだけ次元の壁を乗り越える効果がある。大伯父と僕が苦労して作り上げたものだよ。手に取ればわかる」
断ることなど出来なかった。彼は自信に満ちた表情で、俺にメダルを突きつけていた。そんな馬鹿なと否定する気持ちの中で、心のどこかに彼の言葉を信じたい気持ちが潜んでいる。
知らず、手が震えていた。その震える手で、俺はメダルを掴んだ。
途端に。
どん、という衝撃と共に、自分の身体が虚空に投げ出されるのを感じた。
ここはどこだ。さっきまでの洋館じゃない。
宇宙の果てを思わせる、荒涼とした空間。その、向こうに。
見えているわけではない。だが、確かに感じる。
何か──圧倒的な「何か」の存在を。
畏怖。嫌悪。恐怖。絶望感。俺の心に、様々な感情がごちゃごちゃに湧き上がった。
見えているわけではないにも関わらず、「それ」が非常に巨大であることはわかる。人間、動物、微生物、無生物、それらあらゆるものが混ざり合い、刻々と姿を変えている。
「それ」は宇宙の果てにいた。深海の底にいた。どこかの極地にいた。時間の彼方にいた。ただ気がつかないだけだ。人間も、「それ」も、互いに。
叫びたかった。実際、狂気の縁にいたと思う。だが、声を出すことは出来なかった。
その時。
ポン、と肩を叩く者がいた。
俺は我に帰った。
全身にびっしょりと汗をかいていた。振り返ると、彼が穏やかに微笑んでいる。
「あ、あれは……」
「あれが、ラブクラフトの言うところの邪神だよ。大伯父の見ていたものだ」
「邪神……悪いモノなのか?」
「そういうわけじゃない。キリスト教的な価値観では受け入れられないだろうけどね」
そもそも、善とか悪とかじゃないんだ、と彼は言った。
「邪神と人は言うが、人から見て自分達を害する恐ろしいものであるというだけで、邪神からすると虫か微生物くらいの認識だろうね」
彼は語る。どこか嬉しそうに。
「あれは純粋に『力』なんだ。雷や台風、地震のエネルギーと同じだ。絶大な被害をもたらすが、それ自体が善でも悪でもないだろう?」
「そんなものの力を取り込むなんて……可能なのか?」
「もちろん、まともに力を浴びてしまえば、人間の肉体も精神も一瞬にして滅びてしまうだろう。だが、我々に出来ることは、次元の壁に蚊が刺した程度の小さな穴を開けることくらいだ。それだけの穴なら、力の本体すら通り抜けることは出来ない」
彼によると、人間が次元の壁に開けられる穴は、1キロ四方の紙にミクロン単位の穴を開ける程度のものらしい。それほど小さい穴なら「それ」の力の上澄みがにじみ出るくらいで、「それ」の本体どころか力そのものすら抜け出ることはないと言う。
「それだけでも僕らが使うには十分だ。君が目障りだと思う者を黙らせることも、大金を稼ぐことも出来る。もうチャンネルは開いた。この力は君のものだよ」
彼の話では、この力は知覚や感覚、物理法則はおろか、因果律にも作用するらしい。夢のような話だった。
「それは……対価のようなものはあるのか?」
彼は首を振った。
「そんなものはないよ。ただし、僕から一つ頼みがある」
「頼み?」
「君に、大伯父の研究について皆に広めて欲しいんだ。いや、別に論文を書けとか言うんじゃない。SNSで書くような感じで構わない」
「そんな……俺には無理だ」
俺が答えると彼はスマホを取り出し、タイムラインを表示させた。俺のアカウントだった。
「内緒でフォローさせてもらってたよ。愚痴や不満でいっぱいだが、それを上手くユーモアで包んでいるね。僕は君には文才があるように思うよ。やってみてくれないか?」
それから俺は、小説投稿サイトにアカウントを作り、「それ」の物語を書き始めた。WEB小説始めました、とばかりにSNSにも告知をして、ぼつぼつと文字を並べる。
書き始めると不思議なことにブラックだった会社が業務改善に取り組み始めたり、パワハラ上司が事件を起こしてクビになったりと、運勢が好転して来た。これも因果律に作用するという「それ」の力の影響なのかも知れない。
クトゥルー神話は先行作品が多いこともあって、俺の作品は最初はそれほど読まれてはいなかったが、「怪物の描写がまるで見て来たようだ」というコメントがついたりして少しずつ人気が上がって来た。
読者は夢にも思うまい。まさか、本当に見て来たとは。
次元の針穴を覗くと、インスピレーションは後から後から湧いて出る。
仕事も順調だし、万々歳だ。
……と、思っていたのだが。
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