第一章 逃げるが勝ち

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 道場を後にした颯は、帰宅前に一度校舎に戻って来ていた。  かと言って、大した用があるわけでもない。ただ、教室に置いたままだった教材を持って帰る気になった、そんな気まぐれだ。  広い廊下には陽光が射し、窓ガラスを通り抜けた光が床にいくつもの四角形を描いている。  その眩しさに導かれるまま、颯は窓の外に目を向けた。  「おお、やってんなー! うわ、あいつ泥だらけ。……いやでも、ああいうのやっぱかっこいいなあ」  太陽に焼かれるグラウンドに、野球部の練習風景が見えた。汗をだらだらと流しながらも、がむしゃらに走って、必死に投げて打って。これぞまさしく青春である。  誰しも一度は憧れる『野球』という男のロマンを目の前に、興奮を抑えられない颯。高まった感情を発散するように声を上げると、偶然通りすがった二人組の女子生徒から「引くわぁ」と言わんばかりの視線をいただいた。なんだろう、切ない。  羞恥心で口をパクパクとさせながら、颯は視線を逸らした。  部活動が盛んなこの学校は、放課後になっても校舎全体がわいわいと賑わっている。  近くの音楽室からは楽器の重低音が身体の奥にずしんとくるし、軽く耳をすませば、演劇部の美しい発声が廊下にまで響いているのがわかった。  「他の部活ってこういう感じなんだなー。なんか、すげえ違和感だわ」  普段であれば、今頃、校舎から離れた道場で練習に参加しているはずの颯だ。静寂を好むあの空間に慣れてしまうと、四方八方至るところから全く別々の音が聞こえてくる環境は、実に奇妙なものだ。結構違うものなんだな、と独りごちる。  「って、違う! 体調治すんだよ、早く帰るんだよ」  ふと、般若のような顔をした徹が思い浮かんだ。  本来の目的を忘れるかよ普通、と自分の脳天に拳骨をいれ、急いで方向転換。もう目と鼻の先の教室へ、足を早める。  そのまま駆け出そうと足に力を入れて颯は、不可思議なほど軽い体に首を捻った。あれほど颯を追い詰めた『異常』は、今や影も形もない。  だからといって、安心など程遠い感情だ。――それはむしろ、いつ襲いかかってくるかわからないということだろう。  朝と部活中、どちらも徹の声で救われた。しかし、当然ここに徹はいない。それどころか、もしも人のいない場所で起こってしまったとして、颯には抗う余裕も自信も無かった。  方法があるとすれば、いち早くあの現象を把握、理解することくらいだが、  「尋常じゃない目の痛みに、謎に赤くなる視界かあ。……いや無理。こんなの聞いたことないよ」  ほぼ、不可能に近い。漠然と、そういう予感がある。
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