第一章 逃げるが勝ち

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 「打つ手なし、か。とりあえず家に帰って様子見だな……」  帰宅してしまえば、万一何か起こったとしても母と妹がいる。つまり、もしもの場合には、意地でも何でも、とにかく家まで耐えきれば済む話だ。最悪倒れたとしても、颯の自宅から病院まではそう遠くない。何かあればきっと、すぐに適切な治療を施して貰えるはず。そこだけは安心して良いだろう。  それよりも、こんな所で迷っている時間が勿体無い。人通りの少ない道端で発症するような事態だけは避けたいのだ。たった一人で寂しく野垂れ死ぬ前に、家族に保護してもらおう。これがファーストミッションである。  「そうと決まれば急がねば、かな」  ため息まじりに呟き、颯は教室の扉を開いた。  付けっぱなしの冷房に冷やされていた空気が、颯を通り越して廊下に流れ出す。歩き回って汗ばんだ体が癒されていくのを感じながら、颯は扉の向こうを見遣った。  学生たちは帰宅したのか部活中か。無人の空間に、学習机と椅子がセットになって並べられている。教室後方の壁にかけられた時計が指すのは、午後三時半を過ぎたあたり。テラスに続く横開きの掃き出し窓は閉め切られていたが、アイボリーのカーテンは開いたままだ。差し込む太陽光が、まるで沈黙する蛍光灯の代わりを果たしているようだった。  「カバン置きっぱのやつ結構いるし……。さすがに無用心すぎだろー」  机に放り出された学生鞄が目に入り、颯は呆れまじりに笑った。  クラスメイトの顔が次々と浮かび、気が抜けていくのを感じながら、室内へと足を踏み出す。  そのまま視線を教卓に向けると、その上に置かれたもの――いや、正しくは、見えているわけではない。認識できている、という方が適切だろうか。  そんな、透明のナニカ。  ソレが空間を小さく揺らし……て、  ――まずい。  気を張った時には、もう遅かった。  「は……ッ?」  鋭い痛みが眼球を襲ったのは一瞬のこと。働く間も与えられなかった脳は、混乱に塗りつぶされていく。薄れそうになる意識の向こう側で、颯は自分の口からこぼれたであろう間の抜けた声を聞いた。  次の瞬間。今度こそ颯を確実に喰らいつくしてやろうとばかりに、それは牙を向いた。
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