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慌てず騒がず、こういう時には空気になろう。周囲に溶け込む。協調性だ。生きる上で身につけてきたこのスキルを今こそ役立てるべきだと、颯は人知れず頷く。下駄箱の閉まる軋んだ音が、同意を示してくれているようだった。
深く息を吸い、眉頭に溜まった力を緩める。
「よし、行こうか……徹?」
慣れた微笑みを作り込み振り向くと、徹はその場に突っ立ったまま遠くを眺めていた。
その顔はだらしなく緩み切り、瞳は明らかな興味の色に染まっている。先ほどまでの会話など、まるで端から無かったかのような変わり様だ。
「ほらあれ、見てみろよ」
不審がる颯を一瞥し、徹は楽しそうに声を弾ませる。
その視線を辿ると、ひとりの少女が今にも昇降口をくぐろうとしていた。
「ああ、神作先輩だっけ」
足を進めるたびに、ひらりと揺れる腰まで伸びた真っ黒の長髪。対比する純白のカチューシャが、その可憐さを際立たせる。意思の強そうな瞳が美しく輝き、優美な魅力を何倍にも膨らませていた。
神作瑠衣。第三学年に在学する彼女は、学内に知らぬ者はいないであろう、所謂有名人だ。
それは、彼女の持つ端麗な顔立ちや気品あふれる雰囲気によるものだけではない。圧倒的な人気を博しながら学内に殆ど交友関係を持たず、家系も不明。家族は一体何をしているのか、彼女自身がどんな生活をしているのか。その実態を知る者は、一人もいないとまで言われている。どこからか広まった、『生きる七不思議』とは言い得て妙である。
「可愛いよなあ……。どんな人なんだろうな、神作瑠衣」
そう言って、鼻の下を伸ばす徹に苦笑がもれる。「惜しいのは、俺よりこいつな気がするんだが」と颯は首を捻った。
しかし、彼女には確かに目で追ってしまう魅力があるらしい。現に、この場の大多数が彼女の挙動を目で追い、その姿に感嘆しているのだ。
颯も例に倣って、再度彼女に目を向ける。
――瞬間。
颯の脳は、音を、色を、拾うのをやめた。
颯を構成する神経の全てが、眼前の奇怪な現象に囚われる。
その目は、凛と佇む彼女の姿が、不自然に歪んでいくのを捉えていた。否、正しく表すのであれば、『彼女を囲む空間そのもの』が――というべきか。
「いっ……」
途端、颯の両目を、何かで縛られるような感覚が襲った。眼球を直接刺激するようなそれに、反射的にまぶたを強く閉じる。
幾度か瞬きをすれば、白く霞む視界。何かゴミでも入ったのだろうか。ということは、さっき見たのも錯覚……と、そう考えるのが妥当か?
「――ヤテ……、颯!」
耳元に響く大声で、ハッと我に返る。無意識に、思考の海に沈もうとしていたらしい。
なんでもない、と首を振り、足元に落ちていた視線を動かした時、
「え」
遠くから颯をじっと見つめる、瑠衣の神妙な面持ちが目に映った。
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