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もやに覆われた不明瞭な視界のちょうど真ん中。水を含んだ絵の具が画用紙を侵食するように、じわりと真紅が滲んでいく。
このとき、働かない意識の片隅で颯の思考を占めたのは、ただ一つの疑問だった。それは、『今』知覚できる異常と共に増大する違和感。感覚の変容。
――痛みが引いて、る。
今の今まで颯を支配していた桁違いの苦痛は、真っ赤な膜の広がりと反比例して薄れていた。体を燃やすような不快からの解放が運んだのは、安息とは程遠い、得体の知れない胸騒ぎだ。
痛みが全て消えた時、真紅に塗りつぶされたその時、それはきっと良くないことのはずで。鳴り響く警鐘が脳を支配し、颯は背筋を震わせる。
「――颯!!」
ピシリと何かが固まる奇妙な音を遠くに聞いて、
視界の赤が、割れた。
耳に届いたのは、徹の張り裂けるような叫び。
辺りを見渡そうとして初めて、颯は視界が正常に機能していることを自覚した。思考、意識、精神、神経。颯に搭載された全てのキャパシティを容易く上回り、更に喰らい尽くしたその現象は、ガラスが弾け飛ぶがごとく、いとも簡単に消滅したのだ。
「何が起きて――」
「おい大丈夫か!?」
続く言葉は、焦りを滲ませる徹の声にかき消された。目線を彷徨わせれば、部員の困惑した姿が目に入る。颯は未だざわつく心を落ち着けようと、瞬きを数回。
ここに至るまで、記憶は曖昧だ。わかるのは、焼け焦げるような熱に襲われ、ひたすら悶えていたこと。それから。
――フェードアウトしかけた意識の中で見た、鮮烈な『赤』。
ふと、ざらざらとした感触が皮膚に擦れる。颯の体は、畳の上で横向きに寝そべったまま、背中を丸めていた。体重の圧力を受けたであろう右腕には、畳と道着の跡が痛々しく刻まれている。
「ごめん……。もう平気そう、多分」
口を開くと、声とも呼び難い掠れ切った音が空気を揺らした。
「どこがだよ。鏡見ろ」
そう言って手渡される鏡。映し出された自分の顔に、颯は目を見開いた。
爪で引っかいたように傷つけられた瞼。頰のあちこちに指の圧迫痕が残されている。流れ落ちたと思しき大量の涙の跡が、その壮絶さを物語っていた。
しかし、あの流れ出るような赤色は見る影も無い。その双眼は、あまりに正常すぎる見た目をして、いつも通りそこに存在していた。鏡ごしに颯を見つめるそれが、何か恐ろしいものに思えてならなかった。
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