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妻から拓也の話を聞いた一週間後、転校についてどう思っているのか、直接本人から聞きたいと思い仁保は拓也と出掛けた。家の中では話し辛いだろうと、気分転換を兼ねて久々に親子で外に出ることにした。
いくつかの場所を、県内の博物館や美術館、図書館、庭園までも候補に提案した。勝山の恐竜博物館も半分冗談で入れてみたのだが、拓也の年では今さら行くのは嫌がるだろうと思っていたが、予想に反して拓也はそこを選び、結局一番遠いそこに行くこととなった。
あいにく妻が午後から車を使うため電車に乗って出掛けたが、鉄道になんて乗って出かけるなんて何年振りのことだろうか。ガタゴトと揺れるワンマン電車に乗っていると、仁保はいつもより心が平静になるのを感じた。仁保には家に持ち帰っていて月曜までにやらねばならぬ仕事が山積みであったが、今は仕事のことは考えないようにした。
福井の新駅から線路は高架の上を走り、車窓から福井の街並みを遠くまで見渡した。
下の方を見ると子供のころに家族で行った焼肉屋が見えた。店の軒先の赤い梁がボロボロで、遠くから見て店名が分からなかった。よく行くゴルフ道具屋の黄色い看板も見えた。こうやって町を俯瞰しながら電車で出掛けるのも良い物だと感じると、仁保は目の前の拓也の顔を改めて見た。
ボックスシートの窓側に座っているので、拓也は顔に丁度金属製の窓枠から日の光が反射して強い照り返しを受けている。こうしてみると、拓也の口もとは母親である妻にとても良く似ていた。拓也の顔を正面から慥(しっか)りと見るのは久しぶりだった。
「学校はどう?」
仁保のわざとらしい問いかけに、拓也は振り向きもせず窓の外を見ながら答えた。
「別にどうってことないよ、普通。」
仁保はすこし拓也の方に身を乗り出すと、内緒話をするような感じで訊いた。
「この前、母さんから拓也が金沢に転校したいらしいと聞いたんだけど、拓也は今の学校から金沢に移りたいんだね。」
その問いに拓也は表情を変えず、淡々と答えた。
「本当はどっちでもいいんだ。だけど母さんがあっち(金沢)方がレベルが高い、大学なんて推薦で入るのが当たり前だって言うから、このまま福井で進学するのが嫌になっちゃったんだよ」
仁保は電車の座席に深く座り直すと言った。
「そうか。でもそれは母さんの認識が間違っているよ。福井には教育熱心な先生が多くいるし、父さんも福井で勉強して医者になれたんだし、福井の学校レベルは決して低くないと思うよ。」
拓也は何も言わなかった。だったらその通り母に言ってくれ、と心の中で言っているようだった。そしてそれっきり2人は転校の話はしなかった。
仁保はまた窓外の景色に目を遣った。それにしても今乗っているこの電車は、昔のボロかった京福電鉄とは比べものにならないほど快適になっていた。駅舎も車両も綺麗になり、高架の線路は展望がよくて爽快だった。この高架は昔からあっただろうか、仁保はよく覚えていなかったが。昔子供のころ乗ったが古い記憶なので、霧のように判然としなかった。仁保は車窓の景色を満喫していた。
「お父さん。」
「ん?」
仁保が車窓を眺めながら返事をすると拓也が言った。
「さっきのこともそうだけど、最近母さんと話してる?母さんいろいろ話したいことがあるみたいだよ。」
妻の話題が出ると、仁保は外の景色がどうでもよくなった。
「そうか。母さんも来ればよかったかな。」
仁保はそう言いうとまた車窓を眺めぼんやり考えていた。こうして電車に揺られていると仁保はいつのまにかうつらうつらうたたねをし始めた。向かいの拓也もそんなことに構わず参考書を取り出すと静かに読み耽っている。仁保たちを乗せた二両電車が博物館のある終点駅に着くまでうたたねで夢を見るのには十分なほどの距離と時間があったのだった。
県立恐竜博物館に着くと、周りは殆ど小さな子供連れの若い家族ばかりだった。仁保は拓也を連れて博物館の中に入ると、展示されているものをひとつひとつ丁寧に時間を掛けてみて回った。
休憩室で煙草を吸って拓也を待っていたとき、ベンチに座りながら思わず後を振り返った。目の前をスラッとした女性が通りすぎたのだ。例えは悪いが、あの九州で一度だけ会った女性に後ろ姿が似ている。あの数年前の出張の折りの、秘密事。妻には正直には話せまい。
館内には恐竜だけに限らず古代の地質学や植相学に関わる展示など、恐竜に限らなず古代史全般のかなり広範囲に亘る内容の濃い展示品も多数あって、この辺をそこそこ学のある仁保親子は様々な意見や質問を出し合いながら見て回ることができた。仁保はわが子が幼くなくなって成長した後でもこうして学問的な興味を基に非常に有意義な鑑賞が出来るものだと感じた。拓也も仁保に劣らず色々な領域に知識を持っていて、仁保は逆に拓也から教わることも多かった。
そして、圧巻はなんといっても何十体と展示されている巨大な恐竜たちの骨格標本であった。竜盤類や鳥盤類を問わず、これらの骨格標本を前にすると、生物として不思議な畏怖を感じた。それは興味や知識といったものだけではなく、いい大人でも童心に返って熱中せざるを得ないものであった。
展示されているのはかつての生き物たちの骨と復元模型である、鉱石すら巨大なマグマが冷え切ったあとの地殻と言う生命に残滓に思われた。ここには死しかないわけだが、子供たちはその死の残骸や跡形から古代のえげつなく巨大な生物――生命たちを心の中でに復元し、その圧倒的な恐怖に喜び目を輝かせ興奮している。いい大人の大半がそれほど恐竜にもう夢中になれないのはそのためだ。心の中で理性が成熟しどのような痕跡からも、もう心の中で巨大な生物を構築することができなくなってしまうのだ。
「随分と大きな亀だな。古代亀かな。」
「アーケロンだね。」
魚竜の展示コーナーの一角に、首長竜とともに展示されていた巨大な古代亀の骨格標本は、きわめて躍動的に展示されていた。いまにも水面下の獲物に飛び掛かろうとするようだった。親子でその展示の前に立つと、あらためてその迫力に圧倒される。
「昔、子供の頃に連れてってもらった時よりかなり展示もアレンジしているね。この古代亀も確か無かったはずだよ。」
巨大な古代の大亀、アーケロンの骨格標本を目の前にして、仁保は自分が海の中でそれに捉えられて食べられてしまうところを想像した。それは恐ろしい想像であったが、この世に生まれた生物として不思議な清々しさを感じさせるものだった。このような経験をしたことは新保は幼いころからあった、まだ幼少のころ親族に連れていかれた三国の海岸で酔っぱらってふざけた浮浪者にあやうく海に落とされかけたのだ。後になって家族から、小さいときのことだから憶えてないでしょうといわれたが仁保はなぜかその時のことをよく覚えていた。すんでのところでその悪戯に気付いた親戚の叔父が仁保の衣服をつかみ、間一髪仁保は三国海岸の岸壁から奈落の底に落ちずに済んだ、そのまま海の藻屑と消えるところだったのだ。酒臭い髭もじゃの男にひょいと持ち上げられ青く輝く海面にむかって投げ入れられそうになった瞬間、空からの陽の光がきらきらと遠い海面を反射し宝石のように輝いていた。幼いながらも仁保はそれをこの世のすべての美しいものを集めた光燐として受け入れた、その瞬間あがらうことのできない死がやってきたとしても何もわからないまま光の反射の美しさの中無邪気に受け入れただろう、となぜかその後自分でも思うのだった。酔っぱらいの男は昭和の時代、取り押さえられるとその場にいた男たちから袋叩きにあい息の根も絶え絶えに警察に引き渡されたと聞いた。
自然の食物連鎖の環の中に組み入れられて逍遥として死を迎えるのであれば、それまで一個の人間としてまっとうな人生を歩んできたとしたならば、そこに何の迷いも無いだろうと仁保はその時からいつも人生を達観していた。
2-2
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春の昼下がりー。越前朝倉家、一乗谷城。城内の諏訪御殿に通された伴仁保(ともの・じんぼ)は、座敷に座り、丹平が現れるのをじっと待っていた。この館は京から腕利きの宮大工を呼んで建てただけあり、室内の装飾にあらゆる趣向を凝らしていた。一本柱の仕口など様々な意匠が見てとれる。なんて贅沢な造りであろうかと改めて室内を見渡した。あの襖絵は狩野正信の筆によるものではないか。そこには幽愁な山を背に従えた大木が墨絵に大きく描かれていて、仁保は丹念にその筆跡を目で追って眺めていた。
その時、襖が開けられると越廼(こしの)丹平が目の前に姿を現した。仁保は姿勢を正すと顔を上げる。端正な羽織袴を着た丹平は武家の人間にみえないほど優しく穏やかな目をしていた。
「おお仁保どの、久方ぶりじゃ。この前の山崎様との面会の時以来かな?」
仁保はやや畏まって言った。
「その節は世話になり申した。山崎様とお会い出来たのもひとえに丹平どののお陰かと」
仁保との間に畏まった空気を作りたくない丹平は「いやいや」と頭を振りながら、わざとぶっきら棒に胡坐をかいて座った。堅苦しい雰囲気はどうも苦手らしかった。
「で、今日は仁保どの。相談というのはなにか?」
丹平は館の一番奥の畳間座敷に通されて、姿勢を崩さずにいる仁保に茶を出しながら聞いた。
一乗谷城への初登城以来、城下の町割りや道路や水利、館の庭園に至るまで朝倉家随一の普請番、普請代目付として活躍してきた二人は互いに他家から朝倉に迎え入れられた境遇であったため若い頃から意気投合しなにかと話をする機会が多かった。
丹平こと越廼(こしの)丹平は仁保より早く普請奉行を辞すると、その後は若くして朝倉家付留守居となり城内の館に常駐していた。いまは諏訪御殿の館に常駐し警固を担っている。
「じつはまた妻のことで相談がある。鶴の丸が亡くなって二年もたつというのにふさぎ込んだままだ。一日中家にいて何も話さないのだ。」
黙って聞いていた丹平は庭の景色を見た。御影石の影に庭の池から鯉が跳ね上がったのが見えた。
「空どのことか・・・。」
仁保は静かに言った。
「鶴の丸が亡くなってから、妻はまったく別人になってしまった。誰とも話さず笑わなくなった。以前の妻はあの日を境ににこの世からいなくなったのかと思うくらいだ。」
仁保には鶴の丸という男児がいた。伴家の嫡子であり大切に育てていた。特に妻の空は宝のようにわが子を可愛がっていた。いまも鶴の丸が着ていたべべを前にたまに居間でぼんやり座っていた。鬼が山からやって来て幼い鶴の丸の命と空から心を奪って行ってしまったのだ。
「ありがたいことにいまだ城内の者たちが墓に花を手向けに来てくださる。しかしこのままの様子で妻がいるのが不憫で仕方ない。丹平どの、これは病か?京から名医を呼んで治してはもらえぬかの」
丹平はそう問われて暫く黙っていたが提案した。
「うむ、薬師に頼るより・・・まず働くのがよかろう、多くの人や物事に囲まれて己を忘れることが一番じゃ。」
「・・・・。」
困惑する仁保に丹平は言った。
「城内の館ではお子との思い出も積もっておろうから、いっそ城下に出るというのはどうじゃ。どこかの武家屋敷にいくとよい。辻町に隠居した花方左衛門様がおる、最近新しい旅籠屋の手伝いを探しておるようだ。旅籠とはいえあそこは機織り木綿問屋、加賀の染め物商家の出の空どのなら織物にもさぞ目が利くことだろう。」
意外な提案だった、しかし辻町なら武家屋敷が多く殆ど城内と同じようなもの気分転換にはいいかもしれない。
「先方に話しておこう。」
そういって丹平は茶を啜った。
この日を遡ること二カ月前、仁保は同じ城内を山崎吉家公との面談のため訪れていた。
山崎吉家とは朝倉家臣団の中にあって最も若く進取の気風を好む人物だった。開明的な頭脳の持ち主で、日ごろ身分を問わず様々な人間を屋敷に呼んではいろいろな意見を聞いていた。朝倉家がこれまで戦で勝利を収めてこられたのもこの重臣山崎によるところが大きかった。最近では戦に限らず内政に関しても様々な施策を行っている。
山崎の屋敷は城内の中枢、一の丸の正面に兵の詰所や武器庫と並んで千畳敷の真ん中に建っていた。筆頭侍大将の屋敷だけあって堀の外も内も武器を携え警護番がしっかりと目を光らせている。夜半過ぎに訪れた仁保らは何人もの番詰にじろじろと見られ検分されてようやく屋敷の中に通された。
山崎は朝倉の信頼も厚く城内では若年寄に近い扱いだったが、おごりや偉ぶった態度を見せないその顔は始終笑みで溢れていて、一乗谷のすべての軍事を掌握している軍大将には見えなかった。夜半過ぎの訪問にも関わらず、山崎は仁保たちを出迎えると、ヤヤよく参られたと労った。
「越廼殿からよく伺っております。伴殿も近頃は兵評議にも参加されているとのことでしたな。」
そう型通りの挨拶が済むと、酒を組みしながら昨今の情勢について山崎様が二人に語り始めた。
「知っての通り、今や当家の家臣団は全員が織田を討つべしの一点で結束していると言っていい。あれだけいた和平派は全員、評議役を下ろされるか追放されてしまった。親方様の側近がいかんのだ、自らは出陣せぬくせに、景鏡様や我ら家臣に執拗に織田家打倒を唆し、起請文を送りまくるものだから皆その気になってしまうっいる。朝倉は織田との決戦を日々準備しているようなものだ。そして、すべて情報は織田側に筒抜けだ。将軍菅家をはじめ、浅井、武田、上杉遠藤、果ては最上や毛利に至るまで対織田包囲のために朝倉家がどの国にいつどんな書状を送っているか織田は喇叭を通じて全部知っておる。それで織田はいまや朝倉家を一番の目の敵にしておる。」
出された酒を恐縮気味に啜りながら丹平が聞いた。
「山崎様。織田は手ごわい相手ですか?稀に見る戦の鬼神であるから戦の相手にはせぬ方が良いと追放された年寄衆たちが言ってたと聞きますが。」
ふむ、と酒を一献傾けてから山崎様は流暢に答えた。
「ははは。そこが違う。戦で言えば織田は存外弱い存在だ。あのように内にも外にも好戦的で虚勢を張っているのも、絶えず周囲に戦争を仕掛けないと弱小者たる織田の威厳が持たないからだ。絶えず誰かに脅しをかけておかないと家臣団すら結束せずバラバラになってしまうから、織田はいつも強気でいる。あんな家系は時間がたてば、そのうち夏の台風のように内から自然消滅するだろう、相手にせず放っておくが一番なのだ。」
織田への畏怖心を微塵にももたずにあざけり笑って話す山崎を見て、仁保は驚愕した。そして山崎の言った内からと言う言葉が気になった。織田家の内紛でも期待しているのだろうか。
「しかし、織田の勢いはいまや留まるところを知りません、負け戦すら織田軍の前には勝ち戦に転じてしまう有り様ではないですか。」
仁保は前回の金ヶ崎の戦いについて皮肉を交じえて言った。
「左様。わたしが今日お二人と面会したのはそこの点にある。越廼殿も伴殿も織田の軍略の本質を理解しておられるが故、朝倉家は織田との戦を避けるべきだと前々から申しておったそうですな。」
仁保は正直に自分の考えを述べた。
「左様でございます。あのような無法者は戦う価値すらありません。たとえ勝てる戦でも当面は防戦に徹し、無暗に相手にすべきでないと思います。」
「ふむ。よくぞ言った!実はわたしも常々そう思っている。織田との決戦に出陣する侍大将が口にする言葉でないが。」
酒の肴を摘まむと山崎は言った。
「しかし、織田との戦いの火蓋は既にふりおろされてしまっている。急には戦闘を停止できない。今回、敦賀から織田勢力を一掃できたのは何よりだ。次の戦は近江大津あたりになろう、そこで織田をどれだけ打ち負かすことが出来るかが今後の鍵だ。そうして相手をある程度打ち負かした上で有利に交渉に入るのが私の考えだ。今後は近江の浅井や比叡山が相手では織田もままならんだろう、東にも武田が虎視眈々とひかえておる、これ以上西には手を出せまい。それを機に織田と交渉に入るのだ。織田の弱さの由ゆえに有効な策だ。」
「『弱さ』ゆえ?」
「単なる戦の勝ち負けではない、織田の戦略そのものの『弱さ』だ。織田はこれまで勢いよく戦に勝ってはきているが、勝てば勝つほど内に矛盾を抱え込み余裕がなくなっている。織田家家臣も呉越同舟、たがいに主君の怒りを買わぬよう必死に戦果を競い合っているようだが、いまや自分が生き残るための権謀術数ばかりあると聞く。信長の体制には元から弛みが見えているのだ。いまや自らを神と宣する有様だ、内にその矛盾を抱えたまま動き続け、そのうち織田家は内部から崩壊する。」
仁保も越廼も何も言えなかった。
「この三百年、朝倉家は無理に版図を広げずとも国は平安、豊かになった。朝倉宗滴公の時代から今日まで流々と引き継がれているこの伝統こそが朝倉家の全てだ。織田の逆と言っていい。だから最終的には和平の後に討つことになろうが。」
山崎は最後にこう述べた。
「とにかく。近いうちにまた織田と一戦交える。結果がどうであれ、その時にはおぬし達とまた朝倉家が取るべき道について話し合いたい。さらに守りを強固にして支城を増やす策も考えている。毛利、島津、長曾我部など西方と連携して新たな織田包囲網を広げる策もあろう。あらゆる策を講じて朝倉家を守っていこうではないか。」
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