遅れてきた愛着

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3  「先生!」  久しぶりに武生(たけふ)まで電車で行った日だった。帰りに駅のコンコースを歩いていると駅の蕎麦屋の前で仁保を呼びとめる者があった。 今日、武生駅まで電車で向かったのは梅津(うめつ)という大学の老教授がいたからだ。偏屈な男で、閉所恐怖症のため車に乗って移動することができず、いつも電車ででかけるのだという。同行者である仁保はそのため電車に乗って武生まで行った。  それはともかく、ふり返ると女性が一人立っている。  「先日はお世話になりました。」  女性は屈託のない笑顔を仁保に向けた。最近診療した患者かと思い記憶を辿ってみたがどうも思い中る者はない。どちら様でしたかと仁保が聞き返そうとした瞬間、女性は言った。 「この前、金沢駅で」  仁保は女性を思い出した、子供とぶつかり目にケガをしたあの・・。そういえばこんな顔をしてたような気もする。  「ああ、あのときは。目大丈夫でしたか?」 仁保はぱちりと自分の右目を閉じてみた。 「ええ。」 しかし女性は反対の目に手を添える。  仁保は彼女があの日、右左のどちらの目をケガしたかを憶えていなかった。  「それは何より。ではお大事になさって下さい。」  この時、仁保は帰路を急いでいた。妻からたくさんの買い出し物を頼まれていたのだ。仁保は軽く会釈をすると、その場を去って行った。  女性は立ち去っていく仁保の背中からまた大声で呼び掛ける。  「あの!先生。お借りしたハンカチは」  仁保は振り向く。  「結構ですよ。あれなら差し上げます。」  少し離れているため仁保が大きな声でそう言うと、女性はさらに大きな声で言った。  「わかりました。わたし駅近くに勤めてて週末この時間によくいるので、またいつか会えたときに。」 そう言うと彼女は仁保とは違う系統のバスに足早に乗り込み、振り向きもせず去って行ってしまった。  次の日曜日。妻が友禅の同窓会に着て行く服を買いに行くというので仁保は車に乗せて行った。 その日は、朝から仁保は論文作成のため大学から借りた大量の書籍や資料に囲まれ、自室で書類と額を合わせて過ごしていた。朝から加賀友禅染の会に出掛けていた妻が午後に家に戻るとそのまま妻を載せていつもの新開地の方ではなく福井駅の方へ車で出掛けた。拓也は部活のためすでに家にいない。家には仁保たちが出掛けると誰もいなくなった。 駅前通りを車で走っている。駅前は昔の一時期に比べ人の通りも少なく、閑散として空きのテナントが目につく。仁保は普段からこちらの方に買い物に行くことはあまりなかった。駅前の市電停留所が移動したことも駅前に巨大な恐竜のオブジェやアートが出来たことも知ったのはだいぶ後だった。 「駅前はもうだめだね、再開発の余地もないよ。こう人がいないんじゃあ・・・」 仁保は隣に座る妻に言った。 「今じゃ買い物行くなら車で開発や大和田の方ですもの。こっちは大したショッピングセンターもないし不便よ」 妻が言う。 「俺なんかが高校生の頃はよく「だるま屋」に服を買いに行ったけどな」 「今日行くのはその西武よ」 仁保たちは車を駅近くの古びた駐車場に止めた。妻は福井唯一の百貨店に着くと、仁保に夕方の待ち合わせ時間だけを伝えてそのまま婦人服売り場のある上階へエスカレーターで行ってしまった。  仁保は百貨店の本屋でしばらく時間をつぶすことにした。この本屋には売り場の片隅に椅子が常設されおり軽く読むことが出来るらしい。仁保は何冊かめぼしい本をパラパラめくって時間をつぶしていた。しばらくしてトイレに立ち戻ってくると積んだおいた本が崩れていた。拾い上げた本には昔の映画のシーンが載っていた。デビット・リーンの映画『ブリーフ・エンカウンター』の別れのシーンである。たしか昔ビデオを買った映画だ、買ったビデオはとうにどこかへいってしまった。すると銀幕の女優の顔がなんだかあの金沢であった女性に似ている気がしてきた。あの憂を帯びた瞳や頬の辺りの感じがとても似ている。なぜ今になって急に思い出したのか。仁保は腕時計を見ると本を仕舞って先週彼女と会った駅へ行ってみることにした。 歩いていて、仁保は腹の空いてることに気付いた。今日は朝から妻が用意した納豆と干物とごはん以外何も食べていなかったのだ。時計を見るともう午後の三時だった。先週あの女性と駅で会ったのは何時ごろだったろう、はっきりとその時間を憶えていなかった。  日曜だというのに駅前は閑散としていた。同じ福井でも新保や開発方面の賑わいと比べるとえらい違いだ。何か腹に入れようと仁保は周辺を見て回ったが、どの店も値段の割にメニューも画一的で利用する気になれなかった。駅前の外れの一角に移動式屋台が出ていた。若者相手にピザなど軽食を売る業者だ。 仁保はその移動スタンド型の軽食屋でカピタのようなピザとポテトを軽く食べた。食後に仁保は先週女性と鉢合わせたコンコースをしばらくの間うろうろと歩いた。しかしあの女性と会うことはなかった。しかし冷静に考えてみればあの女性と会って話すようなことは何もない。ハンカチの件だってわざわざ会うほどの用件ではなかった。  彼女がいないことを知り仁保は駅で二重羽巻をふたつ買った。そして無意識のうちに仁保は先週女性が去っていったバス乗り場に向かった。もしかして彼女いるのは駅のコンコースではなくて外のバスターミナルではないか。バスターミナルで所在無げに仁保を待っている彼女が目に浮かんだ、仁保は先週彼女が乗り込んだ8番停留に向かった。停留場からはちょうどバスが出るところだった。仁保はバスの中にあの女性の姿を探した。最後尾の席によく似た若い女性が乗っていたが、バスはそのまま行ってしまった。 彼が駅から帰って来る頃には妻との約束の時間はとうに過ぎていた。待ち合わせ場所のドトールに仁保が着くと、妻はすでに二杯目のコーヒを飲んでいた。 「遅いじゃない、どこにいたの?」 妻は仁保を見るなり言った。 「ああ、ごめん。ちょっと夢中になってしまって」 仁保は適当に答えたが妻は見過ごさなかった。 「夢中って、またパチンコでも始めたんじゃないでしょうね」 思いの外仁保は焦った。 「ちがう、ちがう。本屋に好きな映画の本があってさ、見てるうちに懐かしくなってちょっと探しに」 「意味わかんないわよ、パチンコのあと映画見に行ったの?」 それからしばらく二人でお茶を飲んでいたが徐に妻が言った。 「あなた、来週ここにまた品物をとりに行ってくれるかしら。今日予約しておいた物が全然違ったのよ。」 妻が予約受け取りした商品に不備があったらしい。そして別の用件もみなてんでダメだったようだ。 「来週わたし、どうしても外せない雑誌社の会合が丸一日あるのよ。」 「ああ分かったよ、いいよ」 「ありがとう。でもこっちの百貨店は全然駄目ねぇ…。金沢じゃ考えられないことよ」  結婚前から地元好きだった妻はそう言うと溜息をついた。また「地元に帰りたい病」が再発し、妻が金沢がいいと言い始める予感がしていた。 次の週、仁保は妻の言いつけ通り百貨店に向かった。駅前のガラガラの先週と同じ駐車場に車を停める、この前と違うのは隣に妻が乗ってない事くらいだ。相変わらず周囲は閑散としていた。車を降りると遠くで地元紙福井県民新聞のテレビ広告塔の音声が聞こえ、ますます過疎具合を表すようだった。 百貨店に向かい仁保は歩きながらそんなことを考えていた。 エレベーター乗り場の案内をみると婦人服売り場は上の階にあった。妻から預かった商品引渡し書に記された店名で仁保は確認をした。「婦人服」、ミセス・ミッシーと併記されるがそんな場所で買い物をする妻もすこしずれてると仁保は思った。迅速な対応を求めるならわざわざ遠くの古い百貨店に買い物に行かなければいい話だ、いつもの開発や大和田のショッピングセンターかチェーン店で十分なのに‥。2度の使いを頼まれ仁保は疲れきった顔でエレベーターに乗った。 売り場に着くと誰もいない。通りかかった店員に商品の引き渡しについて聞くと、すぐ店員を呼んできますといって奥に消えて行った。 「あら」 聞いた声が聞こえた。それは偶然ではなかった。 「こんにちは、先生」 カウンターで受け取り票を出して品物を待っていると、後ろから声をかけられた。振り向くとあの金沢の女性が立っている。 「あれ?」 仁保から思わず声が漏れる。 「わたし、ここのテナントに勤めてるんです。今日はお買い物ですか?」 妻が服を買った店がどこかわからないが、彼女の売場も偶然近くにあるようだった。 「今日は妻に頼まれて服を取りに来たんです。」 仁保は受け取り票を見せた。 「先生には奥さんがいるんですね、わたしに会いに来たんじゃないんだ。あら?」 金沢の女性は仁保の持っている包みを見て言った。 「この商品。もしかして先週いらしたご婦人が先生の奥さまかしら」 そう言ってやや離れたところにあった売上ファイルを持ってきた。 「ええと、あ・東さん?」 「とう、と呼びますがそうです」 「ああ、あの上品な女性。やっぱり!お医者様の奥さまって感じでしたよ。いろいろと仕立てや商品にお詳しくて。なんでも服飾関係の評論も昔してたとか」 「加賀友禅のを少ししてたらしいです」 「そんなことおっしゃってました、色々と服飾の歴史に関して造詣が深くて‥」 「はあ」 「ちょうど先週お品物が在庫切れでいらして、お取り寄せさせて頂いたんですよ」 なんか妻の話と違っていたが仁保は黙って聞いていた。 「先生、お時間ありますか?わたし時短なのでお仕事終わったところなんです」 金沢の女性はそう言うとにこやかに笑った。 その女性と会ったのは今回3度目だった。その日会った彼女はよく見ると存外やせていて身綺麗にしていた。特に来ている衣服や身に着けている装飾品はあまり見かけない物で、自分の妻と方向性が違うことを知った。今日が前と違うからたまたまそう見えるだけかもしれなかったが、とにかくお洒落に気を遣う女性だった。ドトールに入った仁保は訊いた。 「じゃあ、この服で大丈夫なんですね」 さっき受け取ったデパートの包みをあらためて出した。 「先日はすみませんでした。奥様、今日のお受け取りで間に合いましたか?」 話を振られて仁保は動揺した。もうすっかり妻との会話は忘れていたのだ。 「いえ、詳しくは聞きませんでしたが多分大丈夫でしょう」 仁保は言った。 「そうですか、よかった。失礼な話ですよね。」 仁保はなんだか拍子が抜けた気がした。あの時バス停に駆け寄りバスの中に見た彼女は幻だった訳だ。あの時、自分は駅まで出掛けて行って駅で時間も過ごして遅刻して、一体何を期待していたのだろうか。 そう思うと自分のうぬぼれ加減に少し嫌気がさして、ええとだけ曖昧に答えた。女性に会いに駅まで行った自分のことはどうしても言えなかった。 仁保は彼女を見て、やはりこの人はそんな風に自分を待っている人に見えないと思った。気を取り直すと仁保は医者らしくこの前の怪我について彼女に尋ねた。 「ところで目はどうでした?金沢で村田医師は診てくれましたか?」 喫茶店の静かな空気の中で、仁保はようやく医者らしく怪我の事を聞いた。 「はい、とてもいい先生で。」 女性の眼はもう何ともないとの事だった。あの後すぐに救急で精密検査を受けたらしい。薬も処方され目の痛みは翌日にはすっかりとれたとのことだった。 「あのときはこのまま失明してしまうのではないかと思いました」 女性は仁保を見て言って。仁保はドトールの抹茶ラテを一口飲んだ。 女性は小さなカバンから名刺一枚を取り出すと言った。 「わたし、救急の方から先生の名刺をもって、ハンカチと一緒に持って帰りました。名刺を見て先生も福井だと知ったんです。先日、福井駅で偶然先生をお見かけしたのに、ちゃんとお礼を言えばよかったですね。そうそう、お借りしたハンカチをお返ししなきゃ。」 彼女は仁保にハンカチを手渡した。ハンカチは綺麗な包みに入っていて糊付けアイロンされて新品のようだった。それと一緒に百貨店の包み包まれた菓子折りを渡した。 「これは?」 「怪我の時のお礼です」 仁保は謙遜したが、最終的にはそれを彼女から受け取った。 「へえ、学芸員を目指していたんですか?」 しばらく話し込むとやがて話題は彼女がここに勤める前の話となった。 彼女は自分が専攻していた日本美術に関する専門書を持っていた。  「はい。今のお店に勤める前、一刻ですけど。博物館も美術館もいまはどこも人員削減で人を採らなくて、それで私もあきらめました」  女性は言った。 彼女が持ってきたその資料には、鮮やかな写真付で古今東西の名作が網羅されていた。特に彼女のお気に入りは、その資料の中の永平寺・傘松閣の天井画の頁だった。 パラパラと仁保がめくると目立つ付箋のついたページがあり、それがその頁だった。 別名、天井絵の広間。その名の通り天井いっぱいに200以上の彩色画が描かれており、数年前に仁保もはじめて永平寺で実物を見た時はその美しさに感動を覚えた。彼女もこの永平寺の天井画がお気に入りらしい。 「永平寺でこの天井画を見上げた時、直感的京都文化にどことなく似ていると感じました。やはりこの辺りには京都文化の“承継”、大規模な文化伝播があったのではないかと思ってます。」  「それは越前の朝倉家の歴史に被さってのお話ですか?」 歴史に詳しい仁保はその話を聞いて、それは北陸の中世文化の淵源を一乗谷の朝倉氏が庇護した京都文化そのものに求める話であると理解した。 「そうです。金沢はよく頻(しき)りに北陸の京都だと言われますが、それは往年の福井一乗谷に倣った結果じゃないかと思うんです。京都から戦乱を避けて逃げてもいつかは戻るのです。さすがに加賀の金沢までは逃げきらないでしょう、それじゃ定住してしまいますよ。いい所、一時的な避難の場としては越前の嶺北地方くらいまでが関の山です。そして、その後織田信長に一乗谷が焼かれてしまって以後は、天下の趨勢も固まってきて、北の庄そして福の井へと越前の中心も移り変わり、京の戦乱はもう関係ありません。」 「へえー、お詳しいんですねえ」 服屋の店員らしからぬその話に仁保は感嘆の溜息をついた。 仁保も彼女が持ってきた専門書の写真にいつの間にか目を奪われていた。 「僕はこの永平寺の天井画を見て、四国のえーと、金刀比羅宮、そう、あの奧書院の『花丸図』を連想しますね。細密画の書き方に両方とも京都由来の艶っぽさが残っていて・・」 「伊藤若冲ですね、時代が近くなりましたね。彼の絵も素晴らしいですよね。ええとこの資料にも載ってたかしら・・。」  そう言って彼女はパラパラと資料をめくり始めた。 彼女がこんな本を持っていた理由が分かった。 先週、買い物に来た際に百貨店の売り場で妻が彼女に色々質問した際のことだった。 「色は同じだけどこれはテンセル製ね。注文したのは麻混合のもっとしっかりした肌触りの物だったはずだけど」 対応した彼女が服を用意すると、肌触りだけで凡その素材を言い当てた妻は品質表示タグを細かく見ながら聞いた。妻は今まで来た客の中でもっとも衣料素材に造詣があるように彼女には思えたらしい。 「いえ、お客様のお問合せいただいた商品はこちらではないですか。お品番号がKRW-OBM0507b・・」 「ああやっぱり違うわね。わたしがほしいのはKRW-OBM0510sbよ。リネンコットン地ではない方の特製素材のだから」 「リネンヴィスコースストレッチワンピース(H51)S」 「これはそれのH50)bでしょ」 「申し訳ありません」 「いいわ、もう。どこにもないのね」 妻はそれを知ってすぐに去ろうとしたらしい、しかし彼女は引き留めて詳しく話を聞いたようだった。 「・・・・そうなのよ。金沢の大和にも聞いたんだけど在庫がなくて。先日電話したらこちらには在庫があるって言うから来てみたのよ。でもどうやら型番違いだったようね。」 「至急お取り寄せいたします。福井にはここしか取扱がありませんので、少々お時間を・・」 彼女が何とか粘って東京本店をはじめ各店舗に問い合わせたところ、有楽町店にどうやら在庫が一つあることが判明した。それで一週間後に取り寄せで取りに来てもらうことになったようだ。 目当ての商品があって満足したのか、妻は彼女に向かってそのあと色々と世間話をしたらしい。 「加賀友禅の会ですか。奥様それですばらしい目をお持ちなのですね」 「名前だけよ。今時友禅なんて一生に一度着ることや買うことがあるかどうかじゃない。実用性のない趣味の世界よ。洋服はやっぱり自分でこうして高価過ぎないものを買いにこないとね。」 「はい」 「それでも、そんな会合だから。毎回違うものを着ていかないとだめなのよ。皆さんよく見てらしてて、着物に相当気を遣わないと後で何を云われるか分かったものじゃないから。今日は無理言ってごめんなさいね」 話は加賀友禅のもとである京の梅染めや絵文化にまで及んだそうだ。それで彼女は日本美術史を専攻していたので、その話を友禅の梅染と合わせて是非妻にしたかったそうだが、時間が来てとうとう機会はなかったのだという。 「学芸員になれなくて、生半可な気持ちで仕事をしてたことをその時痛感したんです。奥様に比べてこだわりがまるでない自分に。それで通勤の合間にまた勉強しようと、あの頃の本を読むようにしたんです」 仁保は話を聞きながらプライドの高い妻のことを思い返していた。あんな友禅の会にすら同じ服を着て行けない悩みがあったとは知らなかった。妻の感じる窮屈さを自分も感じた。妻は金沢の馴染みの店にでも買い物に行きたかったのだろうか、多分そうだろうと思った。福井にはここと北之庄通り何軒くらいしか店はない。それらも若者向けで妻の嗜好に叶うところはあまり無かったからだ。  彼女はコーヒーを一口飲みむと本をカバンに仕舞った。  「先生、私もう32になるんですよ。結婚したい人がいるんですが最近あまり上手くいってなくて」 彼女は急に自分のことを話始めた。  「早く結婚しても別にいい事はありませんよ。」 突然の話に仁保は月並みな言葉しか出ない。 「男の人はそうでしょうけど女には出産がありますから。若い方がアドバンテージがあるんです」 女性は俯いて抹茶ラテを啜ると言った。  「実際どうです、先生から見て。私歳相応の女に見えますか?」 「ええと」 仁保は答えに窮す。 「それこそ初めて会った時、子供が一人くらいいる風に見えませんでしたか」 仁保は何も答えなかった。 「既婚者かどうかで自分は人を見ませんので。」 女性はふうんと言って少し黙った。 「でも私には先生が結婚なさっている事がすぐに分かりましたけど。」 彼女は当惑する仁保の右手を見ながら言った。 「その指輪です。男の人は結婚してないとそんな指輪しないでしょ。すぐに分かりましたよ。」 そう言って彼女も同じように左手の指を見せた。 「彼にもらったものです。でもただの指輪ですよ。」 彼女の指には高そうな金色の指輪が光っていた。 「その点、女は指輪で見極めるのが難しいですね。」 意味深な言葉の連続に仁保は会話を早く切り上げたかった。どうもさっきから居心地が悪い。 「自分が幸せかどうか分からないのはみんな同じです。あなたには多分その指輪が導いてくれるんじゃないですか」 まるでゲームの一シーンのようなセリフを仁保は言ったが、彼女は何も言わなかった。 「わたし、この辺を歩くのが好きです。」 ドトールから駅までの帰り道、北の庄通りを歩きながら彼女は言った。 駅から少し離れたこの通りはブティックやセレクトショップが並んでいる。東京などの都会の洒落た雰囲気をこの一角は醸し出していた。それこそそんな大都市の通りに比べれば規模は大したものではなかったが、この通りの数百メートルは駅周縁でも洒落て異質な雰囲気を出していた。 やがて手前に小さな神社が見えてきた。商業ビルの裏手に昔ながらの木製の神社の建物が現れる。こんなこところに神社があるのだろう、それも申し訳程度に狭い敷地である。 神社の境内には池が小さなお濠のように整備されている。 「この場所に来ると落ち着くんですよ。昼の休み時間にたまに歩いてます」 「ここは元々のお城があった場所ですね。北乃庄。徳川結城氏より前、柴田勝家とお市、さらにその前にも朝倉氏の居城があったとか。石垣があるでしょう、あれ本物ですよ。」 仁保は剥き出しになった石垣に触れた。 「歴史好きの友人に前に聞いたんです。ここは今風に言えばパワースポットですね」 福井城址は違う場所であるので、ここが城跡だと言われてピンとくる人はいないだろう。友人の話の受け売りに仁保はそのまま話した。 「あっちの福井城は、福の井という有名な井戸があってそれが城の名前のもとになったとか。市役所の裏の井戸のことですよね。お堀も立派でお城と言えばやっぱりあそこですね。」 そう言うと彼女は押し黙ってしまった。 「わたしあまりあそこは好きではありませんが。」 「お城が?」 仁保が訪ねると言った。 「いえ、井戸が・・むかし怖い経験をしたことがあって・・。」 彼女はそれっきりその話はしなかった。 神社の近くには仁保たちの話通り、柴田勝家とお市を偲ぶ由来を記した立て札が立っていた。仁保たちはそれに見入った。庭の池には植えられた水仙の群生が橘樹の陰に隠れて静かに咲いていた。 やがて、彼女は腕時計を見てそろそろ行かなくてはと言った。仁保も一緒にそこを出た。 *************************************************************************** 「刀根坂付近で景行様、道景様、ともに自刃。重臣の山崎様、斎藤様はすでに討死しております。わが軍主力本隊はこれで壊滅でござる。」 早駆けからの知らせを携え本陣の兵議に馳せ参じた仁保は、親方朝倉義景に直接戦況を申し伝えた。この本陣とて幕外の守備すらいまや新参兵が固めている有様だ、古参の兵士たちは先日の砦戦ですでに多くが討たれていた。撤退の先陣をきり敦賀の疋田城に向け出立していた義景の一行だったが、ここまで早く織田の追手が追いつき壊滅の時が来るとは思いもよらなかった。 「先日の大嶽砦以上の損害か・・、総撤退はやはり無理な策だったな」 義景は暗にこの撤退策を批判するような言葉を発したが、もはや家臣の誰も 批判を受け入れなかった。 「親方様、あそこで徹底抗戦したところでさらに全滅の時期を早めただけに過ぎませんぞ。」 家臣の誰かが言った。撤退戦の難しさを知ってか義景もそれ以上の言明は避けた。みな青ざめた顔をしている。先ほどの早駆けからの知らせにより一門の道景様が討死されたのを知ってそれがこたえていた。あの若君が、将来ある朝倉家のご長子だというのに何ということだろうか。 伴家の武将として織田との戦闘が激化して以来、朝倉義景に従い本陣にいた仁保であったが彼の眼にも朝倉軍の劣勢はもはや明らかだった。 信長は本当に悪魔のような男だった。大嶽・丁野で壊滅し降伏したはずの朝倉の兵は捕えられずそのまま追撃された。押し寄せる敗残兵もろとも朝倉軍は攻撃され続け更なる混乱の極みにいた。兵は寝返っても戦っても織田軍に結局は討たれるのみだったのだ。 「だめじゃ、もう疋田城(敦賀)までは持たん。一度、一乗谷に戻ろう。」 実際敦賀の朝倉荘も織田側の内通者によって調落され寝返ったとの情報があったため、親方義景の発したこの一言に反対する家臣は一人もなかった。 この言葉を聞き仁保は、出立前に諏訪御殿で丹平と交わした会話が脳裏を掠めた。 「仁保どのには本陣の近衆として、どうか親方様が無事一乗谷にご帰還できるよう力を尽くしていただきたい。」 浅野軍の近江志賀での守りの崩壊以来、戦局は急激に悪化しつつあった。いまや朝倉家存亡の危機に際して城内番の仁保にも出陣の命令が下る有様で、戦況も絶望的だった。着慣れない真新しい甲冑武具一式を身に纏った仁保は出発前に諏訪の姉さまに挨拶に出向いた。その帰りに仁保は丹平と会った。 「どうやら丹平どのご采配らしいですな、朝倉家の外戚ですらないわたしが親方様の本陣近衆として出陣するなど普通ではあろうはずがありません。」 仁保は出陣前から最前線で戦って散ること覚悟していた。この戦いで命を賭して奮戦することを既に決めていたのだ。しかし思わぬことに彼は本陣付での務めを下命された。そこにどのような力が働いたのかは不明であったが、実戦経験のない仁保をそれ以外の役廻り方に配属させようと誰かが具申したことは明らかであった。丹平はそれに取り合わずこう言った。 「そう申されるな。そなたは城を出て行けぬ私の代わりに重要な任を担っておるのだ。仁保どのには、親方様を私の代わりによろしくお守りお頼み申す。本陣にて親方様をお守りし一乗谷まで無事帰還をされたい。貴殿に合戦でそう早々と死んでもらっては困るのだ。仁保どのの任は敵を討つことではなく、親方様をお守りすることじゃ。城内に留まり親方様の一族を守るのが私の使命であるなら、城外で親方様を守るのが仁保どのの使命じゃ。警固役とは不憫な役周りでな、この危急の時すら城に籠れと下命されるのだ。敵の一首すら刈くことが出来ぬ、まさに名ばかりの武士ぞ。」 思えば、城塞戦に関しても陣形戦に関しても守りという点では理論家の越廼と伴仁保はその造詣に長けていた。いつも城内評議場での合戦申し合わせの議でも、攻撃一等辺の朝倉家家臣団の中にあってどのような危機があるのかいち早く気づき対応策を具申出来る者は越廼と彼をおいて他にいなかった。この点越廼丹平の采配は当たっていた。仮に仁保がそのまま前線に赴いていれば、敢え無く最後を迎えていただろう。 「そうだ、仁保どのは実戦用の刀を持っていなかったな。これを使うとよい、一昔前の太刀だが軽くて威力がある。」 丹平は自分の懐刀を渡すと言った。 「親方様がもしもの時はそれが朝倉家の最期の時じゃ。その時、警固役のこの刀で親方様の介錯をするのがそなたの役目だ。そのことをしかと肝に銘じ、そのようなことが無きように親方様をお守りいただきたい。」 丹平と交わしたあの時の会話は出立してから片時も脳裏を離れたことは無かった、仁保は意を決して言った。 「お方がたここに妙案があります。どうぞこのままご手勢の一部を引き続き敦賀に向かわせられたらどうでしょう。ついては親方様のお輿や馬など身の回りの一切を敦賀に向かう者にお委ねするのも一計となりましょう。これは警護役の越廼様より賜った御下命です。」 仁保の思わぬ提案に一同どよめいた。中でも親方様の横にいた年老数名が詰め寄って来た。その中に剣豪勢源の弟、富田治部左衛門もいる。腰に勢源譲りの三尺刀を携えて仁保に向かった。 「立場をわきまえよ!親方様から輿を召し上げて馬から降りよと言うのか。無礼千万極まりなし。」 しかし仁保は動ぜず言った。 「いまは困難な撤退戦の最中。平時ではないのです。万が一のため本陣を二手に分けるべきです。輿や馬だけではありません。本陣旗印、馬印、その他凡そ本陣の証となるものはすべて敦賀へ向かう手勢に持たせるのです。」 近衆たちはこの提案に更にざわめき始めた。馬印を放擲することは家門一代の名誉を捨つるに等しい行為だからだ。 兵議場が仁保の一言で不穏な雰囲気となる中、お方様の背後に立っていた一人の男が言った。 「陽動か。名誉ある家門も何もかも捨てて。」 朝倉景義の一番の近侍・高橋景業その人だった。仁保は初めて相対した相手に臆せず言った。 「うまく行けば追撃の手を二手に分けられ、この本陣への危険を逓減できます。一乗谷に無事帰還した暁には、名誉などすぐに挽回できることでしょう。」 仁保のこの教説じみた言い回しに、とうとう何人かの取り巻きが大声で抗議した。 「身の程をわきまえよ!」「妄挙だ!」「恥を知れ!」 怒号が一斉に仁保に降りかかる。刀さえ抜きかねないその空気に仁保は命を覚悟した。 「三段崎の六郎どのはおるか!」 高橋景業が大声で幕内へ呼び掛けた。兵議場の中ほどから返事があり、しばらくして三段崎公が前にやってくると景業は告げた。三段崎は思いのほか年老いた将軍であった。 「三段崎どのはお方様と同じく朝倉高景公を祖とする朝倉家のご直系。この本陣の中にいる誰よりも朝倉家の馬印をお預けするのにふさわしい方と思われます。お方様如何でしょうか?」 その言葉に今まで黙って目を瞑っていた景義が目を開き、遠目に三段埼を見ると言った。 「三段崎公、このままわしの代わりに敦賀まで行ってはくれぬか。」 弱々しい声で三段崎氏に問いかけるその顔に、もはや往時の覇気はなかった。 三段崎公は年老いた体躯を揺らしながら大きく頷くと言った。 「親方様、どうぞおまかせください。」 そう言って頭を下げる三段崎氏の声を聴き、兵議場にいた者はみな感極まると頭垂れて大いに涙した。明らかにこれは囮策であった。もはや朝倉家は親族すらおとりに出さざるをえない状況なのか、その現実を目の当たりにした瞬間であった。 一方でこの案が通ったことで仁保はひとまず胸を撫で下ろしていた。これで本陣が一乗谷へ帰還できる可能性が少し高まったはずだ。お方様の命を受けて高橋がすぐに配下に指示を出す、敦賀までの陽動隊の具体的な人選および編成を速やかにするよう命令した。 伴仁保は深々と礼をすると、消沈しきったこの兵議場を後にした。脇差には丹平から受け取った麗美なあの太刀が下がっていて歩くたびにカチカチ金属音を鳴らす。幸いにしてこの刀を使う機会はなさそうだった。兵議場をあとにしながら、高橋に上程されるであろう今後の陽動策兼撤退策についてすでに頭の中に一乗谷までの道程の地図を描いて仁保がいろいろと予想を巡らせていると、先日織田軍に射抜かれた足の甲がひどく傷んできた。行軍には馬があるとはいえ、陣中を歩くときは痛みのあまりこうしてびっこを引いている。矢尻は抜き取り、薬草で応急手当はしたものの傷の治りは悪く悪化しているようだった。なんとか一乗谷に戻るまではこのまま悪化せぬようにと仁保は願った。彼にとって戦はむしろこれからで、この撤退戦が成功し親方様を無事一乗谷城までお守りした後こそ、彼本来の城代普請役として役目を果たそうとすでに様々な城の防備策について思いを巡らせていた。彼の見立てでは、あの古い山城の守りの強化のために取り組まねばならないことはそれこそ多数存在していたからである。 ***************************************************************************
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