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その日、午前の診療終了間際に急患が入った。たまにこんな事もあるが、救急車が直接病院に来たのはしばらく振りのことだった。運ばれてきた患者は気の抜けない状況にあったが、仁保は何とか最善の措置を取り対応を終えた。とりあえずの応急処置を施され、設備の関係でここではこれ以上の対処できないため、患者は別の病院に搬送されていった。なんとか命は繋いだものの、そう長くは持たないとだろうと仁保は予感しながら救急車を見送った。そして、その日の昼休み、休憩時間中に病院の事務から連絡が入った。
「先生にどうしても面会したいという方が来ているのですが」
来訪者の名前を聞いて、仁保に思い当たるふしは無かった。用件を聞くと、先日の件との事で詳細は分からなかったが、仁保には先日の件にまったく思い当たるフシが無かった。最近おかしなことを言って診療中の医者と面談しようとする輩がいて問題になっていたため、仁保は用心して連絡先を聞くと今日は帰ってもらうように病院事務に伝えた。
診療が終了するころには仁保はこの事をすっかり忘れていた。しかし帰り際に病院事務から又連絡が入った。昼に面会に来た者から連絡が入り電話番号をひかえていた相手だ。昼間のことといい、かかってきた電話の様子だと存外しつこそうな相手だった。また来られても困るため、帰り際であったが仁保はとりあえず電話を掛けることにした。
「もしもし、福井大附属病院の東ですが。手術の謝礼とかでしたらお気持ちだけで結構です。診療外の金員は受け取れません。」
仁保はろくに相手の話を聞かずそう言う。
「先生!わたしです」
次の瞬間電話からは聞き覚えある若い女性の声が聞こえた。
仁保は呼び出され彼女と会うのに気が引けた。これでは毎月会っているようなものだ。そもそも自分には会うべき用が無いのだ。
この前のドトールに入ると彼女が待っていた。
「先生すみません、またお呼び立てして」
先週とはまた違った出で立ちの彼女が仁保に挨拶をする。この前座った席の近に立っていた。
「病院にきたと聞いてびっくりしましたよ。どこか調子でも悪くなったんですか。」
「いいえ、そうではないのです。」
それだけ言うと彼女は黙ってしまった。仕事帰りの遅い時間に呼び出されて仁保は早く用件をすませたかった、昼に入った急患への対応があったため心底疲れてたのだ。しかし対面した彼女はにこにこしたまま何も言わなかった。仁保はしばらく女性と向き合ったまま黙ってコーヒーを飲んでいたが、その場の居心地の悪さにしびれを切らしたずねた。
「ところで、お話というのは」
「そうそう」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑うと鞄から本を取り出した。
「これが入荷していたんです」
それは新刊の美術史書だった。
「本、ですか」
「ええ、先生が好きだと言っていた伊藤若冲の絵がのっているのを、たまたま書店で見つけて。」
こんな用事のために、わざわざ訪ね電話までして呼び出したのか。仁保は少し違和感を感じた。
「それだけですか」
「先生すごく興味をお持ちだったみたいなので。あんなに日本絵師のことを熱心に話す人、わたしのまわりにはいませんから。」
仁保はこの前彼女にあった時のことを思い出した。
「そうでしたか、あのときはつい力が入ってましたけど」
女性は口元をおさえて笑った。
「伊藤若冲の話題にあんな入れ込む人間はそうそういませんよ」
「ところで何か召し上がりますか。どうもお腹が減ってしまって」
「いえわたしは大丈夫です、どうぞ遠慮なさらず召し上がってください」
「それでは失礼して」
仁保は席を立つとカウンターへ向かった。仁保が戻ってきて暫くすると店員がトーストサンドをテーブルに持ってきた。仁保は急患で思うように昼も摂れなかったため腹が空いていた。コーヒーとともに貪るようにその珍奇なトーストを食べた。
「おひとつ、いかがですか」
仁保は皿の手をつけていない方のトーストサンドを彼女に勧めた。ひとりだけ食べているのに気が引けたからだ。
「いいえ、大丈夫です。」
「そうですか」
「面白いサンドイッチですね、それ」
彼女は真ん丸の目で興味深そうにテーブルの上に置かれた皿をみた。
トーストサンド。それは焼いたトーストを生パンでサンドした、いわばパンだけで出来た風変わりな食べものだった。この前洒落で頼んでみたが、思いの外空腹時にちょうどいい食べ物だった。いつもはケチャップかマヨネーズを出してもらうが、女性のいる手前頼むことができなかった。
この前と同じドトールで席に向かい合って座ると、彼女は滔々と話を始めた。
「先生、さっき、何か召し上がりますか?と言われましたよね。すみません時間差で。わたし今急にお腹が空いてきてしまいました。」
しかしこれ以上、意味も無くこの女と会うのはまずい気がする。今日出掛けに妻が自分を見て言った一言が脳裏に浮かんだ。
「慈央空乃」
この時初めて仁保は彼女の名前を知った。
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戦乱の京から多くの人々が移り住んできて早一世紀。仁保が、ここ一乗谷を出発するとき、一時は一万の人口を数えたこの城下町に往時の面影は無かった。
伴仁保は混乱する住民たちの集団に交じりながら街道を越前・敦賀方面に馬に乗って移動していた。織田軍との合戦に負けた朝倉氏は一乗谷に帰り着くと、すぐさま領民にこの一乗谷を捨てて去るように命令した。もとより命令の出る前に敗戦の報を聞き朝倉家を見限り一乗谷を捨てて逃げる住民も多くいた。避難民の大半が大野方面を目指す中で仁保が越前方面に向かっていたのは敦賀に避難するためではなかった。その途中、北乃庄の朝倉土佐守景行の館に寄るためである。足羽川に沿って北陸街道は敦賀へ繋がっており、大半の避難民は途中で越前方面へ南下して行ったが伴はそのまま川沿いに進路を進めた。しばらく進むと川の向こうに地平線が霞んで見えるほど一面に広がる平原が現れた、のどかなこの牧草地帯の風景に合戦で供出されたのかいつものように草を食む騎馬の姿は殆どなかった。
この先、北乃庄の越前朝倉家がますます発展していったなら・・・。かつて伴仁保は考えたことがあった。この三方を川に囲まれた大平原の地は大きな城を築くのに適している。この無尽蔵に広がっている平原の牧草で数千の騎馬を養成することも可能だし、近くを流れる九頭竜川を下っていけば日本海に面した港があり将来貿易港として活用することもできる。なにより背後の山々さえしっかり押さえれていればこの地からは京都にいくらでも睨みを利かせることができた。本来、一乗谷の山奥よりこちらに朝倉の本拠を置くほうが堂々としていて仁保の性格に合っていた。いまここには妻・空の生家である土佐守朝倉家の出城・北乃庄城がある。いまだ出城というよりは砦の類だったが、土佐守朝倉家が今後多くの武功を立てていけば、将来この地に近代的な石城を築くことも可能だと思っていた、それは仁保の長年の夢であった。しかしその夢ももはや叶いそうにない。
頑強な砦のような北乃庄城の屋敷の前に立つと伴は周囲を見渡した。合戦前あれだけ居た土佐守朝倉景行家の手勢もいまや数少ない、数人の少年が木柵の前で見張りに立っているだけだ。馬を降り屋敷の中に通された仁保は、奥の間で残された景行の家来や家人たちと座して話をした。家人たちに織田との合戦の情勢や景行様について伝えるとともに、ここも織田軍の手に落ちるのは時間の問題だろうからと速やかな退避を促した、みな家人は主人景行の最後を知ると頭をうなだれ涙していた。
仁保が席を立ち館の裏に出ると、妻がいた。合戦の間、万が一に備えて実家であるこの館に避難させていたのだ。しかし朝倉軍の全面敗北となったいま、この生家の砦は織田軍の猛進の前にはあやうい風前の灯火に過ぎなかった。
着物姿の妻は悠然と夕涼みでもしているかのように落ち着いた様子でゆっくりと歩いてきた。
「ご無事で?」
「ああ。」
夫婦はそれきり話をしなかった。ぼんやりと庭に佇んで今は亡き館の主が植えた水仙の群生を見ていた
「ただ景行様と館の方々が・・みな・・・・。」
伴が言葉を濁らすと妻は平然と言った。
「ええ、聞きました。もうこれで北乃庄、土佐守朝倉家も終わりですね。」
「ねえ、あなた。」
滅び行く越前の地の、透明な夕焼けの薄光線を全身に浴びながら、妻の空は言った。
「うちの親方様は戦(いくさ)に弱いのでしょうか?」
滅多なことを言うものではないと思いつつ、仁保はその言葉を遮りその理由を尋ねた。
「なんで空はそう思う?」
「だって勝てぬじゃありませぬか。長年戦にも出て行かず家臣や親戚が頼みの綱で・・・。そしてとうとう彼らも言うことを聞かなくなってからいざ自分が戦に出て行ってみれば、・・・・。」
いや違う。親方様にとって戦というものは、東国の蛮将のように領地を広げたり京に入ったりするものではないからだ。そんな野心があの方には毛頭ないのだ。武田や織田のように兵や軍をもっぱら自分の力の誇示や領土拡大のため使おうとはしない、領地の家臣、民を守るためにこそあのお方は戦っているのだ。しかし伴は言葉にすることは無かった。こうして親類や近衆をすべて失い生家の没落を前にしている妻にはどんな言葉もいまは届かない。
「なあ、空。これからのことなんだが、ひとまずお前は敦賀の疋田城にいる遠戚の朝倉家を頼って逃げるがよいと思う。越前への織田軍の侵攻も時間の問題だが、ここよりは安全だ。」
そう言って伴は懐から敦賀朝倉氏への書状と金子の入った布袋を取り出すと、空に渡そうとした。
「あなたはどうされるのです?」
空は落ち着いて言う。
「これより一乗谷城に戻り最後の普請に取り掛からねばならん。またしばしの別れじゃ、達者でな。」
空は押し黙ったままなにも言わなかった。
「なあ空。おぬしは私とは違い朝倉家直系の血を引くもの。より命をつながねばならぬ身じゃ。わたしと一緒だと危ういのだ。」
それでも空は押し黙ったまま何も言わなかった。
あたりの庭の人工池には今は亡き主より植えられた水仙の群生が咲いていて、傍らに立つ先代の植えた橘樹の陰で夫婦の会話を聞いているようだった。
仁保の言葉に空はしばらくは黙っていた。
妻・空とは北乃庄から戻ってきて以来、一言も口を利いてなかった。
あの日、空が仁保の言いつけを初めて聞かず、毅然と言い放った言葉が今でも仁保の心に突き刺さっていた。
『いいえ旦那様、わたくしも朝倉家の人間としてこれから一緒に一乗谷に戻らねばなりません。これは朝倉家への私の最後の務めでございます』
伴家に嫁いだとはいえわが妻は朝倉家の血の流れる女だ。もう好きに過ごせばよい。
今朝も城内の普請周りに出立する仁保より先に姫様のご出立の準備があるからと馴染みの旅籠屋に最後の挨拶に行ってしまった。なんでも長くつとめた妻のために羽織物を下さるのだと昨日花方の旦那が言っていた。朝餉は用意してあったので仁保はそれを平らげながら、ひとり囲炉裏にて今までのことを思い返していた。
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