6人が本棚に入れています
本棚に追加
5
東尋坊の入り口にある電話ボックスの横に小さな花束を置くと、父は線香の束を焚いて手を合わせた。その日は朝から天気は良かったが、昼前に東尋坊に着く頃にはパラパラと雨が降り出した。そのうち三国港から東尋坊に向かうにつれて風は強くなり、雨も本格的に降り出しそうな気配となったことを覚えている。
駐車場で車を降りるとき、強い風が吹き返してきてあやうく車のドアに手をはさみそうになった。
父に連れられて東尋坊への入り口から、海鮮食堂やお土産屋のある商店街を歩いて抜けて坂を下って行くと、目の前に海が見え見晴らし台の手前まで来た。
強い風で海は荒れていた。これ以上近付くと危ないからと父は断崖からちょっと離れた場所で止まった。そこからしばらくの間、親子2人で黙って海を眺めつづけた。
その内、父が帰ろうと言ったので私達親子はそこを去った。
幼な心に鮮明に憶えているのだが、帰り路にすぐそこにぼんやりと聳える高い建物をふと見たことだ。かなり高い四角い箱のような形をした建物で、それが灰色掛かった白地に印象的な薄い青と薄いピンクの淵取り線のある、東尋坊タワーだった。
自分はなぜかそこに行けば母に会える気がした。父にその建物を小さな手で指差して「お母さんはあそこにいるのかな?会いに行きたいよ。」と話した。母を無くしたばかりの私を不憫に思ったのか、父は易々と自分をそこへ連れて行ってくれた。
東尋坊タワーの展望まで上がると、海がはるか彼方まで見渡せた。しかし、その展望台の中に期待した母の姿は無かった。
「やっぱりお母さんはここにはいなかったね。でも見て御覧、海が真っ蒼で綺麗だよ。」
父はそう言って、長い間海の彼方を黙って見続けていた。
………………………………………………………………………
それは奇妙な光景だった
誰もいない孤島の海岸に女性がたたずんでいた。女性は海に落ちたのか全身ずぶ濡れだった。足元の黒色の岩礁が女性の体を支えてはいるものの、不安定に見えた。その姿は不自然に海面に立つように見えた。
「かっちゃん!たいへんだかっちゃん!!」
仁保は体が針金のように動かぬまま、過呼吸気味に黄色い声をあげた。
少し前に、ここで落ち合うはずだった友達を探してくる、と草の繁みに消えたかっちゃんに声は届くはずはないが、あまりのことに仁保は叫ぶしかなかった。
仁保は逃げたかったが、そのままずぶ濡れの女性を凝視した。悪夢の最中のように、首や目蓋さえ動かすことが出来ないのだ。
女性は藩笑いしながら自分のスカートを雑巾のように絞る。スカートの水を吸った布から止めどなく水が絞り出され、水塊が地面に落ち水たまりをつくる。
その不気味な光景に仁保は立ち尽くすしかなかった。たとえ大人になり、これから様々な試練が訪れようと、これ以上のこわい経験はないだろうと子供心に得心した、それは観念に近いものだった。
仁保は瞬間的にこの女性は自殺者であることに気付いた。東尋坊から身投げして、此島に漂い着いたのだろう。生きているか死んでいるかはもう、知れぬが・・。
「あなた、どうぞ入ってちょうだい!」
妻の冷たく無感情な声が2階にいる仁保に聞こえた。
篠原探偵社(金沢市)と下の方に名前が小さく印刷された薄緑色の封筒をテーブルの上にポンと出すと、妻は静かに言った。
「もう分かっているんです。あなたが外でこの女に会っていることは。証拠だってありますよ、中を見て御覧なさい。」
突然のことに仁保はとまどったが、何ら言い訳をするような事はしてないため、強く言った。
「御覧なさい・・・って。こんな興信所まで使って、いったいどうしたんだ。俺が浮気でもしているとでも言いたいのか?」
「しているとでも、ですって?」
妻は封筒を手に取ると、中にあった報告書と数枚の写真をテーブルの上にをぶちまけた。写真に写っているのは仁保本人と慈央さんと思われる女性だった。いつもいくイタリアントマトで楽しげに語らっている所だった。
「外でただ知り合いと話をしているだけじゃないか・・・。」
「へぇー、あなたのお知り合いねえ。あなたとこの人どんなお知り合いなのかしらねぇ。説明して下さる?」
「説明も何も、そもそもこれのどこが浮気になるんだよ。」
「世間ではこれを浮気と言うんです。誤魔化さないで頂戴。」
ぴしりとそう言い切る妻に、仁保は何も言えなかった。
妻は報告書を淡々と読み上げた。
「『慈央 空乃(ジオウ ソラ) 福井県福井市新保1丁目504-202 34歳 独身 本籍地 福井県鯖江市糺町10 西武福井23区販売店契約社員。』
・・・あなたの彼女よね、その人。」
妻は軽蔑するような冷めた表情で、仁保に言った。
「多少私より若いからって私に対する当て付け?」
妻の怒りは収まらない。仁保は言った。
「当て付けも何も、そうやって他人(ひと)を貶すような発言はやめなさい。失礼じゃないか。」
「あなたこそ、いい年して恥ずかしくないんですか。自分の家族を愛する義務を果たさないで、外で一体何をやってるの。」
妻はもともと金沢の出身で、福井に住むことをはじめから由しとしなかった。結婚当初は何度も金沢にある大学病院や総合病院に転職は出来ないものかと、仁保に再三掛け合っていた。
金沢でも由緒のある染め物問屋の出の家柄の出、そこの跡取りの長女であった妻は若い頃には東京の大学に通っていたらしい。プライドが高く勝ち気で、何でも競争と捉える傾向が強い女だった。
仁保が医者だったから彼とすぐに結婚したというのが彼の周りの人間の感想だった。医者と言う職業の夫に、何かしらのステータスを求めていたのかもしれない。
しかしはっきり言って医者など、うまく行っている開業医以外はそれほど儲かるものでもない。割に合わない仕事も多い。大学の附属病院に勤務する自分を見て、妻も結婚後はそれに気付いたことだろう。
金沢にある妻の実家に結婚前行ったときに、妻の性質の源流を感じたことがあった。妻の実家はその町の名士の後裔で由緒正しき家柄であった。その父親も名家の出を気取っているような人物だった。仁保が医者であることに、なにか一定の尊敬を表してはいたが、義父はこの世の中で医者や弁護士以外の者は碌な仕事が出来ない人間だと決めつけていて、自分が商家であるにもかかわらず商人を馬鹿にしていた。
「十のものに色を付けて十五で売る。中には百で売るようなやつもいる。そんなもの儲かるのは当たり前です。世の中に、商学なんてものは無いのです、ただ商才のある者が幅をきかせて威張り、そのうち政治や経済のことまで口を出すようになるだけです。だから、世の中はますます駄目になっていきます。先生もそう思いませんか?」
妻の父は、私のことを決まって先生と呼んだ。最初の内は何だか嫌で変えてもらおうと思ったが、もう今ではどうでも良くなってしまった。しかし、自分の患者でない者から、先生と呼ばれるときの違和感だけは何時迄たってもなかなか拭えなかった。
「東先生。それ完全にアウトですよ。」
目前に娘の有名私立小学校への入学を控え、終始上機嫌だったムロハシはその話を聞くと急に態度を変え、仁保に向かってそう言い切った。
「だってその女性は患者でも何でも無いんでしょ。なぜ外で定期的に会う必要があるの。不自然な感じですよ。」
ムロハシは、何か嫌な話でも聞かされたかのように言った。そしてビールジョッキを空けると獅子唐か何かの串をつまんで食べた。結婚以来、奥さん一筋で健全で幸せな家庭を築いてきた彼にとって、今、仁保が話をしたことは全く分からないことだった。
「やっぱり、そうなるか。」
「そうなるも何も。それが患者さんだったとして、病院の外で会うなんてどうかしてます。」
正論を吐き続けるムロハシの言葉に、仁保は何も答えられなかった。
「信用。東先生の行いは自分の信用を貶めるだけですよ、忠告しておきますけど。」
そう言ってムロハシは一串だけ残っていたムネ肉の串をつまむと辛味噌を付けずに食べてしまった。空の焼き鳥皿には使わなかった辛味噌だけが残った。
「会ってもお茶を飲んでいる丈(だけ)だから、会っても話をしている丈だから、大丈夫。なんて、はは!そんなこと絶対に無いですから。不倫は不倫ですよ。でも、その女性もちょっとおかしいですよ。ずれてますよ。既婚者と知っていて寄ってくるなんて普通じゃないですよ。」
ムロハシの言葉は容赦がなかった。
「奥さん以外の女性に会って話すことなんて何があるんです。やましいこと以外、何もないでしょう。」
「俺の」
「え・・?」
「俺の風景に足る女性でないと、どうもだめなんだ。困るんだ。」
「風景に足る、女?」
「うん」
「なんすかそれ」
「ほら、お前にもいるだろ。たまに夢に出てくる、理想化された初恋の女とか、昔の別れた恋人とか、夢から覚めてもしばらく余韻が残るような奥深い女性が。」
「ははは、ないですよそんなの。先生、意外とロマンチストなんすね。でも、それは奥さんがいる男が言うセリフじゃないなぁ。そんなこと口に出して言っちゃうからダメなんだ。」
ムロハシは運ばれてきた豚バラ肉串から一本を頬張ると、ビールのコップを空にした。
「あとどーしても気になるんなら。その時は」
「その時?」
「バレなきゃいいんですよ、先生」
そう言ってニヤッと笑うムロハシを見て、仁保はある決心をした。
--------------------------------------------------------------
「もう会えなくなりました。これでお別れです。」
仁保は席に戻るや否や、開口一番こう告げた。
空乃の口から声にならない声が出た。その声は2人とも聞き取れなかった。この前先生からもらった誕生日祝いのお返しに今日空乃は今から仁保に渡そうと西武福井で買った許りの菓子の包みを、ビニール袋の取っ手を手に握りしめて、膝の上に置いていた。
「それは、東先生のお意志でお決めになったことですか?」
息を飲むようにそっと夏空(そらの)は訊いた。
「ちがいますよ。でも、もう会えないのです。」
仁保は理由を言わなかった。
「そうですか。私と会うのが嫌になったのですか、わかりました。」
空乃は仁保から顔をそむけると、暗い表情で鞄を持って立ち去ろうとした。
「それは違いますよ。嫌いとかの話ではなくて、今回はやむなくそういう流れになったのです。」
仁保は空乃を席に引き止めると、早口でまくし立てた。
その後、しばらくはお互い黙ってしまい、2人が飲み物を飲む音だけが聞こえていた。
長い沈黙の後、夏空(そらの)は決心したように言った。
「わかりました。でも最後に聞かせて頂けませんか。あの時、先生は誰かに似ているといって病院でむ私を引き止めました。あんな真剣にそう言われたのはじめてだったもので、今でもよく覚えてます。先生、その人の特徴について最後に教えてほしいんです。」
「空乃さんに似ている人の?」
「はい。」
思わぬ問いに仁保は躊躇したが、気が付くと仁保は自分がよく見る夢の話を空乃にしていた。空乃はグラスのストローをかき回しながら興味深そうに聞いていた。
「実は、空乃さんに似ている人というのは夢の中で会う人の話だったんです。ここ最近はあまり見ないのですが、真夏とか真冬の時期に自分は決まって体を壊すことがあって数日間高熱が出て寝込んでしまいます。その時、体中が灼熱のように熱を帯びてうなされながらいつも同じ怖い夢を見るのです。始めにいる場所は華やかな都のような所で、そこは古い家々が連なり賑やかな人で溢れています。そして決まって自分はそこをあなたと似た人と歩いているんです。顔の輪郭、目元、雰囲気、もう本当に空乃さんとそっくりで、あなたとこうして会っているうちに夢の中でぼやけていたかの女性の顔の輪郭まで思い出せるようになりました。いつも明るく笑っているあの女性と腕に抱いた赤ん坊、町の風鈴の音と穏やかな山からの風を聞きながら自分はゆったりと歩いています・・。」
「夢の中の人だったんですか、わたしに似た人というのは。現実にいる誰かじゃなくて。それが怖い夢?」
唖然として空乃は聞いた。仁保は臆することなく話を続ける。
「だけどあの夢は本当に気が狂うほどの現実感があって。ほんとうにやり切れないほど悲しい夢なんです。やがて場面は急転します、自分はいつしか兵士になっていて自分の国が攻められてしまいます。どこかの峠での血みどろの激しい戦い、斃れる兵隊、焼かれる町、泣き叫び逃げ回る人々、本当に地獄絵図です。自分は必死になってあの女性を探します、誰もいない。最後には炎で灰燼となった屋敷にたどり着きます、するとそこで焼かれた屋敷の井戸の前で子供を抱いたまま泣いているあの女性を見つけるのです。そしてそのまま泣きながら女性は赤子と消えてしまう。そこでいつも自分は泣きながら目を覚ますのです。」
「・・・子供・・井戸。」
そう言うと空乃はストローを動かすのをやめ、元のように目の前の椅子に座り仁保のことを見続けていた。こんな話をしているときでも彼女が彼に教えたのは、彼自身が感じている彼女の魅力の再確認だった。過去の女性の面影云々(うんぬん)の話しを置いといたとしても、彼女は彼女で魅力的だったのだ。
「でもわたし、先生の夢の中の住人だったなんて、光栄です。」
目の前の夏空(そらの)の魅力に再び気づき始めていた仁保は、 夏空(そらの)のこの言葉で更に決心が揺らいでいた。今自分周囲に、こうまで言って自分の見る他愛無い夢の話を聞いてくれる人間が果たして他にいるだろうか?今後彼女と会わないと決めた契機となったものは、妻のきつい叱咤も、親友の忠告の言葉も、その力を弱めてどこか彼方へいってしまった。いまはただ、夏空(そらの)のことを許容している自分だけが残っていた。
仁保は最後に残ったコーヒーを飲みほすと、話しを終えた。
「詰まんない話ですよね、がっかりしましたか。でもどうして最後にそんな事を聞いたんですか。」
空乃はちょっと考えてから、言った。仁保へ最後の一押しをして自分の方に踏みとどまらせるように。
「先生がわたしを呼び止めた本当の理由を知りたかったから。実際のところ、先生はまじめだから本当に似ている人がいるんだろうって思ってました。口先だけで咄嗟にそんなことを言う人には見えませんでしたから。でも先生、私いろいろ相談したいことがあるんです、先生に。」
空乃のこの尤もらしい言葉の前にあやうく堕ちるところだった仁保は、妻や子供のことを思い浮かべると最後の力でそれを振り切り言った。
「すみません。でも、先程お話ししたように、もう会えないのです。」
空乃はこの空振りに、思わず上気して言った。
「どうして。あの時私の事呼び止めたのは。」
とうとう仁保は観念した。
「今正直に話しました。あの時あなたを呼び止めたのは、本当に似ていたからなんですよ。夏空(そらの)さんが夢の中のあの女の人にとてもよく似てたんです。会って話しているだけで、それだけで心が癒されます。失われた過去の思い出が甦ったような感覚がして、贖罪と言うか、本当に幸せな気分になりました。とにかくもうこれ以上空乃さんの姿を見るのがつらいんです、自分は・・。」
空乃は真正面から言った。
「私って、先生の夢の中にまで出てくるのに。現実の世界では私の言葉に先生は一顧だにしないのですね。」
仁保はもう二度と彼女には「会えない」とは言えなかった。
「私はその夢に出てくる女ではありません。そんな女の人この世にはいませんよ。だからちゃんと目の前に存在する現実の私の言葉にしっかり向き合ってくださいよ、先生。」
「だからわたしも、先生にだけ話しますね。」
そう言って空乃は静かに仁保の眼を見た。
「憶えていますか?前に北の庄通りの神社にいった時に話したこと、井戸の話。」
「ああ、初めて会った頃、柴田神社に行きましたね。空乃さんは福井城の井戸を嫌いなんでしたっけ?」
そう、とだけいうと彼女は子供のように頷いた。さして何か打ち明け話でもするかのように、小声で仁保に語り掛けた。
「子供の頃、親戚のおばあちゃんの家に遊びに行った時のことなんです。大野か勝山の方のどこかの田舎だったと思うんですけど、近所の子と遊んでいるうちに変な井戸を見つけたの。」
「井戸?」
彼女はまた小さく頷いた。
「近所の子とかくれんぼしていてね、身を隠そうと思い深い茂みに入り込んだら後ろ向きに雑林に転げて倒れてしまって。気が付くとどこかの大きなお屋敷に入ってしまっていたの。茂みから抜け出すと大きな建物があって、軒に大根だか菜っ葉だかが紐で吊るされているような古いお家だったわ、興味深げに見てると裏の方から子供の叫び声が聞こえたの、びっくりして行ってみると馬小屋があって、その横の井戸から子供たちが一斉に逃げ出したところだったの。」
「近所の子ですか?」
「それが見たことのないような子たちで、みんなちゃんと着物を着ているのよ。泣きながらどこかへ行ってしまったわ。わたしも怖くなって後を追いかけようとしたら、井戸の方から何か呼ぶ声がして。」
仁保はこの話を黙って聞いていた。
「怖かったけど井戸に近づいたんです。井戸の中を覗いてみると、ずっと下の底に、着物を着た小さな男の子が水に漬かり泣きながらこっちを見ているんです。大丈夫?て聞くと頷くんだけど肩まで水に漬かってて青ざめた顔はひどく震えていて、どう考えても大丈夫じゃないんです。落ちちゃったの?と聞くとまた頷くんだけど体が更にひどく震えて、よく見るともう一人子供がいてその子を抱きかかえながら何とか井戸の壁面に体を押し付けて落ちないようにしてるんです、必死に震える手で汲み桶の手綱を握りしめて。」
仁保は息をのんだ、こういう話を聞くことは昔から苦手だった。
「ずっと声をかけて励ましていたんだけど、『おねえちゃん、たすけて、おかあさんをよんできて。』と言うと男の子はとうとう井戸の底の闇に飲まれて消えてしまったんです。その子を助けようと身を乗り出したわたしも井戸に落っこちてしまい水面の闇がどんどん迫ってきて・・・・・。その後のことはあまり覚えていないんです。古い井戸跡の窪みに倒れていた私を近所の親子が発見してくれました。そこは大昔に埋めらた井戸の跡らしいんです。転んで気を失って変な夢でも見ていたのでしょうね。」
何か不気味な話で仁保には言葉が出なかった。
最初のコメントを投稿しよう!