彼は変わってしまった①

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彼は変わってしまった①

「こちらが、ディータ・アッカーソンが最後に描き上げた作品となります。再度申し上げますが、こちらの絵画……そして、このアトリエにて起こり得る事象は何であろうと当方は責任を持つことは出来ませんので」  ご了承を、とリディは言った。もう何十年も使われていない、埃まみれの小さなアトリエ。カーテンは締め切られたまま。明かりは部屋の中央辺りで天井からぶら下がる、たった一つの電球のみ。光を嫌うこの空間に、リディ以外の誰かが来たのはいつ以来だろうか。  まさか、再びこの絵が欲しいと言う者達が現れるとは。 「……この絵に掛けられた布は、外しても?」 「申し訳ありませんが、それはご遠慮下さい。この絵の布は取引成立後、皆様の管理下で無関係の人を巻き込まないような場所で外してください」 「えー? 気になるなぁ」  リディは絵の前に立ち、布を剥ぎ取られないように庇う。とは言っても、リディは齢七十を超える老婆だ。背筋は真っ直ぐ伸びているものの、元々痩せていた身体は歳を重ねて更に細くなった。  対して、相手は男。それも二人。どちらもリディより若い。力づくでは敵わないだろう。  だが幸運にも、彼等は布を無理矢理取ろうとはしなかった。 「……仕方ない。これは本物だ、間違いないだろう」 「そう。じゃあ、良いか」 「取引は成立だ。この絵を貰おう」  二人は顔を見合わせながら頷いて、リディに言った。ほっと、安堵する。それにしても、おかしな人達だと思う。 「……私が言うのも何ですが、この絵は……ご存知の通り。今までに何人も、何十人もこの『兄』の絵を欲しいと言ってきました。でも、この絵は必ず持ち主を不幸にします。展示した美術館は相次いで火災に見舞われ、絵を見たものは正気を失い、病を患い亡くなっています。ディータは才能を認められていましたが、この絵以外に発表した作品は存在せず無名に近い作家です。それなのに……」  どうして、この絵を欲しがるのか。少し前までは、面白半分に所有しては不幸に陥った者達が何人も居た。この絵の呪いが本物だと断定されたのが、二十年くらい前だろうか。好き勝手に騒がれたのも束の間。時が流れるうちに話題にされることは無くなり、世界から忘れ去られて。今ではずっと、このアトリエで古びたイーゼルに置かれたままだ。  この絵は本当に呪われていると、妹であるリディに押し付けられて。ずっと封印してきたというのに。 「……ま、それは内緒ってことで」 「この絵は我々が責任を持って管理させて貰う。他の人間には見せないようにする、約束しよう」  言って、男達は絵を布に包んだままジェラルミンケースへと仕舞い込んだ。中には緩衝材もしっかり入っており、ケースの作りは頑丈だ。鍵まで付いている。  そうやって、数多の死者を出した絵画は何とも呆気なく彼等の手に渡ってしまった。 「譲って貰っておいて何だけど、この絵……そんなに危ないモノならどうしてずっとここにあったの? 燃やしたりして処分しようとは思わなかったの?」 「……兄が残した唯一とも言える遺品なので」  これまでに何度も繰り返された問い掛けに、リディは苦笑する。燃やしてしまえ、存在ごと世界から抹消しろと何百回も言われてきた。事実、そう罵られて火を付けられても文句が言えない程に、この絵は罪深い。  でも、リディにはどうしても出来なかった。 「それに……この絵を描いている時の兄は、何だか楽しそうだった。まるで、好きな人をモデルに描いているような、誰かに恋をしているような。周りは異常だ、悪霊に取り憑かれているって言っていたけれど……当時の兄は、とても幸せそうだったのです」  だから、どうしても絵に火を点けることが出来なかった。兄の『幸福』を壊すことなんて、リディには不可能だったのだ。 「へえ……ねえ、お婆さん。もし良かったら、お話を聞かせてくれない? この絵を描いた、お兄さんの話を」 「え、ですが」 「まあ、せっかく手に入れた絵だ。描いた作家がどんな人間だったかは、興味がある」  二人の申し出に、リディは戸惑う。兄の話を聞きたいという人間も、今までに何人も居た。でも、リディは頑なに話すことはなかった。  たった一枚の絵のせいで、ディータ・アッカーソンという人物像は好き勝手に歪められてしまっている。リディが知っている兄と、世間で広まっている評判は全く一致しない。でも、それを否定し塗り替えるだけの力は、老いた彼女にはもう無い。  でも……それなら、彼等にだけは。 「……わかりました。私が話せることは、あまり多くはないですが」  皴だらけの頬を、ほんの少しだけ緩めて。リディはこれから先、自分の代わりに絵を護ってくれるであろう男達を真っ直ぐに見据える。  そして、過去を思い返す。 「兄は……四年という月日をかけてこの絵を描き上げた後、すぐに病死しました。二十四歳でした。それまでの兄は優しくて、旅が好きで、何にでも興味を示す無邪気で子供のような人でした」
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