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しかし翌日になって『必要がなくなったので家宅捜索はしません』との知らせがあった。莉子はほっとしながらも『こっちは被害者よ。トイレのドア、壊しておいてなんなのよ。当たり前よ』と怒りまくっていた。赤ちゃんによくないから、もう忘れようと宥めて、家族三人でなんとか日常に戻ろうとした。
でも。美鈴の中で、時々、彼の匂いが鼻を掠める。ジャケットがないのに、ないがために、鮮烈に匂いを覚えてしまっている。
働く男の、日常に配慮が行き届かないジャケットの匂い。汗と外気と体臭と、濡れた雨の匂い。ほんのりと熱い皮膚の温度もだ。
そしてあの目。近寄ってはいけない男なのに、あの真摯な黒い瞳が美鈴の脳裏に焼き付いて離れない。あのような非常事態の最中でも、彼はいつもどおりの顔と落ち着きだった。そのうえ、手際のよい格闘に的確な銃撃の腕前。そういう頼もしい男らしさを、美鈴は何度も思い返していた
。
美鈴は、窓から海空を見上げる。きっと、もう、二度と会えないだろう。
こんな鮮烈な姿を残して、名も知らないあの人は警察に追われているから、もうここには近づけない。
「さよなら。ありがとう」
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