9.マリンブルーの日々

2/11
前へ
/148ページ
次へ
 やはり彼はなにも言わない。寅の尻尾しか見せてくれない背中、その背に美鈴はそっと頬を寄せた。  この人、これからどこに行っちゃうんだろう。いずれ仮住まいのここを引き払ってしまいそう。なんのために、この港町に来たのだろう?  一晩だけ。そう思ってきたけれど、女を連れ込むことなど想定外だった男の部屋に、女と隔てるためのものは準備されていなかった。  なんの準備もなく愛しあってしまうことをわかっていて、それでも望んで。後先なんか考えずに。ふたり一緒に越えてしまった。  なまぬるい潮風がベッドにいるふたりを静かに撫でていく。 「タケルって、どんな字を書くの」  トラの尻尾を撫でていた美鈴へと、彼が肩越しに振り返る。 「尊の字、一文字でタケル」  名字はと聞けなかった。聞いたらもしかして、なにもかもがわかってしまって二度と近づけなくなる気がした。いままで同様に彼からも、何も言わない。 「うちのお料理、食べに来てくれてありがとう。弟がいつもあなたのことを気にしていたの」 「彼の料理は、俺のような中年でも口に合ったからね」
/148ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3491人が本棚に入れています
本棚に追加