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やはり彼はなにも言わない。寅の尻尾しか見せてくれない背中、その背に美鈴はそっと頬を寄せた。
この人、これからどこに行っちゃうんだろう。いずれ仮住まいのここを引き払ってしまいそう。なんのために、この港町に来たのだろう?
一晩だけ。そう思ってきたけれど、女を連れ込むことなど想定外だった男の部屋に、女と隔てるためのものは準備されていなかった。
なんの準備もなく愛しあってしまうことをわかっていて、それでも望んで。後先なんか考えずに。ふたり一緒に越えてしまった。
なまぬるい潮風がベッドにいるふたりを静かに撫でていく。
「タケルって、どんな字を書くの」
トラの尻尾を撫でていた美鈴へと、彼が肩越しに振り返る。
「尊の字、一文字でタケル」
名字はと聞けなかった。聞いたらもしかして、なにもかもがわかってしまって二度と近づけなくなる気がした。いままで同様に彼からも、何も言わない。
「うちのお料理、食べに来てくれてありがとう。弟がいつもあなたのことを気にしていたの」
「彼の料理は、俺のような中年でも口に合ったからね」
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