5.保

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5.保

   研修が一通り終わってからも、個人的な質疑応答にだらだら捕まってしまった。  簡単な報告を書類に書いて最後に会議室を出たのは七時半過ぎ。スマホを取り出しているとエレベーターの前にあるベンチに匡樹が腰掛けていた。 「連絡するんじゃなかったの」 「待ちきれなくてさ。このまま帰る?」 「その前に、交通費精算と報告書だけ出させて」 「りょーかい」 「って、何階行けば良いんだっけ」 「総務課? なら五階だよ」  本社なんてほとんど来ないし覚える必要もないからどの階に何の部署があるかいまだによくわかっていない。同じ社章のネームプレートをひっさげてなければ完全なる部外者だ。結局誘導してもらいついて行くと、すぐに顔なじみであろう人間が匡樹に声を掛けてくる。そういえば以前斉藤が「喜久川の電話番号を知らない同期はいない」と言っていたけれど、匡樹の知名度はそれよりもっと幅広いようだ。謎の誇らしさ半分、嫉妬半分。  書類の提出が済んだら駅までの道を歩く。当然「飯でも食う?」の流れ。断るすきを与えられず、高架下の大衆居酒屋に入った。 「お盆は、ゆっくり休めた?」  オーダーしたビールをさっそく匡樹はぐいっと一気に半分まで飲み干す。  前妻と不妊治療をしていた期間、禁酒を数年していたらいつのまにか飲めないイメージが付いていたらしいのだが、匡樹は元々割と上戸の部類だった。また酒を飲むようになって保も匡樹が摂取できるアルコール量に驚いていた。 「ああ、実家に顔出した。喜久川さんは?」 「俺も墓参りの一日だけ帰ったかな。肩身狭くってさ、本当は日帰りしかったんだけど。早々に逃げてきた」  離婚の事だ。届けを出してから親には事後報告したとのことで、大分臍を曲げられたという。 「特に母親にはまだ許されてないらしくてさ、ことごとくお小言降らせてくんの。色々とやりづらかったよーまったく」 「ああ、ね。そういえば喜久川さんって兄弟いるの?」 「うん。兄が一人」 「意外。長男かと思ってた。面倒見良いから」 「わっそれもしかして褒めてくれてる?」 「そりゃね。俺は毎回十人以上の飲み会なんて金貰ってもやだもん」  普段はぴしっとしてるくせに、へらっと無防備に笑うとき、匡樹は子供のようになる。 「歳が離れてるからまあほとんど一人っ子みたいな感覚で育ったんだけどね。小学生になった甥がいるんだけどさ、この前久々に会ったらなかなかの生意気になってたよ」   なるほど、だからフォーラムで見た時、子供の扱いに随分慣れていたのだ。 「でも、遊んでやるんだろ? 一緒に」 「そうそう。今回は大人と集いたくないからさ、むしろこっちが相手して貰ってるみたいになってた」  ふふふ、と少しだけ笑ったら、匡樹にじっと見られていることに気づいた。久々に会ったから、視線が気になってしまう。 「保は前、一人っ子だって言ってたよな」 「ああ。こっちは正真正銘好き放題育ったよ」 「…保さ。俺のこと、避けてるよね?」  新しいビールを注文して匡樹は唐突に切り出した。それまで日常的だった空気が一気に変わる。 「…避けてない」 「嘘だ。避けてる」 「うん、…避けてる」 「どうして?」  保は押し黙った。自分の気持ちを、どう説明すればいいのだろう。 「俺のこと、もう嫌いになった?」  ぽつんとつぶやくように言われる。店が騒がしいのを良いことに、保も思い切って首を振った。 「そうじゃない、けど」 「けど?」 「俺ばっかりが喜久川さんと会ってると、時間泥棒みたいで悪い気がして」 「…誰に対してよ?」 「喜久川さん本人にもだし、…この前飲み会に来てた後輩っていう女性たちとか…喜久川さんのこと、好きなかんじだったから」 「そんな、後輩のことなんか一切関係ないじゃん」 「なくない。今まで喜久川さんは離婚したてで寂しかったから俺と一緒にいたかも知れないけど、一歩外に出たら俺よりいい人がいっぱいいる。喜久川さんと一緒にレクリエーション楽しめる、女性の、明るい人が喜久川さんの出待ちしてる」 「待って待って。俺がいつそんなこと言った?」 「言わなくてもわかる。だって、もう一度やり直すなら失敗したくないだろ」  店員が追加のビールを持ってきたので会話が中断する。  保は改めて声のボリュームを下げる。 「俺は余っちゃったフリータイムを埋めてるだけって」 「脳内脚色かかってるって! あれは、俺が無理言って埋めて貰っちゃってるって意味だよ」  今度はさきほどメニューも見ずにとりあえず頼んだしらすのだし巻き(本日のおすすめ)が置かれ、再度流れる沈黙。  店員が去ったらそれを匡樹は一気に口に入れてしまうと立ち上がった。 「もういい、誰にも聞かれない静かなとこでちゃんと話そう」 「ビール、来たばっかだけど」 「いい。出るよ」  伝票を持って匡樹は立ち上がって会計に行ってしまう。  テーブルで取り残されたビールジョッキは一人汗を掻き始めていた。
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