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2.保
指定の居酒屋に行くと二十名ほどが座れる一角の長テーブルはほとんど埋まっていた。
給料日後とはいえ、ただの土曜日。毎度毎度本当に、よくこんなに人数集まるな、と保は感心する。
「保、こっちこっち」
偶然だろうかあえてだろうか、ひと席開いていたのは匡樹の隣だった。
いつもの、と聞いていたのだけれど見渡せば中には知らない顔もちらほら混じっていた。
「ビール?」
「うん」
早速追加でオーダーしてくれる。ドリンクはまだ来ておらず、みんなしてメニューを見比べているところだった。
「あ、いいの発見。保これ好きなんじゃない? 気まぐれ料理長のあり合わせマリネ。かっこ厨房のものをぶち込みます、だって」
「面白そう。食べたい」
「って言うと思った。あ、こっちは?」
「喜久川、一色さんの食の好み、やたら詳しいじゃん?」
やりとりを聞いていた斉藤が指摘する。
「保は、意外とチャレンジャーなんだよ。見てるとよく変な組み合わせとか特殊な名前の料理とか好んで食べてるの」
「へえーそうなんだ。一色さん、苦手な料理は?」
訊かれて考えてみるが食べられないものが思い当たらない。
「…虫?」
「…げっ本物だ」
大げさに椅子の背もたれに仰け反った斉藤と、隣で弾けて笑う喜久川を見比べる。本当はアマゾン奥地の部族で提供されるカブトムシの幼虫くらいだったらけっこう食べれそうだと思ったが補足しない方が良さそうだ。
「ていうか喜久川と一色さん、なんか知らないうちに一気に仲良くなってるよね」
「そうかな」
「そうじゃんー。喜久川もいつの間にか名前呼びになってるし」
お互い顔を見合わせ、なんとも言えないような表情を作った。どう答えて良いのやら。匡樹の方はすぐに斉藤に対して軽い笑みを向ける。
「保は俺の有り余ったフリータイムを埋めてくれてるんだよ」
「ああ。相手して貰ってるんだ? 喜久川、寂しがりっぽいもんね」
「そうなんだよ」
斉藤の言わんとしていることはわかった。離婚して、一人の時間を埋める相手が自分だったと解釈したのだろう。でも、すぐに匡樹が肯定したので少し傷ついた。寂しいから一緒にいるだけだと聞こえる。
酒が進んでほどなくわかったことがある。
見かけないと思っていた数名は同期ではなく後輩だった。部署までは知らないが、匡樹かもしくは仲の良い誰かが誘ったのだろう。
「喜久川さん、お酒次何飲まれます?」とか「お皿交換しますね」などと甲斐甲斐しく世話を焼こうとしている。
「気にしないでよ、自分でやるから」
「駄目ですよ、先輩なんですから。私たちにさせてください」
「やめてやめて。この会ではいっつも俺がその役だからさー、いたたまれないよ」
一応断ってはいるものの、苦笑しながらもされるがままになっている。
こっそりトイレに一人立って、なるほど、と手を洗いながら鏡に向かって保は頷く。
決まった従業員と常に工場に缶詰にされている自分とは違い、匡樹は本社勤務で営業だ。経理、総務、内勤と満遍なく他の部署との関わり合いを持つ。
どこかから離婚の情報が流れてもしかしたら狙いに来たのかな、と下世話なことをどうしても考えてしまう。彼女たちの振るまいは気遣いの範囲であからさまなアピールはないものの、どうしてもそっちの方に見えてしまってしょうがないのは自分が匡樹のことが好きだからだ。
でも、誰かに好きという感情を抱くこと自体が人生において最初のことで、この胸騒ぎを自分でどう対処していいかわからない。初めて回転寿司にやって来て、独特のシステムに戸惑っているうちにみるみる目の前をネタが過ぎていってしまい途方に暮れてしまう、外国人のような気分だ。一人でカウンターの丸椅子に座っているので、アドバイスをくれたり助けてくれる人もいない。
ゴーヤのあく抜きみたいに、どこかの誰かが気持ちを収める方法を指南してくれたらいいのに。
戻ってくると自分の席が埋まっていたので、これ幸いと隅の方にちょこんと飲みかけのドリンクと共に移動した。匡樹の隣じゃ、女子の言動が気になってしょうがなかったのだ。
「あはは。見てよ何あそこ、ビンゴ大会? 喜久川、トップ賞の景品みたいになってんじゃん」
今度は横になった斉藤が面白そうにコメントする。
保ははっと顔を上げた。
「やっぱり斉藤さんにもそう見えますか?」
「見える見える。お、アタックチャーンス!」
誰のものまねなのか、斉藤が声を掠れさせ拳を振り下ろした。先ほどまでいた席をちらちと見ると、左横から匡樹の腕へボディタッチが繰り出されているところだった。一瞬固まったのち、保は視線を逸らした。
前言撤回、争奪戦があからさまになってきた。
心臓の表面が無防備に日焼けしたみたいにひりひりする。
「彼女たちは喜久川さんの部署の後輩ですか?」
「二人は営業内勤ね。んであと一人はうちの子。匡樹と昼休み立ち話で今日のこと話してたらさあ、なんか流れで呼ぶことになっちゃって」
そうだよなあ、と嫉妬よりも先に妙に納得してしまった。
あんなに欠点を探すのが難しいような男がこのたび独身の水槽に再度放たれたのだから、当然周りが放っておくわけがない。加えて男盛りの三十歳。バツイチなんて、なんのハンデにもならないよなと思う。
むしろ匡樹にその転機が訪れたことで体のいい慰めの道具にすらなり得る。
そういえば、自分は匡樹をその点において一度も話を聞いたり慰めたことがない。
離婚してから一緒にいるときは、一度だって匡樹は弱気な発言はしなかった。思いつかなかったけれど、もっと自分からさりげなく話を振って、聞いてやればよかったかもしれない。さりげなくが、うまく出来るかはまた置いといて。こんなぎらぎら瞳孔を光らせる女たちに囲まれた現場を目の当たりにして、今更後悔する。
匡樹が離婚したからって、自分のための特等席が横に用意されているわけではないのだということに、保は気づかざるを得なかった。一人身になった今、こんな風に恋をするきっかけなんて匡樹の周囲には山ほど転がっている。一から始める相手は別に、自分じゃなくったっていいのだ。
はっとした。だからあの時匡樹はあえて曖昧に言ったのかもしれない。
『お友達から』と。
だって、そうじゃなきゃずっと取り囲まれたままでいる理由がわからない。言い訳してその場を離れたり、話を誰かと繋いで席を交換したり、仕切り上手の匡樹ならば簡単にできることじゃないか。
いよいよダークになってきた思考を保は慌てて断ち切った。
だったとして別に匡樹に罪はないし保は何も責められない。人間の感情は自由であるべきだ。あの中に、意中の女の子がいるなら仕留めればいいのだ。
グラスにじっと目を落としていたら、話しかけられていたのに気づくのが遅れた。
「……はさ、あの中で誰がタイプなの?」
「え?」
「だから、好きなタイプよ」
三人を交互に見比べながら少し考える。
「右隣の女性ですかね」
「へえ、妹系だ。『もう、おにいちゃーんっプリン食べたでしょ!』とか言いそう」
三人の中で一番、匡樹の前妻に似ている気がしたのだ。丸っこい輪郭、ふんわりしたロングの髪をすとんと下ろしている。
ちょっと待て。改めて比べてみると自分は、何一つ匡樹の好みと違うじゃないか。いやまず性別から近寄れないのは大前提だから一旦置いておくとして、それにしてもあんな華やかな笑顔なんて、絶対振りまけない。愛想も良くない。張り合う対象が自分と違い過ぎて保は更に絶望的になった。
「喜久川さんは、どっちかっていうと可愛らしい人が好きなんじゃないですか」
「あはは、違う違う。あいつじゃなくって、一色さんのタイプの話してんの」
「え、俺?」
「そうだよ、一色さん相変わらずとぼけてるなあ」
「俺は…」
取り合いの中心にいる人物ですなんて言えやしない。自分がもしそのビンゴ大会に参加させられたのなら、きっと彼女たちには手も足も出ないだろう。
「よくわからないです。好きになった人は、今までで一人だけなので」
人間との関わりを極力避けて生きてきた保としては、こうして誰かを好きになったことすら奇跡みたいに思えた。
「えー一人だけ? 一色さんって一途なんだね。ちなみにそれは、現在も進行中?」
「はい」
頬杖をついた斉藤は小気味よく笑う。
「その人は、すごい幸せ者だね」
「どうしてですか?」
「だって、一色さん、今めっちゃ真剣な顔してるもん。本当に好きなんだーってわかるよ」
不意打ちで言われて、思わずぐにゃりと頬が歪んだ。
匡樹が、好きだ。ずっと好きだ。
匡樹のEDを無事治すことができて、もう自分の役目は終わったと一度は断腸の思いで別れた。それから、思いがけず幸運が舞い降りた。匡樹の方から告白してくれるだなんて、今も週に一度会えるなんて、この状況が未だに夢なんじゃないかと思うときがある。だから本当は、この現状だけで満足のはずだ。会えるだけで十分だと思わねばならない。
でも、やっぱりどうしても怖い。匡樹がこの先誰かと付き合って、もう一度恋人関係を築いてしまったら、またあのつらい思いを繰り返さねばならない。
酒のせいか、いっそ斉藤にあれもこれも全部ぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。
でもこっちも一応社会に準ずる大人だし、彼の体裁があるので保はぐっと黙った。
ふいに斉藤がはっとした顔になる。
「あ、一色さん、動かないで」
「え?」
「まつげついてるよ」
頬に触れられた。得意げに斉藤が一本まつげを見せてくる。
「すみません」
「どっかの国でね、願い事しながらこんなかんじでとれたまつげにふって息吹きかけると、その願いが叶うっておまじないがあるんだよ。知ってる?」
「知らなかった。誕生日のろうそくじゃなくて?」
「うん、それと一緒の原理。はい」
斉藤は白い手の甲に保のまつげを置いて差し出す。
願い事を考えてみた。
匡樹を独り占めできたらいいなと考える一方で、恋人同士になれますように、なんて望むことはおこがましい。こんな状況を見てしまったら、匡樹側からしたら自分という存在は彼の人生を狭めてしまうようにしか思えない。
恋人になれないのだとしても。
せめてこの季節が終わるまでは、こうして匡樹と会えますように。
それくらいの願いならば許される気がして、保は目を閉じた。
「はい、準備できた?」
「うん」
促されるがまま、斉藤の甲に吹きかける。
「よし成功。叶うといいね」
あまりに屈託なく斉藤が笑うので、保の胸もいくらかすいた。
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