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3.匡樹
やばいやばいやばい。
斉藤と保が、近い。楽しげに話している。
「喜久川さんってばー」
「え? ごめん何だった?」
匡樹は、長テーブルの端が気になってほとんど会話が上の空だった。
「だから、休日の話です。喜久川さんは、仕事ないとき何やってるんですかー?」
「俺? 映画見たりとか」
「えーそうなんですか。じゃあ人生で一番印象に残った映画って何ですか?」
「難しいな。それ映画好きに聞くと三日くらい悩んじゃう質問だよ」
適当に返しながらちらちら保を観察する。
保の気持ちが、わからない。
六月の終わりから今のところ、週一で会うようにはしている。
本音は毎日でも会いたいくらいだったけれど、なんとかメールを繋いで今日の出来事の報告なんかでごまかしながらその衝動を必死に押さえている。でもちょっと油断したらいつでも『今から行っていい?』と送ってしまいそうだ。
離婚して身辺整理して、保にその事を言いに行って、いざ保と対峙できる環境になった途端、自分でも驚くくらい臆病になった。
以前はあんなになんでも打ち明けられたのに、今、改めて距離を測りかねている。
そのせいで、再会後すぐにやってきてしまった保の誕生日もかなり不完全燃焼だった。
プレゼントを選んでいるときも恋人だったらこれ買ってあげたいな、と目を引くものはどれも友達という立場においては高価すぎるし、場所にしたって夜景の綺麗なレストランもスイートルームを取るのもかなりおかしい。
結局無難という判を押したような祝い事しかできなかったのは本当に心残りだ。
いっそがんがんに迫ってみようかなと思ったこともある。
離婚してすぐのくせに節操ないな、と思われるだけならまだいい。でも、すぐ自分がアプローチすることで保が自分を責めてしまわないか、離婚の原因が自分にあると思ってしまわないかそのことが心配で上手く近づけないでいた。
とはいえやっぱり、会って飯食ってはいさよならだけじゃ精神的にムリだから、様子を見ながら保の指に触れている。せめて自分を意識して欲しいという魂胆もあった。それなのに、保はなんのリアクションも見せない。
毎週ヘコむ。めちゃくちゃヘコむ。
様子を伺っている中で、相手がイエスなのかノーなのか不透明なまま肉体関係に持ち込むのはもっと憚られた。押し倒して保に拒否されるのは、想像しただけで震え上がるほど怖い。
そんな経験するなら永遠に八熱地獄でじりじり焼かれていたほうがまだましだ。
テーブルでは先ほどから、変わらず保は斉藤と二人で話し込んでいる。
もしかして、斉藤の事が気になっているのかな、と勘ぐってみる。
サバサバしていて、女々しいところがない斉藤はてきぱき仕事もよくできる。クールな保とも程よくバランスが取れている。もしかしたらお互い惹かれ合う何かがあるのかも知れない。
もやもやしていたら斉藤が自分の手の甲を保に近づけるような素振りを見せた。
「あっ」
びっくりして思わず声を上げる。うそだろ? 今まさか、口付けた?
角度でよく見えなかったが、間違いなくかなり近づいていた。
そんなまさか。でも、保は前触れなく、いきなり自ら人との距離を無意識に飛び越えてしまうときがある。かくいう匡樹も前にそういう経験でぐっと心を掴まれている。
「どうしたんですか?」
「な、なんでもないよ」
もう何も構わず斉藤を押しのけて、保の横から一時も離れないでいたい。でも、そんなことをして嫌われたら…というループから抜け出せない。結局悩んでいるうち匡樹は席から最後まで動くことが出来なかった。
四方から沢山酒を注がれた気がするのに、結局少しも酔えないままお開きになった。今日保を連れてきたことをかなり後悔した。前までは、保のことをただの面白い友達としか認識していなかったから、どこだろうが同じ空間を共有できることを単純に楽しめていた。そのノリでよく自分の気持ちを考えもせず誘ったのがそもそもの間違いだった。今は保のことがどうしようもなく好きで、誰かと仲良くすることにこんなにもそわそわしてしまう。
グループルームを同期の間で作っていて、「そろそろじゃない?」という誰かの一言でいつも自分が幹事を担当する流れになっている。これはいよいよ引退をほのめかして、一刻も早く企画の座を誰かに譲らなくては。
出席はそこそこでたまに顔を見せる程度にしないと、こうして保が誰かと絡むのをやきもきしながら見なくてはいけない。かといって週末の貴重な休みに保を置いてどこかで遊ぶのは嫌だった。そんなことしても何も楽しくない。
会計が終わり、外に出ると一同は例により二件目の話をしている。
「喜久川さんは、行きます? 次」
横にいた長浜さんが聞いてきた。保の様子を伺う。
「保はどうするの?」
もう一刻も早く帰ってしまいたい。詳しくは、保と二人になりたい。
「俺はパスかな」
よかった。保の応えを聞いて匡樹はいったんほっとする。
「じゃ俺も帰ろっかな」
「俺に合わせる必要ない。喜久川さんは、残りなよ」
「そうですよー。まだ早いですって」
途端に後輩から援護射撃されてひるむ。
「でも保、けっこう酔ってんじゃない。一人で帰るの危ないよ?」
「そんなわけない。俺のことはいいから。喜久川さんは行かなきゃだめな雰囲気じゃん」
頑なな声で、こちらの問いかけに少し不機嫌なようだった。また不安になる。二件目には行かず、駅まで一緒に帰ろうと提案して、二人になったら先ほどのことを何気なく聞くつもりでいたのに、言い出しづらい。
周りを囲まれているうちに、保はひらりと背を向けてしまう。
「え、ちょ、保ってば」
「じゃあな」
そしてそのまま早足で消えるように去って行った。
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