1.保

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1.保

 喜久川匡樹(きくかわまさき)の新しい住まいは本社から私鉄で一本の、住宅街にある。  一階の再奥で、一色保(いっしきたもつ)が初めて訪れた時はいくら匡樹が男でもいささか物騒じゃないかと思ったものだ。 『大丈夫? 防犯的に』 『平気平気、防犯ガラスだし、入ったとしても盗るもんなんて大してないから』  家賃が他の階より安いことと、何より一階住居者のみの特権、部屋に付属する広いバルコニーを気に入って即契約したとのことだった。 『俺さ、実家ん時からずっとマンション暮らしだったから、こういうちょっとした庭みたいな雰囲気に憧れちゃうんだよ』  大きい窓をまたぐとささやかなウッドデッキまであって、確かにご近所に許されるかは別として小規模のバーベキューくらいなら十分に出来そうだ。イベント好きな匡樹らしい選択だった。 『ガーデニングも出来そう』  そう言うと嬉しそうに目を輝かせていた。 『俺のもくろみ、よくわかったね?』 『やっぱり。わかるよ』 『今の時期はもう遅いけど、来年は春先から色々育てようってわくわくしてるんだ』  世話好きな匡樹の事だ、来年は庭いっぱいの植物をすくすく育てるんだろう。そんな会話をしたのも、もう先月のことだ。そろそろ七月も終わる。  インターフォンを鳴らすとすぐに扉が開いた。  いつもの爽やかな笑顔で匡樹は迎えてくれた。 「保。外、まだ暑かった?」 「そこそこ」  保は部屋に入ると買ってきた酒類をキッチンに袋ごと置いた。 「はいこれ。冷蔵庫入れとく?」 「うん、ありがと。飯、食べてきた?」 「まだ」  おおよそ一週間に一回、休日に匡樹とはこうして会っていた。 「よかった。簡単なもの作ったんだ。つまみにしてさっそく飲もー」  リビングのローテーブルに並べられた皿を覗けば枝豆や漬物なんかに混じってゴーヤチャンプルーや砂肝の炒め物なんかもある。 「自炊レベルが、急激に上がってる」 「そうだろうとも、…とドヤりたいところだけどよく見て? 実はほとんどフライパンで炒めるだけ」 「俺、ゴーヤなんてどうやって調理するか見当もつかないし」 「俺も初めてやってみたんだけどさ、クックパッド大先生がぜんぶ教えてくれた」 「なんでまた思い立ったの」 「今日スーパーの特売で見つけて、急に食べたくなったんだ。暑かったし」 「ああ確かに、夏真っ盛りってかんじはする」  梅雨が明けた途端一気に30度を超える猛暑が続く今年の夏、自分はもちろん見た限り匡樹もそれらしいことは何もしていなかった。せめて食べ物でも、という気持ちはわからんでもない。 「でしょでしょ」  匡樹は得意げに小皿を手渡してくる。  これ以上完璧になってどうすんの、と保は小さなため息を飲み込み受け取った。気立てがよく、仕切るのが得意でその上家事までできてしまう。  匡樹の作った料理はもちろんどれもおいしかった。  あく抜きをしっかりされたゴーヤは苦みがほどよく、酒が進んだ。 「今日映画、何観る?」 「喜久川さんが前言ってたやつ、アメプラに入ってたよ。去年なんとか賞取った戦争のやつ」 「リリー・シープ? うそ、観たい観たい」 「じゃそれでいいんじゃない」 「でも保はそれでいいの? 暗いかもよ?」 「今更? 俺はいいよ別に。喜久川さんが観たいんだろ」  ある程度腹が満たされるとテーブルを片付けて映画を並んで鑑賞する。保はそれほど映画に好みがなかったので、大抵匡樹に合わせる。とはいえちゃんとアンテナを張っている人間のおすすめは信頼でき、どれも割と面白かった。  お友達から始めませんかと言われたのは六月の終わり頃だった。あの日から、こうして休日どちらかの家を行ったり来たりしているけれど、目に見えた進展はこれといってなかった。一緒に夕食を食べ、話したり映画やテレビ番組を観たりして終電前にどちらかが帰る。匡樹が結婚していた時と同じで、今のところそのルーティンが繰り返されるだけだった。  保の認識が間違っていなければ、匡樹の離婚後、告白された。自分も好きだと言った。  でも、会話といえばそれっきりで俺たちこれからどうする? なんて改めての話し合いがなされたり、迫られることも一切なかった。  保の誕生日でさえ、ちょっと洒落たレストランで夕食を食べ、プレゼントとしてネクタイピンとなぜかボディケアの詰め合わせセットを貰い(ハートのステッキはさすがになかった)、そのまま解散しただけだ。  喜久川の離婚を知って、また会うようになってからすぐの出来事だったけれど、あの日はさすがにがっかりした。  何かそれらしいアクションがあってもいいのにな、と期待して出向いたのは間違いない。  ただひとつ違うことと言えば。  映画の序盤、ソファを背もたれにして床に座っていると左手をそろそろつかまれ、小指に手を伸ばされる。  匡樹は本当に無意識みたいに、保のひとつだけ不揃いな小指をこうして隙あらば触ってくるようになった。  初めてそれをされたときは直球にキスを迫られたりするよりよっぽどいたたまれなくなったが、人間の順応とは早いもので、今では何とも思わない。それを制するでもなく、されるがままになっている。  ほんのわずかな指と指の戯れ。その匡樹の接触により、自分の小指を触るクセを初めて知ったくらいだ。思考が空っぽのとき何気なく反対の手を当てようとすると、そこには既に匡樹の手がある。  決して不快じゃない。ただ、どんなつもりなんだろうな、とは思う。 「あ。そういえば来週土曜日、飲み会だって言ったっけ?」 「初めて聞いた。会社の?」 「うん、同期のやつ」  また頻繁に匡樹と会うようになってから、初めての飲み会だった。 「久々なんじゃない」 「そうそう、俺が離婚してから二回目かな?」 「一回目がむしろあったんだ」 「うん。離婚直後にさ、決起会とかいって連れてかれたわ」 「決起会って」 「何のだよってかんじだよな。でもまあ元気づけようとしてくれるかんじで、嬉しかったけどさ」 「じゃあ来週は会うのやめとくよ」 「なんで、保も一緒に行こうよ。もうみんなの顔知ってるでしょ」 「喜久川さんのコミュニティーだもん」 「どういう意味?」 「なんか、毎回お邪魔するの悪いし」 「なんでだよ、んなわけないじゃん。むしろ保なんかもうセンターだよ。あっちゃんポジションだよ」 「それは全力で辞退する。てかあっちゃんって、いつの話。令和に追いついて?」 「じゃあ保、今のセンター言える?」 「知らんけど」 「ほら! でも真剣な話、みんなの感覚的にもうメンバーに入れられちゃってるのは間違いないよ、この前も保どうしてんのって聞かれたし。だから一緒に行こうー」  と、いつもの調子でごねられると、断れないのもお約束通り。数えてみると冬のグランピング以来の参加だったが、意外なことに集まりに行くのは前よりも煩わしくなくなっている。成長と呼んでもいいだろう。ただし匡樹のいるところ限定だけれど。 「あ、そろそろ終電やばいかも」 「ほんとだ、もうこんな時間か。駅まで送るよ」 「いやいいよ、ここで」  二人で夜道を歩くと、明るい駅で唐突に一人になったとき寂しくなってしまう。いらぬことを考えてしまう。いっそ今日は泊まって行きたい、と素直に言えたらどれだけ楽だろう。  そんな感情を抱く自分も、匡樹と定期的に会うようになって初めて感じる経験だった。 「気をつけてな。今度は俺が行くから、保んち」 「うん。おやすみ」  友達から先へ進むって一体どういうことだろうな、と保は考える。  こうして毎週会って小指を触られるだけなら感覚的には以前と大して変わらない。もどかしいな、と感じてはいる。  これが男女なら。  付き合って、結婚して子供を産むことが関係性において一応のゴール地点だと見受けられる。でも自分たちは男だ。結婚も子供も産めないからこそ、何を持ってして付き合っているとすればいいのか、何をすれば先に駒を進めたことになるのかはわからなかった。
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