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カラスを持っている、と子供から注目される前にベンチの方へ移動する。ベンチ後方の茂みに下ろしてやると、夕立は翼を広げて体を震わせた。思い切り飛沫が俺にかかったのだが、今のこいつは周囲への配慮などできないくらい疲弊しているのだということにしておいてやろう。十分に水気を飛ばしてから、姿がカラスから人へと変わる。黒ずくめの美青年はほとんど濡れていない。便利なものだ。
リュックの奥底から引っ張り出したタオルを渡してやると、紫苑はまだ少し湿っている髪を軽く拭った。チサが差し出したペットボトルを受け取り、スポーツドリンクを一口飲む。
「どうだ、少しは楽になったか」
まだ滲み出てくる汗を拭い、もう一口スポーツドリンクを飲む。意識は先程よりもはっきりしているようだが、顔はまだ赤みを帯びていて呼吸も整っていない。
「すみません、ご迷惑をおかけしてしまい……」
「ジャケット脱いだ方がいいんじゃないか」
「そう……ですね……。はい……」
紫苑は黒いロングジャケットを脱ぎ、ワイシャツの袖を捲る。
「晃一さん、このタオルしばらくお借りしてもよろしいでしょうか」
「そのつもりで渡したから貰ってくれて構わない。全然使ってないやつだから気にするな」
「ありがとうございます。供物として受け取っておきますね……」
「まだ動けそうにないか?」
タオルを顔に押し当てながら紫苑は小さく頷いた。やはり今日は臨時休業になりそうである。
チサからのシャチを探してほしいという依頼に対し、俺はどこから手を付けるべきなのか考えに考え、答えを出せずにいた。おそらくそのシャチはもうこの世にはいない。いない者をどのようにして探すのか。
懊悩する俺に向かって、紫苑は「私は私にできることをします」と一言。自分は空を飛べるから、海辺へ一飛びして情報を集めて来よう。などと言って飛び回ったものの、六十年も前のことを知る海の動物に巡り合うことができず何も得られなかったそうである。無駄に疲労を得ただけだ。
疲れと、日差しと。それらが重なったことでこうして体調を崩してしまった。仕事熱心なのはいいのだが、体を壊してしまっては意味がない。
「チサ様、やっぱり今日は無理だ。明日だと紫苑様のことがまだ心配だから、明後日また話をしよう」
「分かりました。では、明後日もこちらの公園でお待ちしていますね」
「すまない」
「いいえ。わたくしのために動いてくださったからなのでしょう。ありがとうございます、晴鴉希命様」
「今日はもう帰っていいぞ。明後日な」
「はい。朝日様、晴鴉希命様、失礼いたします」
チサは深々と礼をして、俺達から離れた。彼女がどこへ帰って行くのかを俺達は知らない。イヤリングを外せば人の目に付かなくなるのだから、その状態で川にでも浸かっているのかもしれない。
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