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壱 とある夏の日の話
机の上に置かれたテキストを眺めながら、俺はペットボトルのお茶を一口飲んだ。口から喉元にかけて若干の涼しさを感じることができたが、額にじんわりと浮かんできている汗は先程と何も変わらない。
夏休み恒例の夏期講習が始まって三日。今日も暑い。俺の集中力は暑さで途切れてしまうような貧弱なものではないと自負している。しかし、そうはいっても暑いものは暑い。机に突っ伏して居眠りを始めているクラスメイトが数人視界に入る。俺もそうすることができれば少しは気が楽になるのだが、そうはいかないのだ。
学年主席という位置は嫌でも注目されるものであり、僅かな気の緩みが大きく影響する。俺は注目されたいわけではない。けれど、貶されたくはないので今の位置を維持し続けなければならないのである。「朝日も意外とたいしたことないんだな」や「あの学年主席もついに落ちたか」などということを言われるわけにはいかないのだ。
難儀なものだ。一年生の序盤で定期テスト順位連続一位を我が物にしてしまったのがよくなかった。それ以来、俺はプレッシャーに押し潰されそうになりながら学年主席の位置に留まり続けている。
「こらー、そこ居眠りするなー」
黒板から振り向いた我らが担任時田先生の声が生徒の頭上を流れて行く。どうやら板書が終わったようである。
「暑いのは分かるぞ。先生も暑いから。飲み物とかは飲んでもいいからな。熱中症になったら大変だし。でもなー、居眠りは駄目だぞー」
正直に言うと俺も少し眠い。だが眠るわけにはいかない。
「全くもう。……この問題だけど、先生が板書してる間に解けてるよなあ? というか予習しておいてって昨日言った」
一瞬のざわつき、そして沈黙。開け放たれている窓の外からセミの鳴き声が聞こえている。
教室を見回した先生と目が合った。
「じゃあ目が合ったから朝日君、ここの答え前に出て書いてくれるかな」
「はい」
夏期講習用のテキスト冊子を手に俺は席を立つ。コピー用紙を重ねてホチキスで留めた、先生達お手製の品である。昨夜妹のゲームに付き合ってやりながら解いたのでいささか不安ではあるものの、指名されたのだからこれを黒板に書いて行くしかないだろう。
はい、と渡されたチョークを黒板に滑らせる。
だいたいこんなものだろうという解答を書いて席に戻ると、机の上にネズミが一匹座っていた。餡子がたっぷりと入った最中を小さな両手でしっかりと抱えている。ネズミはもちゃもちゃと最中を食べながら俺のことを見上げた。
「おう! きょうもあついなぁ、げき!」
食べながら喋るな。
俺の机の上にネズミが載っていようと、そのネズミが最中を食べていようと、言葉を発していようと、教室にいる誰も疑問を抱かない。それは決して、ここ星影市が言葉を話すことのできる動物が暮らすメルヘンな街だからなどという理由ではない。星影は至って平凡な街である。
ではなぜか。それは、俺以外にはネズミの姿が見えていないからである。
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