壱 とある夏の日の話

4/5
前へ
/97ページ
次へ
「おまえ今日ずっと寝てただろ」 「うっ」  俺と並んで歩いているのは黒いロングジャケットを羽織った美しい青年である。その背には夜空のような漆黒の翼が背負われている。 「紫苑(しおん)様」 「はい」 「見えるところで眠られると気になる。疲れているなら学校まで来なくてもいい」  晴鴉希命(はるあけのみこと)の真の姿たる有翼の美青年――俺は彼のことを紫苑と呼んでいる――はふるふると首を横に振った。瞳や翼と同じ漆黒の髪が揺れる。 「疲れてなどいません。大丈夫、です……」 「おまえの力はまだ安定していない。無茶はするな」 「……すみません。晃一さんに余計な心配をおかけしてしまって。お勉強の邪魔をするようなことを」 「ゆっくり休んで……と言いたいところだが、そういうわけにもいかないしな」  紫苑は小さく息を吐いた。とても偉いという大神なる神々に任せられた仕事だからと、変に気負っている部分があるのではないだろうか。 「紫苑様」 「はい。はい、大丈夫です。頑張りますから……」  無意識だろうか、冷えた手を温めるように両手を揉んで胸元に寄せている。今は夏真っ盛りであり、寒くなどない。この動作は不安から来ていると考えるのが妥当か。  微かに震えていた手に右手を添えてやると、漆黒の瞳が少し驚いたように俺を見つめた。手の震えは収まっている。 「本当に大丈夫なのか」 「……はい」 「分かった」  俺が手を離すと、紫苑も組んでいた手を解いた。  会話を再開させることのないまま、俺達は学校からほど近い公園へやって来た。年季を感じさせる噴水の前に立っていたワンピース姿の女がこちらを振り向く。 「お待ちしておりました」 「約束より少し遅れたか。すまない、チサ様」 「うふふ。平気ですよ。こうして噴水を眺めているだけでもわたくしとっても楽しくて、時間なんて忘れてしまいますから」  銀色の髪の間に浮かぶようにして青い瞳が揺れている。淡い水色のロングワンピースに銀色のサンダルが涼しげな印象を与える女性だ。シャチを模したイヤリングが右耳に光っている。どうやら今は人に姿を見せている状態のようである。  チサは俺の後方を見遣る。 「あの、朝日様」 「ん?」 「晴鴉希命(はるあけのみこと)様、御体の具合がよろしくないようですが……」 「えっ」  隣を歩いていたはずの紫苑が数歩後ろに蹲っていた。ジャケットの裾が公園の砂に擦れているが、気にしている余裕はなさそうである。俺の視線に気が付いたのか、顔を上げて微笑む。ぎこちない笑い方だった。  様子がおかしいように見えていたのは、もしかするとこれが原因かもしれない。いや、不安なところもあっただろう。しかし、それよりも……。 「おまえ大丈夫じゃないだろ」 「軽く目眩がする程度です、問題ありません」  そう言って立ち上がった紫苑だったが、すぐにしゃがみこんでしまう。 「おい、紫苑様」  顔が赤く、呼吸も荒い。汗で髪が顔に張り付いている。 「これくらい平気……」  再び立ち上がろうとしたところで、体が大きく(かし)いだ。体勢を立て直すことも、体を手で支えることもできず、そのまま紫苑は地面に倒れ込んでしまった。 「しおっ……」  思わず大きな声を出してしまいそうになったが、なんとか堪える。今の紫苑は俺とチサ以外には見えていない。何もないところに向かって大声を出す不審者だと思われては困るのだ。
/97ページ

最初のコメントを投稿しよう!

26人が本棚に入れています
本棚に追加