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弐 揺蕩う女神
約二週間前。
下校中の俺の前にチサは現れた。
「翡翠の覡様ですね。どうかわたくしをお導き下さい」
当代の覡がどこの誰なのかは、ついこの間まで偉大なる大神でさえ知らないことだった。紫苑が俺のことを見付け、俺が彼を導いたことでようやく高貴なる大神達の元にも俺の存在が認識されるようになった。
翡翠の覡がいるらしい、という噂を聞きつけて神や妖が現れることもあるだろう。その中には悪しき者もいるだろう、と紫苑が教えてくれたのはつい数日前のことである。
「晃一さん、私に何を求めているのです? そのようにじっと見つめても何も起こりませんよ。私はエスパーではないのですから、仰ってくれないと」
「どうすればいい。ほいほい話を聞き入れていいものなのか」
警戒されているということを察したのか、眼前の女はこちらに向かって礼をした。挨拶であると同時に、敵意はないという表現だろうか。
「わたくしはチサと申します。初めまして、覡様。そして……ええと……」
「私は雨影夕咫々祠音晴鴉希命といいます」
「晴鴉希命様、ですね。はい。わたくし、お二人に御願いがあるのです」
「私はただ晃一さんの隣にいるだけですが……」
「紫苑様、この神の話を聞いていいのか。危ない相手ではないという判断でいいのか?」
改めて訊くと、烏天狗の面を斜めに被った神様は「ふむ」と小さく唸った。
「……ひとまず移動しましょう。ここで貴女の声に耳を傾け続けることで、晃一さんが虚無に向かって話をする方だと周囲に思われては困るので」
面を被っている状態の紫苑は人の目にも写っている。こうして会話をしていても「何もないところを見ている」と不審な目で見られることはない。代わりに「変なお面のやつと話している」と思われてしまうのだが、俺個人の怪しさに関しては後者の方がマシだろう。
ではチサと名乗るこの女はどうか。おそらく、人の目には写っていない。先程からずっと、俺はなるべく紫苑の方を向いて言葉を発するようにしている。
「すみません、覡様への配慮が足りていませんでした。少々お待ちを……」
ハッとした顔をして、チサは銀色の髪を軽く掻き上げた。足踏みをしながら、青いマニキュアが目を引く指で右の耳たぶを軽く撫でる。すると、何もなかったところからイヤリングが出現した。黒い流線型の体に白い模様のある動物の飾りが付いている。シャチだろうか。
飾りに触れてイヤリングがあることを確認し、チサは小さく頷く。
「顕現しました。これでよろしいでしょうか」
「ありがたいけど、周りの人からしたら無から女が沸いたように見える気がするんだが」
「周囲の水分を屈折させて像を映し出したので、わたくしの姿はあちらの建物の影から出て来たように見えているはずです」
シャチの付いた大振りのイヤリングが紫苑の面と似た効果を持っているのだろう。そして、彼女は周囲の水分をスクリーンにして自分の姿を映し出すことができる。足踏みをしていたのは、歩いてやって来たのだと思わせるためのようだ。
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