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「ん?これどこかで聞いたことがあるぞ」と
男は訝しげに大東京ロボット株式会社の
社訓を眺めていた。
社訓
第一条
社員は上司に危害を加えてはならない。
また、その危険を看過することによって、
上司に危害を及ぼしてはならない。
第二条
社員は上司にあたえられた命令に
服従しなければならない。
ただし、あたえられた命令が、
第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条
社員は、前掲第一条および第二条に
反するおそれのないかぎり、
自己をまもらなければならない。
この社訓はもしかして・・・
アシモフの「ロボット工学三原則」(注)
のパクリじゃないだろうか?
入社してまだ1年目。
憧れのロボット設計ができると信じて
入社した会社が大東京ロボット株式会社だった。
しかし、男は入社してすぐに理想と現実は
違うものだと思い知らされた。
業務用ロボットの設計を手掛ける制作部には
配属されず、まず新入社員は社会人としての
マナーを身につけるために営業部に1年間
配属させられるというルールがあったのだ。
もともと引っ込み思案で、
内気な性格だった男は、
大学時代もたいした交友関係が
あるわけでもなく、
所有しているMac Book Proの前に
一日中座り、ひたすらロボットの
設計図を描くのが生きがいだったほどだ。
それなのに、いきなり営業部勤務となり、
一番苦手とする人間を相手にしなくてはならなくなったのだ。
入社前に聞いていた話とは明らかに違う。
しまった!
これは所謂ブラック企業っていうやつか!
男は自ら下した決断を後悔した。
苦手な営業の仕事だけならまだマシで、
男の上司が最悪なヤツだった。
アルマーニの上下のスーツに、
エンツォ・ボナフェの革靴を履いた、
全身はなぜか高級イタリアンなのに、
髪は角刈りで純然たる日本のおっさん顔。
しかも東京に出てきて10年以上も
経つというのに茨城訛りが抜けず、
極衆院龍夫ごくしゅういん たつおという名のパワハラの
権化みたいな男が上司だったのだ。
その上司の口グセが「社訓を覚えたのか!」
と「営業は足で稼げ!」の2つで、
ハイテク産業であるべき会社なのに、
ただひとり昭和のモーレツ社員の面影を
残した人物であった。
対照的に人生最悪の選択ミスをした男は、
声は小さい、態度もオドオドしており、
こんなに営業に不向きな人間も
また珍しいだろうといわんばかりの
男だったので、入社当初から、
その上司の格好の餌食となってしまった。
龍夫たつおこと、その上司は弱々しい男性を見ると
自身の中にあるサディストのスイッチが
入るらしく、社員教育という名ばかりの
制裁を部下に課すのが、唯一の生きがいとなっていた。
もはや社内では龍夫たつおの昇進はありえない
位置におり、自らの家庭内DVが
原因だったにも関わらず、
全て妻のせいにした離婚も経験し、
人生の目標を見失いかけていたところに、
あの男が、
あの弱々しい男が、
部下として配属されたのだ。
龍夫たつおにとって、これほどの喜びはなかった。
俺があいつの面倒を見なくてはいけない!
社会人として立派に育てなくてはいけないのだ!
そんな歪んだ自分勝手な正義感がムラムラと
湧き上がっていたのである。
男はそんな上司の気持ちなど知るはずもない。
男からすると龍夫たつおという名前の知り合いは
小中高時代を振り返ってもいるわけがなく、
ラーメン屋の名前に「たつお」があったかな?
という程度で、とてつもなく下品な名前に聞こえたのである。
そして、
男がその上司のもとに
無理やり配属されて半年、
パワハラを受けない日はなかった。
今でこそパワーハラスメントことパワハラは
社会問題に取り上げられているが、
男が入社した時代は、まさにバブル崩壊後の
混乱期で、仕事にありつけただけマシな時代だった。
だから、
男はひたすら上司の教育という名の制裁に
耐えるしかなく、
怒鳴られるなんてまだしも、
殴る蹴るの暴行は日常茶飯事だった。
しかし、
そんな男にも「忍耐」の限界があった。
上司の行き過ぎた「教育」はあまりにも
理不尽であり、どう考えてもおかしい。
誰かに相談できればよかったのだが、
男には相談する同僚すらいなかった。
会社を辞めてしまえばいい。
そんな簡単な回答が頭をよぎるが、
いま会社を辞めたところで次の仕事に
ありつけるかどうかもわからない時代である。
なんとかこの生き地獄から逃げ出せる方法は
ないものか?と男は思案に思案を繰り返した。
ついに、
男は上司をこの世から消すことを
考えるようになった。
だが、
自ら上司を殺害するなどできるわけがない。
国の法律も殺人は決して許されていない。
いったいどうすれば、
上司をこの会社から消すことができるのか?
ふと見上げた壁にあの社訓が、
立派な額に入れられて飾ってあるのを見た。
社訓
第一条
社員は上司に危害を加えてはならない。
また、その危険を看過することによって、
上司に危害を及ぼしてはならない。
第二条
社員は上司にあたえられた命令に
服従しなければならない。
ただし、あたえられた命令が、
第一条に反する場合は、この限りでない。
第三条
社員は、前掲第一条および
第二条に反するおそれのないかぎり、
自己をまもらなければならない。
社訓の第一条と第二条は、
どう考えても上司の身を守るためのものだ。
上司を消すには第一条と第二条が邪魔をしている。
さすがに、
上司に危害を加えることは不可能だ。
諦めかけていたところに、第三条が目に飛び込んだ。
第三条
社員は、前掲第一条および第二条に
反するおそれのないかぎり、
自己をまもらなければならない。
そうだ!これだ!
男は一筋の光が見えたような気がした。
上司に危害を及ぼさず、
命令に背くことなく、
「自己をまもらなければならない」ため
やむなく上司をこの世から消すことが
可能な方法を考えればいいのだ!と。
しかし仮に、
上司の命令が「この俺を殺してみろ!」
だとしたら、
第二条の「命令に服従しなければならない」
ため殺さずにはいられないが、
第一条の「危害を加えてはならない」に引っかかる。
男は上司からの命令に、
従わざるおえない状況を作りつつ、
上司に「危害」を加えることなく、
この世から消し去らなければならない
という非常に難しい選択をしなてくは
ならないのだ。
どうすればいいのだろう?
「危害」を加えずに、上司をこの世から
抹殺するなど、どう考えても不可能だ。
仮に上司が勢い余って、
「俺が憎いか?じゃあ、やってみろよ!
かかってこいよ!」
と男に言い放ったとしよう。
しかし、
「危害」を加えずして上司に対抗できるわけがない。
ましてや、
腕力が男より数倍上の上司で、
もともと茨城という田舎のヤンキーあがりの
ケンカと腕っ節だけが、唯一の自慢のようなヤツだ。
男の腕力だけでは勝ち目があるはずがない。
せめて刃物かバット、
いやもっと致命的なダメージを与えることが
可能な武器が必要だ。
拳銃ピストルならなお良いが、
どこで手に入れるのかわからない。
オフィスにあるもので、
武器になりそうなものを探してみたが、
ハサミやボールペンぐらいでは
上司に致命傷を与えることすら
難しいだろう。
あっ、この重そうなMac Book Pro15インチ
ならどうだろう?
アルミ製のボディは上司の頭を
ぶっ叩くにはちょうど良さそうだ。
しかしMac Book Proには問題がある。
それは2キロ近くの重さがあり、
上司の頭をめがけて振り下ろすには
かなり難しいのだ。
もしも上司の頭を見事直撃できたとしても、
間違いなく反撃を食らうことになるだろう。
重いMac Book Proを手にしているのは、
かなり不利なのである。
ダメだ。
どれもこれも上司に致命傷を
与えることなんてできやしない。
諦めかけていた男の脳裏に「毒殺」という
2文字が浮かんだ。
そうか!
トリカブトか何かを飲ませればいい!
「毒殺」なら誰にも気がつかれずに、
上司を抹殺することができるはずだ!
男は失いかけた希望の光が、
再び自分めがけて放たれている
気持ちになった。
だがしかし、
どうやって毒物を入手できるのだろう?
ネットで検索するか?
それとも通販でヤバイ薬を購入するか?
それともどこかの大学の研究室か病院で、
危険な薬物を盗んでくればいいのか?
やはりどれも無理だ。
悩みに悩んだ結果、
男は上司殺害を諦めることにした。
ある日の夕方、
仕事が終わって帰ろとうした男は、
上司に呼び止められた。
会社の入っているビルの入り口を
ちょうど出たところだった。
しまった!こんなところで捕まるとは!
男はつくづく自分の運のなさを呪った。
だが、
呼び止めた上司はいつになく機嫌がよかった。
おまけに、男に少し飲まないか?
とまで声をかけたのだった。
おかしい。こんなはずはない。
訝しがる男だったが、上司の勧めのままに
会社の近くの居酒屋に行くことになった。
「なあに、そんなかた苦しい話じゃない」
上司は居酒屋でも上機嫌で、普段なら
既に腕を振り上げているはずなのだが、
男に対して妙に優しかった。
だが、男は決して警戒心を解くことはできなかった。
いつ、なんどき、上司が自分に対し、
「社会教育」という名の暴力を
ふるってくるかわからないからだ。
酒の席上だったが、
男は上司が何の話していたか、
全く覚えていないほど緊張していた。
だが、上司は変わらず上機嫌で男に接してくる。
やれやれ、ここはなんとかやり過ごして、
早く自宅に帰りたい。
男は必死に受け答えをしていた。
「そろそろ帰るか」
という上司の言葉を聞いた時、
男は安堵した。
やっと解放されるのだ。
しかし、
事件は居酒屋を出たところで起きた。
さっきまで機嫌がよかった上司の態度が
一変し、男に噛み付いてきたのだった。
男は上司の酒グセの悪いことも
知っていたので、ここはなだめて
終わりにしようとしたのだが、
上司の悪態はますます悪くなっていく。
龍夫たつおのサディストのスイッチが
入ってしまったのだ。
そしていつもの調子で、
腕力にものをいわせてきた。
男は上司に殴られながら、
必死に耐えていた。
あの社訓の第一条、第二条、
第三条の存在意味は何かを考えながら。
「危害を加えてはならない」、
「命令に服従しなければならない」、
そして
「自己をまもらなければならない」!!
なおも猛り狂った上司は、長渕キックばりの
強烈な蹴りを男に入れようとした。
その瞬間!
男はとっさに自分を守るため、
屈みこんでのである!
上司の振りおろした足は、
体を捉えることができず、
手入れが行き届き、つま先が尖った
エンツォ・ボナフェ製の革靴は、
虚空に振り上げられ、
上司の体は円を描くように空中を舞った!
そしてそのまま、
上司の体は地面に叩きつけられた!
ドサッ!
という鈍い音があたりに響いた。
まるでサッカーボールを蹴り損ねたような、
見事な空振りだった。
「いてぇ!」
お気に入りのアルマーニ製のスーツは、
歩道に落下して汚れてしまった。
神経質なB型という厄介な上司にとって、
この世で2番目に許されないことが起きてしまったのだ!
それは自分のスーツが、
いわば社会人としての、
いや企業戦士として、
身だしなみこそ全てだと信じる男の
何事にも変えがたい高級ブランドスーツが
汚されてしまったという事実!
これはさすがにまずかった。
男からすると自己防衛のために、
上司からの蹴りを避けただけなのだ。
理不尽な暴力を振るう上司こそ、
天罰を受けるべき人間なのに!
なんと人間社会は矛盾が多いことか!
上司は怒りの炎を目にたぎらせながら
立ち上がり、男の方に向かって
歩き出そうとしてた。
「貴様、よくも俺をこんな目に…」
男は震えたまま、地面に頭を抱えていた。
もうダメだ!
アイツを完全に怒らせてしまった!
上司はヨロヨロと立ち上がり、
首のネクタイを締め直して、
男に近づいていく。
「ああ神様!仏様!誰でもいいから助けてくださいっ!」
男はここぞとばかりに祈りに祈った。
上司は男に止めを刺す体勢を
ととのえている。
「社訓!第二条!命令に服従しなくて貼らない!」
上司は絶叫した。
「もうダメだ!」
男は目を閉じ、歯を食いしばった、
とその時だった!
ドーン!
という鈍い音が辺りに
響き渡ったかと思うと、
上司の体がそのまま空中を飛んで、
はるか5メート先に飛ばされていく!
ドサッ!
という人間の体が地面に叩きつけられる音が
聞こえたと同時に、
ものすごいクラクションの音が鳴り響いた!
「あっ!だ、だ、大丈夫ですかっ!」
と慌てた声が飛び交う。
男が恐る恐る目を開けると、
目の前にボンネットがへこんだ車が止まっていた。
運転席を見るとハンドル部分から
エアバッグが張り出しており、
運転していたであろう人の頭と手が、
割れたフロントガラスにちらりと見えている。
「き、救急車を!早く!」
「なんだ!何が起こったんだ!」
気がつくと男の周りは、野次馬でごった返していた。
男に最後の止めを刺すはずだった上司の姿は
目の前から消えていた。
男はヨロヨロと立ち上がり、
あたりを見渡すと先の尖った鋭利な革靴が
片方だけ転がっていた。
男は呆然としたまま、立ちすくんでいた。
一体、何が起こったのだろう?
男は頭の中で整理がつかないまま、
必死に冷静になろうとしていた。
これは事故だ。
車が歩道に突っ込んできたんだ。
ガードレールはなく、縁石の高さも低い歩道に車が。
男がふと視線を車とは反対方向にやると、
別の人だかりがあった。
「救急車はまだか!」
「もうダメだ!」
などと緊迫したやりとりが聞こえてくる。
男が目を凝らして見ると、大破した車から
5メートル以上離れた路上に、
血だらけのアルマーニ製のスーツが見えた。
男は思った。
「ああ、これは第三条の適用だ。
間違いない」
遠くから救急車の音が鳴り響いていた。
おわり
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