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ヘマトフィリア
雨音を背に、廊下を駆ける。
玄関横を通り過ぎ、一目散に食堂へ。
そのために角を左へ折れようとした、その時。
「――っ!」
ぬっと伸びた影が視界に入り、慌ててスピードを殺す。
だが、そう上手くはいかず、わたしはつんのめった。
転ぶ――覚悟した衝撃は、しかし、身に降りかかることはなかった。
代わりに、誰かの体温を感じる。
「っと――何だ。誰かと思えば、お前か」
「え――」
体を支えてくれている逞しい腕から掛けられた言葉は、聞き慣れた声だった。
驚きからその名を口にする。
「キーツ……!」
男は相変わらずの無言だったが、流れるような手つきでわたしを立たせてくれた。
怪我なく済んだことに礼を述べるも、見上げた銀髪は怪訝な顔をしていた。
「お前、こんなところで何をしている。勢いよく走ってきた割には、追いかけられているわけでもないようだが……」
「わたし――っ……」
何をしている――その問いに、わたしは言葉を失った。
わたしは今、何をしている?
答えられない。
わたし、今――答えられないことをしているんだ……。
いったい、何をやっているのか。
こんな、後悔を抱くことをしているなんて。
ぐっと唇を噛む。
今からでも、遅くないだろうか――
「お願い! 一緒に地下へ来て!」
「何?」
「とにかく、早く!」
「お、おい……!」
わたしは無我夢中で、男の腕を引いて走り出した。
細かいことは、何も考えていなかった。
どうしてだとか、何故とか、そんなことよりも。
ただ、そう――わたしは、人間でいたかった。
たとえ、数日前のわたしが何者であったとしても。
少年がわたしに対して、つい先程までにどんな仕打ちをしてきたか……もちろん、それを忘れたわけでもないけれど。
それでも、今のこのわたしだけは、思いのままに、自由にできる。
だから、心のままにいたかった。
悔いることのない今を、生きていたかったから――
「う……」
地下へと下りて、進んですぐの角を左に折れる。
正面、右側。そこが電気室。
しかし、近付くにつれて、だんだんとわたしの足は拒否反応を示し始めた。
中に入るまでもなく、わたしは腕で口元を覆う。
それでも、緩くなったスピードに首を振って。
できるだけ吸い込まないように……そう意識しながらも、わたしは駆けた。
当然ながら、男から怪訝な声が掛かる。
「何だ、これは……おい、ここで何があった」
「話は後で。今はお願い、ついてきて」
まだ中に入っていないのに、この状態……。
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