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13
〈怪我治ったらなら、店来れば?〉
そんなそっけないメールが城崎圭から届いたのは夏の終わりだった。
怪我の療養もあって、長らく夜の街に出かけることを控えていた理文は、そのメールを見て思わず笑みを零していた。
彼とは退院して以来、会っていない。もともと二ヶ月の短い付き合いのあと別れてからは馴染みのバーでしか顔を合わさない関係で、当然メールを交わすようなこともなかったら、彼のそのメールはひどく珍しかった。
心配しているなら素直に心配していると言えばいいのに、と理文は思うが、心配しているなど彼は決して認めないだろう。
──事件が起きてから、二ヶ月が経とうとしていた。
加害者とは弁護士を通して示談が成立し、刑事事件としては略式起訴の罰金刑となって、ひとまず事件は終結していた。理文の方はもろもろ検査の結果、幸いなことに内臓にも脳にも損傷はなく、わりとすぐに退院することができた。鎖骨とろっ骨のヒビや打撲はそのあともずいぶん長い間痛みを訴えたが、特に後遺症はなく、手と頭が無事ならデザイン仕事はできるということで、すぐに会社にも復帰できた。
だが、二丁目に復帰するのはしばらく控えていた。
理解のあるデザイン事務所の上司は、事件について深く尋ねることはなく、理文の怪我や事情聴取などに割かれる状況も鑑みて仕事量の調整もしてくれたが、身体の痛みで仕事に集中できず、能率は下がって、気持ちの問題だけでなくバーへ行く時間もなくなっていた。
時間は便利だ。
いっときの苦痛も、時間がそのうち癒してくれる。
ちなみに、短い入院をしている間に辻が見舞いに来てくれて、入院中には来られなかった中野は、そのあと理文の様子を窺いに理文の務める事務所の近くまでやってきた。
中野には「行きつけの店で暴行事件にまきこまれた」と軽い説明だけで済ませていた。それ以上詳しく説明しない理文の心情を推し量ったのか、中野は事件については軽く「災難だったなあ」と感想を言うに留めていた。まったくもって中野らしい。
「──で、またケンカしたの?」
久しぶりに会った中野は、「今さらだけど」と言って新婚旅行の土産を押しつけて、それからそんなことを聞いてきた。場所は勤めるデザイン事務所からほど近いコーヒーショップで、答えにくい質問に、とりあえず理文はコーヒーに手を伸ばしていた。
「今度のはかなりの重傷だぜ。俺のこと電話で呼び出したくせに、仏頂面で完全黙秘。おまえのことかな、と思って水を向けても違うともなんとも言わないしさ。失礼だと思わない? 言っておくけど、俺、新婚だぜ」
「……ごめん。ちょっと、見舞いに来てくれたときに、またやっちゃって」
「あ、テッちゃん、それでまた怒鳴ったんだろ。怒鳴ったこと後悔して落ち込むくらいなら、最初からするなって言ってんのに、まったく。大体、被害者で怪我人なのはノンちゃんの方だろ。本当にあいつノンちゃんのことになると、すぐ熱くなるんだから」
中野の言い回しに変な誤解が混じっていた気がして、訝しく理文は顔をあげた。
「なにそれ」
「だってそうじゃん。ノンちゃんはノンちゃんでテッちゃんに厳しいけど、テッちゃんはテッちゃんでノンちゃんに厳しいだろ。あんなに怒鳴り飛ばす相手、おまえだけだぜ。ま、怒鳴られる方はたまったもんじゃないだろうけど」
ふといつもの彼の憤慨っぷりが思い浮かんできて、理文は微笑ましいような苦しいような、複雑な思いを味わった。
「……俺のやることが、よっぽど哲の気に障るんだろ」
「それだけおまえのこと認めてるってことなんじゃないの? そういうところがあいつの可愛くて超絶面倒くさいところなんだよなー。ま、おまえらのケンカなんて毎回どっちもどっちだから俺はもうなんにも言わないけど、たまには間に挟まれる俺の身にもなれよ」
「…………」
大仰に嘆くように中野はそう言って、すぐに立ち直ると「ま、とっとと仲直りして新居遊びに来いよ」と締めくくった。理文はそれに曖昧に頷いて返しておいた。
……認めている?
それは違う。
もしそうだったとしても、もう違う。
もう彼は知ってしまったから。理文の醜い欲望を。卑屈で浅ましい考えを。……さすがにそんなものを前にして彼はもう今までのようには顔を出さないだろう。もう二度と仲直りすることなど、ふたりで会うことなどありえない。
もちろん、あれから哲から連絡などなかった。その事実を、あの病室で冷たく友人を追い出したその結果を、二ヶ月かけてゆっくりと理文は受け入れようとしていた。
今までも年に数回しか会っていないのだから、それがなくなるだけだと言い聞かせる。それ以外はなにも変わらないはずだ、と。
それでいい。自分だって会いたくない。もうこれ以上、傷つけたくない。傷つきたくない。
そんなときに圭からのメールが届いた。
──そうだ。バーに行こう。
あそこにいけば、元通りの自分になれる。行きつけの馴染みのバーに行けば、〝強引で我儘な、相手をすぐに変える男好きの尻軽男〟になれる。
〈そんなに俺が恋しい? じゃあ今週末行こうかな〉
だから、なるべくいつものように軽い調子で理文はそう圭に返信した。
「お、ノンちゃん、久しぶり」
そうマスターが理文を迎え入れてくれたバーには、相変わらず仏頂面の圭がいた。それから辻もいた。他にもこの店の常連客たちが珍しく揃っていて、驚いて「どうしたの?」と目を丸くすると、マスターが「快気祝いに決まってるでしょ」と笑う。
辻がさりげなく席を空けて、いつも好んで座っているカウンターの席に理文を招いた。
スツールに座ると、すぐなにも言わないうちにマスターが、理文の愛飲しているジントニックを差し出しくる。それから顔見知りの常連客たちが理文のもとに顔を見せ、一言ずつ「久しぶり」「おつかれ」「治って良かったね」なんて声をかけてきた。
流されるままグラスを手に、ひとりひとり挨拶してくるみんなと「うん」とか「ありがとう」とか言葉を交わす。この店に集まる常連客らしく、みな誰も事件について蒸し返そうとはせずに、ただ理文の不在を寂しがったり、怪我を心配したり、回復を祝ってくれたりして、そのすべてが優しくあたたかだった。
まいったな、と呟いて理文はうつむく。嬉しくて、けれどどこか切なくて、すぐに言葉が出ない。
「……もーいやだな。みんな、そんなに俺のこと好きかよ?」
冗談交じりにそう言えば、ほとんど合唱に近い勢いで「好き」の言葉が返ってきて、たまらず理文は笑っていた。
──居心地のいい店、おいしいお酒、気安い友人。
それは理文が愛する日常そのものだ。
みんなに挨拶やお礼をして、ひとによってはいつもと変わらず近況や愚痴を聞いたり、ひととおり会話をして、一段落したところで理文はカウンターに向き直って、ほっと息をついた。
「人気者だな」
そう隣から声をかけてきたのは辻だ。あっという間にグラスは三杯目になっていて、ラムのロックを手に、理文は久しぶりに会う優男と改めて小さく乾杯する。
「そうだよ、俺って意外にモテるの。知らなかった?」
「意外じゃないだろ。若い子から変態まで、ありとあらゆるジャンルをカバーしてる」
若い子、と言ったところで、ちらりと辻が圭の方を一瞥して、その視線を受けた圭はむっと顔をしかめる。その反応が相変わらず彼らしくて、辻と一緒に彼の方を見て理文は笑った。
「じゃあ、辻ちゃんは変態の方だ?」
「手厳しいな。……とにかく、おかえり。無事でよかった」
「ん、ありがと」
辻とも退院以来、きちんと会うのは初めてだ。
病院で会ったとき、彼はいつもの軽さを封印して、真剣に理文に頭を下げた。「俺が余計なことをしたから、こんなことになった」と辻は言ったが、もちろん辻が悪いわけがない。前回事件が起きたときに、どういう経緯か、男に辻や理文のことが漏れたことが問題だったのだ。
もともと理文の被害をわざわざ店に注意をする辻の方が真面目でまっとうな人間だ。
「本当に辻ちゃんもなんでそんな面倒、自分から抱えるかな。放っておけばよかったのに」
「まあ職業柄、若い子が被害に合うのは看過できなくて」
「真面目なんだ、茶髪教師なのに」
この騒動で初めて聞いたが、こんな軽々しい格好をしながら辻は高校教師だという。たびたびあった深夜の呼び出しは、夜に生徒が補導されたときなどの対応だったらしく、問題の男についてわざわざ対処したのは子どもの被害を防ぎたかったようだ。
「でも今回の件で、ちょっと惚れちゃったな、辻ちゃんのこと」
「そう?」
「熱血教師ってちょっと萌えるよね。……どうする、今日?」
最後の一言は顔を寄せて囁くように訊いた。
席がひとつしか離れていない圭が耳ざとくそれを聞き咎めて、顔を歪める。
「懲りない男だな。少しは自重しろよ」
「いやだな、圭。怪我のせいでもう二ヶ月も禁欲生活を送ってきたんだよ。そろそろ解禁してもいいころだと思うな」
「……別にいいけど、俺はどうでも」
「拗ねないで。俺、圭のことも大好きだよ?」
「っから、そういうのは要らないんだよ!」
からかうと過剰に反応する圭の姿が微笑ましく、声をあげて理文は笑った。
──これでいい。これでまた同じ毎日だ。
たとえば辻と戯れの言葉を交わし、欲望のままに身体を重ね、そんな軽薄な日常を送る方が自分にはふさわしい。この陽気さがどこか薄っぺらに感じるのは今だけのことで、またこの毎日に慣れれば、違和感など覚えなくなるだろう。
ずっと好きだった男のことだって、いつか忘れられる。
忘れられる、きっと。
「……辻ちゃん、なんか俺、優しくされたいな」
ふと理文はそう隣に座る男の肩に頭をのせた。
「うん? 別にいいけど。さすがに今日はこんなノンちゃんファンが集う中で、ノンちゃんを持ち帰る勇気はないなあ」
「意気地なし」
彼の肩に寄りかかるようにしたまま、笑ってくだらない冗談を交わし合う。
そのときだ。
カランと低いドアベルが鳴った。もともと一見の客が少ない店で、今日は特に理文の〝快気祝い〟という名目で集まってることもあり、店内の客がみななんとなく入り口の方を見た。
理文もちらりとそちらに視線を送って──。
凍りついた。
店内の客の多さに驚いたのか、店の入ったすぐのところに仁王立ちして彼は店内を見回す。
マスターがカウンターの奥から「いらっしゃいませ」と声をかけ、その声に顔をあげて、彼はカウンターに座る理文を見つけた。
「────哲」
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