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気がついたら、メールが届いていた。
用件だけを伝える短いメールだ。
〈おつかれ。年末向こうで中野が集まろうって。三十日来れるか?〉
絵文字も顔文字もないそのメールを、西澤理文(にしざわのりふみ)はバーカウンターに頬杖をついて、眺めるようにしながら何度も読み返した。
連絡が来たのは一カ月ぶりか二ヶ月ぶりか。だというのに、相変わらず愛想がない。それがいかにも彼らしくて、理文はなんだか微笑ましいような、寂しいような複雑な気持ちになる。
返事は決まっていた。一言〈行く〉とだけ返せばいい。けれどすぐにはそうしなかった。
「なに、ノンちゃん、オトコぉ?」
ふと隣に座る常連客が、そう肩にしなだれかかるようにして携帯を覗いてきて、理文はメール画面を消した。すかさず「怪しいー」と絡んでくる彼に、理文は気を持たせるように、ふふっと不敵な笑みを返してみせる。
「そ。俺のイ・イ・ひ・と」
「ちょっと! クリスマス前に別れたとか言ってなかった? どういう手の早さなの」
案の定、相手がすごい勢いで食いついてきて、理文は声をあげて笑った。
自分が周りからどういうふうに見られているか、理文はよく分かっている。相手を次々と変える恋多き──尻軽男。だからどういうふうに演じれば、どう反応してくれるのかが簡単に想像できた。
「冗談だって。これは単なるオトモダチ。それにクリスマスのあれは彼氏以前だからカウントしないでよ」
「ええー、そうなの?」
「そうなの! ああもう、あれは本当に失敗だった! あんな男だって知ってたらデートもしなかったのに。時間の無駄もいいとこ」
飲み仲間の疑問が本当はどちらにかかっていたのか分からなかったが、あえて理文はそう答えておいた。そして「思い出したら気分が悪くなった」と言ってカウンター越しにマスターを呼ぶ。
「ラムでなんかつくってー」
行きつけのバーだ。
正しくは、行きつけのゲイバー。思春期に入る前から早々と自分の性向を自覚していた理文は、十八才のときに上京してすぐ二丁目に通い始めた。それから早十年足らず。おかげで遊びに行く店を気分ごとに変える程度に知るようになり、中でもお気に入りがこの店だった。
最低でも週二日は通う店のマスターは理文の好みを熟知していて、適当な注文でも的確に希望に合ったカクテルをつくってくれる。
──居心地のいい店、おいしいお酒、気安い友人。
それだけそろえば、毎日を過ごしていくにはとりあえずは充分だと理文は思う。
この店でよく顔を合わせる常連客の、言葉遣いにはオネエは入っているが見かけはごく普通に洒落た格好の男が、理文の話を聞いて「あらあ」と声をあげる。
「じゃあ、ノンちゃん、この年末に完全フリーなの?」
「そだよー。一緒に初詣に行ってくれる彼氏絶賛募集中! とりあえず手を挙げない、しつこくない男がいいなあ」
「なにそれ、ハードル低すぎー」
そうして、いつものようにくだらない恋話もどきに盛り上がる。
メールの届いた携帯のことはまるで忘れたふりで。
平日の夜ということもあり(デザイナーという割合時間の自由のきく仕事をしているとはいえ明日も仕事だ)ほどほどにして理文が店を出たころには、深夜一時をとっくに回っていた。ともすれば二時に近く、もちろん電車も深夜バスも終わっている時間だ。
勤めているデザイン事務所はここから徒歩十五分弱で、自宅アパートの方はここから歩けば四十分以上かかる場所にある。
少しだけ迷って、理文は自宅へ帰る道を選んだ。都下一番ともいえる繁華街を外れ、人気の絶えた道に足を向けて、そうしてようやく理文は携帯を取り出した。アドレス帳から電話番号を呼び出し、ボタンひとつでコールする。
酔って上気した頬に、十二月の凍りつくような空気が気持ちよかった。冷えた耳に携帯を押し当てて、耳を澄まして相手を呼ぶコール音を聞く。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。さあいくつで切ろうか、と思ったところでプツリと音がして、コール音が途切れた。
『……理文?』
電話の向こうから不機嫌そうな声が名前を呼んだその瞬間、耳を澄ますように理文は目を閉じていた。
呼びかけに理文が応えるより先に、重いため息交じりの声が唸る。
『おまえ何時だと思ってんだよ』
「ああごめん、今、何時? さっき連絡くれたでしょ。ちょうど飲んでたからさぁ」
『飲んでるのか』
理文のわざとらしい軽口に対して、電話の声は低く、どこか高圧的だ。
こんな時間だから、ごく普通にサラリーマンをしている彼はきっと寝ていたに違いなく、それで電話で起こされて腹を立てているのだろう。もちろん理文は分かっていて、わざとそうしているのだが。
電話口で理文はふふっと笑ってみせた。
「そ、飲んでるよー。今日は年内締切の仕事がひとつ終わったから、パアッと遊ぼうと思って」
『だからって酔っぱらって電話かけてきてんじゃねえ』
「──で、なに三十日なの? こっちじゃなくて向こう?」
これ以上軽口を叩けば電話を切られそうだ、と理文は本題に入った。返事が返ってくるまでには少し間があった。
寝ていた身体を起こしたのか。ベッドの上に座り直し、その大きな背中を曲げて暗闇の中で携帯を耳に当てる──そんな様子を想像しながら、理文は携帯に耳を傾けた。
『なんか向こうで報告したいことがあるんだと。重大発表だとか』
「どうせ結婚だろ」
『だろうな』
「バカだな。俺ら、もう結婚が珍しく思うほど若くもないのに」
『浮かれてんだろ。めでたい話だ、浮かれさせておけ』
共通の友人が結婚をするのだ。本人の口からそうと言われたわけではないが、薄々感づいていた。高校時代の同級生で、高校卒業以降同じように東京に出てきた同郷の友人が、二年ほど前から付き合っている彼女とうまくいっているのはいやというほど聞かされてきている。
理文は唇を歪めた。
「結婚なんて、俺には到底想像できない話だけどな」
『……そういうこと、あいつには言うなよ』
苦々しく電話の声がたしなめる。交わす会話に秘められたものがなにかは、お互いに分かっていた。
彼は、理文がゲイだと知っている。友人の中で彼だけが知っている。そして、彼はそんな理文のことを軽蔑している──。
ふと理文は携帯を耳に当てたまま、顔をあげた。
目の前にまっすぐ道が伸びている。車通りも人通りも絶えた夜道に、オレンジ色の外灯がぽつりぽつりと並んで、遠くに見える信号が赤く明滅を繰り返していた。少し離れた繁華街のネオンサインに照らされた夜空はどこか遠く、携帯を握りしめる指先はひどく冷たかった。
そんな寒さに気づかないふりをして、理文は電話口で陽気に笑ってみせる。
「ああでも、日本でも同性婚ができるようになったら俺にも分かるようになるかもしれないな。そう、男二人でお揃いの白のタキシードを着て、永遠の愛を誓うんだ。健やかなるときも病めるときも──」
『やめろ、おまえの妄想なんて聞きたくない!』
苛立った声が理文の軽口を遮り、そんな彼らしさに、理文はこっそり微笑んだ。
そうやってもっと腹を立てて苛立って、俺のことを少しでも長く意識すればいい──。
くだらない願いを自ら鼻で笑って、ふっと理文は白い息を吐き出す。
「ま、店とか場所決まったら教えてよ。いつも幹事御苦労さま、じゃあ」
あっさりそう話を締めて、理文が電話を切ろうとしたそのとき、電話の向こうで低い声が『おい、理文』と呼び止めた。
『飲んでんだろ? どうせまた歩いて家帰ろうとしてるんだろ。風邪ひくなよ』
「…………」
『あと! 電話する時間をもっと考えろ。じゃあな、おやすみ』
タイミングを外し、ずいぶん遅れて「……おやすみ」と理文が返す声を聞いてから、通話は切れた。つながりの切れた携帯電話の画面を理文は見つめた。通話時間は五分もない。
たったそれだけの短い時間で、彼は理文を簡単に苦しみの谷底へ突き落とす。
「────バカあきら」
手にした携帯をそっと額に押し当てて、理文は小さく友人の名前を呟いた。
風邪ひくなよ、ってなんだよ、それ。
携帯をぎゅっと握りしめたまま、なにかを堪えるように目を閉じる。
理文がゲイであることを厭い、腹を立て、軽蔑しながら、ときどきさりげない優しさを見せる残酷な彼のことが──三木哲(みきあきら)のことが、好きで好きで、大好きで。
理文は苦しくてたまらなかった。
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