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   ***  いつ来てもその店は賑やかだ。  静かとは言い難いボリュームでクラブミュージックが流れ、大勢の客がテーブルごとにまとまり、ときおりはそれを横断して盛り上がっている。その賑わいを縫うようにして、理文は待ち合わせの約束をしている一番奥のバーカウンターに辿りついたが、目当ての相手がいないことに気がついて自分の時計に目を落とした。  約束よりいつも早く来る男だが、今日は少し遅れているようだ。  とりあえずバーの空いた席に腰をおろし、バーテンダーを呼んでビールを頼む。  今日は暑い一日だった。週明けからぐずついた天気が続いていたかと思えば、今日は急に日中の気温があがり、まだ梅雨前なのに今年初めての夏日を記録したという。  夏が近いのだ。  ……時間はあっという間に行き過ぎる。  五月の連休に路上で友人とケンカ別れをしてからもう一月以上経っていた。もちろんその間に、哲から連絡が来ることはなかったし、理文から連絡を取ることもなかった。  中野からは翌日にお礼の電話があった。「新婚旅行から帰ってきて、新居が落ち着いたら、幹事のみんなには正式にお礼に飯奢るから」と言われて「気にするな」と返しておいた。本気で幹事四人を改めて集められるのが嫌だったのだが、どこまで中野に通じているかは分からない。 「……お待ち合わせですか?」  注文したビールを差しだされながらバーテンダーにそう声をかけられて、理文は顔を上げた。その眼差しで理文の疑問を感じ取ったのか、にっこりとバーテンダーは微笑む。 「最近、よくこちらで背の高い方とご一緒されるのをお見かけしておりましたので」 「ピンポン正解。そういえば君も最近よく見るけど、去年はいなかったよね?」  一目で自分よりは年下だろうと当たりをつけて、軽く理文はそう話しかけた。  業界ではそこそこ有名で人気があるからか、店はいつも賑わっていて、店主の他に三人のバーテンダーが立ちまわっている。バーテンダーは古参がひとりいるが、それ以外はバイトらしく、気づくとメンツが変わるので、あまりバーテンダーと親しくしたことはなかった。 「今年の春から働いてます」 「……こんな忙しい店で、よく俺のことなんかに気づいたね」  常連もいるだろうが一見も一人客も多い店で、最近は待ち合わせだけに使っており、一杯飲んだらすぐに店を出ている。バーテンダーと言葉を交わすのも久しぶりだったため、そんなふうに気づかれているとは思わず、正直理文は少し戸惑った。  と、そんな胸の内を見透かしたのか、バーテンダーが「すいません」と言って笑う。 「見かけたというのは嘘で、実は辻さんと少しお話をしたことがあって」  ああ、と理文は呟いた。いつも先に来ている彼がバーテンダーと言葉を交わしているのはありうる話だ。  他の客の注文らしいドリンクを作っているバーテンダーの姿を眺めて、もしかして辻に興味があるのかな、なんて邪推する。もしそうなら、恋路を邪魔するつもりはない。彼とはあくまで軽い関係でしかないのだから。 「今日は珍しく辻さんの方が遅いんですね」  言われて、携帯電話の時計表示を見た。約束を十分ほど回っているだけだが、軽そうな見かけをしているわりに辻は時間には正確な男だったから、バーテンダーの言うとおり珍しい。  ──まさか待ち合わせの場所、あっちと勘違いしたのかな?  様子うかがいのメールを打つべきかどうか悩んで、理文は手の中で携帯電話を弄んだ。  先日、理文は辻高史に行きつけのバーを紹介した。  週末の行きつけのバーにはいつものようにお気に入りの城崎圭もいて、彼は理文が新しい男を連れているのを見つけると軽く眉宇をひそめた。マスターが「いらっしゃい」と二人を迎えながら、嬉しそうに不思議そうに目を丸くする。 「なに、ノンちゃん、彼氏?」 「ううんセフレ。──圭、こういうときはすぐに席を空けてくれなきゃ」 「っ」  理文の明け透けな言いように、圭はものすごく嫌そうに顔を歪めたが、結局なにも言わず理文と辻がバーカウンターの端に並んで座れるように席をずれた。 「セフレって、本当に情緒の欠片もない紹介の仕方だなあ」  と言いながら、辻は傷ついた様子もなく、笑って理文の隣に腰かけている。  彼はよく分かっている。お互いの立ち位置を。  カウンター越しに「フォアローゼスのロックを」とマスターに頼みながら、辻は改めて「友人の、辻です」とあたりさわりのない自己紹介をした。 「俺はジントニックね。あ、あの子は俺の元彼。って言っても、もう結構前だけど」  理文が圭をそんなふうに紹介したが、辻は嫉妬するでもなく、ほんの少しだけ興味をにじませて「ふうん」と相槌を打って、圭に向かって薄く微笑んだ。  強引に理文の〝友人〟にそんな紹介のされた方をした圭は顔をしかめ、それでも礼儀としてただ辻に向かって会釈だけはしていた。そんなふうに自分の考えや感情を全然隠せていないところが苛めたくなる要素なのだが、若い彼にはそんなことはまだ分からないようだ。 「ここがノンちゃんの聖域か。落ち着いていて良い店だな」 「そ。だからこの店はお気に入りにしか教えないの」 「ようやく俺もノンちゃんのお気に入りになれたんだ? 長い時間がかかったな」 「そこはお互いさまだから」  ──彼は恋人のように理文のことを好きなわけではない。  理文が辻のことを恋人のように好きではないように。もちろん決して嫌いなわけではなく、ただ、今も、そして未来も、本気で好きになる可能性がないとお互いに肌で分かるから、共犯者のように〝セフレ〟を名乗って軽く付き合える。  だからきちんと理文は彼に宣言している。 「邪魔になったら言ってね。すぐ代わりを探すから」  その言葉に苦笑しながらも、辻は「分かった」と応えていた。  身体だけの関係。相性はそれなりにいい。理文の希望に沿って、彼は強いることなど一切なく、礼儀正しく、どこまでも優しくする。 「あ、悪い。ちょっと電話」  ふとそう言って辻が席を外した。マナーを守って携帯を手に店の外へと出ていく。  彼の姿が見えなくなった途端、マスターが興味を露わにして理文に声をかけてきた。 「良い男じゃない。なんでセフレ止まり?」 「えー、だって別に心はいらないもん。気持ち良ければそれでいいっていうか」 「──ノン」  苛立った声が会話を遮った。もちろんその声は城崎圭のもので、理文は二つ席を空けて座っている若い元彼に目をやった。日ごろの不愛想がいっそう不機嫌に歪んでいる。 「おまえ、先週は別の男と一緒にいただろ。それにこの間、西新宿のサウナ行ってたって聞いたぞ。なにやってんだよ」 「なんで圭がそんなことまで知ってんの」 「……見たってひとが」  気まずそうに言って、圭は理文から視線を逸らしていた。  その店はいわゆるハッテンバと呼ばれている有料の施設で、どうやら理文と圭の関係を知っている常連客が偶然目撃して、それを告げ口したらしい。どういう意図で圭にそういうことをわざわざ言うのか、想像すると不愉快だったが、その常連客が誰かを聞く気にはならなかった。  そういう場所に行ったというだけで、もし中で理文がなにもしなかったとしても、乱れた行為を疑われるのは自然なことだ。  カウンターに頬杖をついて、どこか気だるげに理文は首を傾げ、嫣然と笑いかけた。 「心配しなくても避妊はしてる」 「っ、そういうことじゃなくて! ……年末にひどい目に会ったとか言ってたくせに、少しは自重する気ねえのかよ。前はそんな、誰でもいいとかいう感じじゃなかっただろ。本当に、あんた、なにやってるんだよ」  彼らしい生真面目な心配は微笑ましく、すぐには返事をせずに理文はジントニックを傾けて飲み干すと、マスターにおかわりを頼んだ。  ──誰でもいいんだ。  誰でもいい。ひとときでいい。心なんか遠くに置いて、自分のこの身体をめちゃくちゃにして、好き勝手に汚して、淫乱だと貶めて、口汚く罵られるようなそんな。  そんな人間に、してくれれば。  新しく差し出された二杯めのジントニックを舐めるように一口飲んで、そのさわやかさを味わうように理文は目を閉じた。 「……圭は俺のことを誤解してる」 「ノン」 「俺はもともとこういう人間なんだ。圭は今まで俺が何人の男と寝てきたか知ってる? 俺はそういう尻軽で淫乱な男好きの男なの」 「で、俺はそんな尻軽の男に乗っかられているラッキーボーイなわけだ」  そんな声が横から茶化してきて振り返れば、辻が電話を終えて店内に戻ってきたところだった。相変わらず彼らしい軽さに、ふっと理文は笑いを洩らす。 「ラッキーでもボーイでもないでしょ」 「ボーイは返上するけど、ラッキーは残しておこう」  辻が戻ってきたことで、圭はそれ以上の主張をしようとはしなかった。そんな若者の存在に気づいていながら、なにも言わない辻は、理性的というより意地が悪いのかもしれない。  彼の仕事はなんだっただろうか、と理文は思う。そんなことすらよく知らない相手だ。 「電話、大丈夫だった?」 「最近ちょっとトラブルが多くてね。でも今日はもう呼び出しはないだろうから安心だな」  仕事のトラブルについてもさらりと言うだけにとどめて、辻は琥珀の液体がゆらめくグラスに口をつける。カウンターに頬杖をついたまま、理文はそんな大人な友人を眺めた。  いい男だと思う。背は高く良い身体をしていて、洒落て軽いキャラを装っているが、最近になって頻繁に声をかけてくる理文に対してもなにも聞かない、大人の距離感を持っている。セクシャルアピールだけじゃなく、人としての魅力がある男だ。  だが、心は動かない。  何度、彼と身体を重ねても。何度、行為の前に〝雰囲気づくり〟のデートを重ねても。  ──まるで心が死んだかのように。  このバーに来て言葉少なくなった理文のことをどう思ったのか、ちらりと辻はやわらかい眼差しを理文に返した。 「こっちの方が居心地良いなら、待ち合わせもこっちにしてもいいのに」 「ん、それもいいかと思ったんだけど……やっぱり今までどおりでいいや」  本音ではこちらの店の方が理文は安心して遊べるのだが、また二人で顔を出せば圭が不愉快に感じるかもしれないと思うと、気が進まなかった。自分には他に行く店がいっぱいあるが、人見知りの圭にはないわけで、そんな若者のオアシスを自分の安心を理由に奪うのは気が咎める。そんな心遣いに圭が気づくわけもないのだが。 「ノンちゃんがそう言うならいいけど」  そして、辻はいつだって理文の言葉に従う。  お互いに気遣いや友情に近い静かな感情はあっても、それ以上の感情がないからだ。愛情やそれに伴う嫉妬や苦しみや悲しみや怒りやそんな激情がないからだ。  それでいいのだ、と理文は思う。 「そろそろ行こうか」  しばらくお互いの酒がなくなってきた頃合いを見て、理文からそう声をかけた。  そしていつものようにホテルに向かう。バーで少し飲んで、それからホテルへ行くのは、二人の定番のコースだ。まるで日常化したルーチンワークのように。  ……それでいい。  心なんか必要がないから。 「──振られちゃった?」  不意に横合いからそう声をかけられて、理文は顔をあげていた。  愛はなくても誠意のある辻は、基本的に約束を破るような男ではないはずだった。なのに、待ち合わせ時間から二十分経っても辻から連絡がなく、ちょうど「どうしたの。いつもの店で待ってるけど。俺、とうとうふられちゃったのかな」とメールを送ったばかりだった。  こういう店で声をかけられることはよくあることで、慣れた様子で理文は頬杖をついたまま男を眺めた。  若い男だ。といっても自分と同じか、それより少し下ぐらいに見える。自分が童顔だという自覚はあるので、相手は自分のことを年下だと思っているかもしれないな、と理文は考える。身長は平均的で決して高くはないが、よく引きしまった身体を年相応のカジュアルな装いに包んでいた。 「……人を待ってるのは確かだけど」 「相手がまだなら、少し話そうよ」  曖昧な言葉を選んで反応を見ると、積極的に男が隣に座ってきて、拒絶する理由もないので理文は彼のやりたいようにさせた。 「年はいくつ? この店にはよく来るの? あ、俺もビールにしよう」  あれこれ聞いてきたが、答えるより先にテーブルに置いた携帯が震えて着信を知らせてきて、理文は電話を優先した。もちろん相手は辻で、第一声に彼は本当に申し訳ない声で謝ってきた。 『ごめん。予想外のトラブルに巻き込まれちゃって、今日は行けそうにない』 「ふうん。仕事? 痴情?」 『仕事。深夜の呼び出し。俺としては痴情の方が楽しいんだけどね』  辻は電話口でため息交じりに軽口を叩いてから、『おっと』となにかにつまづいたような声を出した。少しあたりを気にしたように声のボリュームを落としてくる。 『不謹慎なことを言ったら睨まれちゃった。……連絡入れるのも遅くなって本当にごめん。お詫びに今度一杯奢る』 「いいよ、分かった。辻ちゃんもおつかれさまだな。じゃあまた」  電話の向こうののっぴきならない様子に、短く返して理文は通話を切った。  約束が破られたのは残念だが、恋人同士ではないのだから、辻がその理由を嘘つく必要もないし、理文がそれを疑うこともなく、お互いに冷静なやりとりで終わった。  なんだ来れないのか、と理文は吐息を洩らす。  最近は週末ごとに彼を呼びだしていたから、急な予定の変更で、長い夜の時間を潰し方が分からなくなる。 「ずいぶんあっさりしてるけど、彼氏? もしかして今日はフリーになったの?」 「……彼氏じゃないけど、約束してた男」  隣に座った男はまだそこにいて諦めずに声をかけてきて、理文は彼の方を見た。  電話を横で聞いていて、チャンスがあると思ったのか、カウンターに肘をついて乗り出してくる身体の距離が近くなっている気がする。  若い男だ。決してタイプとは言えないが、顔と身体つきはそんなに悪くない。  理文はグラスの中のビールと男とを見比べる。  もう一杯飲むか、店を出るか。  少し考えてから、理文はカウンター越しにさきほど言葉を交わしたバーテンダーを呼んだ。 「──ジントニックをお願い」
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