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 精を吐き出すとすっきりするのは男の生理だ。  溜まりに溜まったものがいったん刺激されれば、もうその先は解放を望むことしか考えられなくなって、吐き出してしまえばそれまでの興奮が一気に冷める。  そして、冷める以上に空しさを感じるのは、身体の反応というより心の問題に違いなかった。  結局、声をかけてきた男と店のトイレで、お互いに手と口を使って出すだけ出すと、それ以上のことに興味を失い、男の方はしきりにこのあとホテルに行くか、連絡先を交換するかをしたがったが、あっさりと断って理文は店を出た。  今から行きつけのバーに行こうか、とも思ったが、やめにする。  もしそこに城崎圭がいれば、きっと自分は露悪的に今してきたことを笑いながら告白するだろう。彼の歪んだ顔を見て、説教を聞いて、それを笑い飛ばすのは、簡単だが気が乗らない。  少し酔いの回った頭を抱えたまま、ふらふらと理文は路地裏を歩き出す。  ……身体がだるいと思うのは、心が重いせいなのか。  よく分からない。  最近は特によく分からない。  なにもかもが億劫だった。仕事をしているときは、きちんと仕事スイッチが入っているからいい。むしろ忙しくしている方が、目の前の仕事に集中できて有難かった。だが仕事を終えて、会社を出た途端に、ひどく自分が矮小で価値のない人間に思えてきて、いろんなことがどうでもよくなる。  辻やそれ以外の男に声をかけて、欲望を吐き出しても、気晴らしにならない。けれどそれをやめることもできない。  いっときの刺激で、嫌なことを忘れる。  欲望で身体を埋め尽くし、際限なく堕ちていく自分に安堵する。……品行方正であることになんの意味がある。幸せなんて手に入らないと分かっているのにそれを求めることになんの価値がある。自分は誰かの望むような人間ではないのだから──。  思っているより酔っているのか、歩き出しながら、自分がどこへ向かっているか分からなくなってきていた。無意識に人気のない方へない方へ、理文は足を向けている。 「────」  と、途中、ジーンズのポケットの中で携帯が震えているのに気がついた。  表示を見ると、電話の相手は高校時代からの友人だった。一瞬だけ戸惑って、理文は通話ボタンを押していた。 『あ、ノンちゃん? おれおれ。今日出張の前乗りでさあ、夜ヒマだから電話しちゃった』 「……中野」 『あれ、もしかして外? 電話大丈夫?』 「外だけど電話は平気。どした?」  深い闇に沈む胸の内など勘づかせないよう、なるべく軽く聞こえるように尋ねる。中野はいつものとおり、のほほんとマイペースだった。 『いやー、新居も落ち着いたし、新婚旅行の土産もあるし、一度うちに飯食いに来ないかと思ってさ。結婚式ではおまえらにすげえ世話になったし。今月と来月でどっかヒマない?』 「…………」  彼の言う「おまえら」という言葉が、どこまで誰を含むのか分からず、理文は黙った。だが、どこまでにしろ理文が誰かと一緒に中野宅に行くということはありえないのだと思い直して、すぐ口を開く。 「幹事集めて、とかいうならお断りだぞ。そーゆーのはパス」 『だよな。そう言うと思った』  おまえ遊んでいると言ってもそういうの嫌いだもんな、と吐息交じりに中野が言った。さすがに付き合いが長い分、そういったことはよく分かっているらしい。 『テッちゃんはノンちゃんが来るならいいって言ってたけど、おまえがそう言うなら四人案は中止だな。じゃあテッちゃんと二人で来いよ』  中野の口から出てきたその名前を聞いただけで、理文は一瞬、反応ができなかった。  このところ、なるべく考えないようにしていた名前だ。  だから中野の言葉を把握するまで時間がかかり、ずいぶん間を空けて「え?」と理文は問い返していた。 「ちょっと待って。俺が来るなら、ってなに」 『だからテッちゃんは、ノンちゃんが来るなら四人でもいいって。あ、そういえばテッちゃんが変なこと言ってたぞ。自分が来たらノンちゃんが嫌がるだろう、とかなんとか。なんだよ。ケンカでもしたのか?』 「……ケンカっていうか」  哲が来たら自分が嫌がる?  それは逆だろう。 「どっちかっていうと俺がまた哲を怒らせたっていうか。……哲、なんて言っていた?」  人気のない細い路地裏で足を止め、周りに誰もいないのに理文はつい恐る恐る声をひそめるように聞いていた。 『なんにも言ってないよ。まあ、なんか自己嫌悪の塊になってたけど』 「──は?」 『いや、あいつ、全然詳しく教えてくれないからよく分かんねーんだけど。なんか「俺は最低だ」とか言ってすごい反省してて。あの図体で落ち込んでるんだぜ? 見てて面白かったわ』  くくくと笑いながら、中野がそんなふうに言う。  二人で一緒に飲みにでもいったのか。居酒屋のカウンターに並び、あれこれ問う中野の質問には答えずに、大きな背中を曲げて、ただ憮然とした顔でビールジョッキを傾ける哲の姿が思い浮かぶようで、どしようもなくじわりと胸に愛おしさがこみ上げた。  本当に馬鹿で、かわいい男だ。  理文がわざと怒りを煽ったというのに、それにつられただけの自分の行為を後悔して反省するなんて、真面目で融通がきかなくて、彼らしすぎる。 『怒るたびに反省するぐらいなら、いちいち怒らなきゃいいのにな。まあ、おまえもあんまり哲を怒らせるようなことするなよ』 「……うん」  頷きながら、ぎゅっと理文は携帯を握りしめる。  ──やっぱり好きだ。あんなふうに軽蔑されても、まだ好きだ。  それがたまらなく苦しかった。  あの日のことを哲が後悔して反省している間に、自分がやっていたこといえば男と寝ることだ。誰彼構わず男を誘って、欲望を吐き出し、身体の快楽におぼれていただけだ。  哲は正しい。  自分は醜く穢れて、軽蔑されて当然なのだ。 『まあケンカするほど仲が良いっていうのも分かるけど、ほどほどにしとけ。とりあえずテッちゃん、別におまえのこともう怒ってないみたいだから、今度二人でうちに来いよ』  電話を通して聞こえてくる中野の明るい声に顔をあげる。  目の前にのびるのは、雑居ビルが立ち並ぶ休日のビジネス街の路地裏だ。平日の慌ただしさや活気を感じさせないほど静かに夜の闇に沈む通りの片隅で、理文は携帯電話を握りしめる。  そうして、また同じことを繰り返すのか。  自嘲と軽蔑と嫌悪と憐憫の応酬を、飽きずにいつまでも。 「中野、俺は──」  胸に渦巻く暗い感情が溢れだすように、思わずそう電話口に呼びかけたそのとき、ふと背後に人の気配を感じて、ハッと理文は我に返っていた。  ほとんど反射的に振り返って、理文は細く暗い路地に自分以外の人影を見つけていた。 「っ」  少し離れたところに立つ人影が確かに理文の方を向いていて、酔っているのかふらふらと変に上体を揺らしている。  背が高い男だ。  どこかで見たことがあるような気が──と思ったところで、男が一歩、理文に近づいた。 『ノンちゃん、どした? あれ、聞こえてる?』 「────」  耳元に当てたままの携帯電話の向こうで中野が名前を呼んだが、喉が強張って理文は言葉を返せなかった。  ふらついた足取りで理文に近づいてくるその男を、理文は知っていた。 「……なんで俺のこと、無視するの、ノンちゃん。冷たいじゃん。俺、ずっとあんたのこと探してたのに。会いたかったのに。なんで、無視するの」  ぶつぶつと呟くように男が言う。  一歩踏み出すごとに頭が左右に揺れて、焦点の合わない眼差しといい、男が酒なのか他のものなのか、とにかく酔って正気ではないのは見て取れた。  ──去年の年末に、理文に乱暴しかけた男だ。  最近辻と待ち合わせに使っている、あの客の多い店で知り合った。声をかけられて、とりあえずは何度か店で言葉を交わしている間は優しそうで、悪くないかな、と思ったから、二人で店を出た。……まさかホテルに入った途端、豹変するとは思わなかったのだ。隙をついて男の急所を力いっぱい蹴りあげて逃げ出したが、その後は当然連絡なんてしていなくて。  なぜ、その男が今ここにいるのか。 「って、なに、酔ってんの。まさか、俺のこと、追いかけてきたの」  彼が近づいてくるに合わせて後ずさりながら、理文はなんとかそう尋ねていた。  携帯電話を耳に当てるようにしていたのは無意識だ。相手が醸し出す嫌な空気に、手も足も強張ってまともに動かないようだった。 『ノンちゃん? ノンちゃん?』 「それ誰? また新しい男? さっきの店でも他の男とやってたんだろ。なにおまえは楽しそうにしてんの」 「俺に、何の用」  路地で後ずさっても限界があった。光に吸い寄せられるように、角にあった自販機まで辿りついて、設置された場所の段差に踵をぶつけて、勢い理文は自販機に背中を打ちつけている。  ……慣れた様子で、ホテルに入った途端に暴力を振るわれたから、きっと若い子を相手にいつもそういうプレイをしているのだろうと思った。だから理文が拒んで逃げ出せば、すぐにまた次の誰かを狙いにつけるだろう、と。  まさか自分にこだわりを見せるなんて思っていなくて。 「俺と、やりたいの?」  もう顔がはっきりと分かるくらい目の前まで近づいてきた男に掠れた声でそう尋ねた途端、男が形相を変えて、いきなりすぐ近くにあったゴミ箱をものすごい力で蹴り飛ばしていた。 「っ」  ガアンッと凄まじい音がして、空き缶が大量に入っていたと思われるゴミ箱が路地を転がっていく。 『ノンちゃん! ノンちゃん! なんだよ、どうした、おい。返事しろ!』 「ふざけんなよ!! 誰がおまえと今さらやりてえなんて言うんだよ! 何様だよ、頭おかしいんじぇねえのか。誰がおまえなんかと!」  どこか常軌を逸したような手加減のない怒声に、理文はその場で凍りついた。  身の危険を感じる。だが、動けない。  力なくだらりと下がった手に握りしめたままの携帯電話からは、何度も中野が名前を呼んでいるのが分かった。どこまで彼に聞こえているだろうか、などと恐怖に震えながらも、なぜか頭の片隅で冷静に考える。なにかあったら、彼が通報してくれるだろうか。  男の様子は尋常ではなかった。 「おまえのせいで! おまえのせいで俺はあの店に入れなくなったんだ! 他の店でもみんな俺を締めだしやがって! おまえのせいだ、おまえのせいだ!!」 「っ」  自販機の隣にはまだもう一つゴミ箱があって、男はそれをまた蹴りあげた。  男がなにを言っているのか、分からなかった。ただ彼の怒りが一方的に理文に向けられているのは分かった。  狂ったように男が何度も「おまえのせいだ」と叫ぶ。  ──俺のせいなのか。  そうか、と腑に落ちる。これは自分のせいなのだ。自分が誰彼構わず男を誘う、汚らわしい淫乱な男だから。哲が当たり前に軽蔑するような男だから。  だから。  自然にふっと理文の唇に自嘲の笑みが湧いた。たまらなく暗い感情が胸に押し寄せる。 「……自業自得だな」 「っ!!」  男が目を剥いた。  鬼のような形相をして、男が理文の胸倉を掴む。男の右腕が持ち上がるのを理文は見た。握られ、振りあげられた拳を。  その先になにが起きるのか分かっていたが、理文は動かなかった。  力を失った理文の手のひらから携帯電話が滑り落ち、地面に落下していく。  男の拳が振り下ろされる瞬間、理文は目を閉じた。  自業自得だ。  すべて自分のせいだ。  ──哲、これが俺の身の丈にあった生き方なんだ。
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