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   ***  全身の痛みは、自分への罰だ。  そう、理文は思う。  痛み止めが切れてきたのか、上体を起こそうと身じろぎをしただけで身体のあちこちが鈍い痛みを訴えて、理文はベッドの上で顔を歪めた。痛みのあまり声すら出ない。  救急で病院に担ぎ込まれてから一晩が経っていた。  ひと通りの処置と検査は終わっており、怪我の度合いも分かっていたが、全身が痛むので一体どこが重傷なのか自分ではよく分からない。とりあえず鎖骨と肋骨にひびがはいっていて、あとは全身打撲と右頭部の打撲があるらしい。だが、検査で内臓に損傷がないことは分かっており、脳の精密検査の結果で問題なければ、二、三日で退院できるということだった。 「……痛いんだろ、無理するなよ」  まるで自分が痛みを感じているかのように顔をしかめて、ベッドサイドに立った城崎圭がそんなふうに言った。こんな個室の病室を見舞うのは初めてなのか、どこか居心地が悪そうだ。  あたたかみのある白を基調に、明るく丸みのある木製の棚が添えられ、淡いブルーのカーテンが揺らめく個室は、患者である理文でさえ落ち着かない。  ベッドに横たわったまま理文は彼を見上げて、肩をすくめる代わりに唇の端を持ち上げて笑ってみせる。 「正直言うと、すげー痛い」 「っ、とうに、バカじゃねえの!」  すぐさま返ってきた彼らしい罵倒に、ついハハッと笑いかけたが、途端に胸部に痛みが走って、その衝動を抑え込んだ。  こういう反応が来るのは分かっていながら、彼を呼んだのは理文だった。呼んだ、というよりは、使いっぱしりをさせた、という方が正しい。  朝、目が覚めて一番に理文は彼に電話して、自分の部屋に行って(大家に連絡して鍵を開けてもらって)、健康保険証と着替えとパソコンなど必需品一式を持ってきてほしいとお願いしたのだ。理文の部屋に何度も来たことのあり、かつ信頼できる圭にだからこそ頼めることだった。 「とりあえず二、三日は退院できそうにないから、本当に助かったわ。サンキューな」 「……大丈夫なのかよ」 「ん、怪我は大丈夫。心配なのはむしろ仕事の方だなー」  怪我よりもとにかく病院に担ぎこまれた状況が状況で、相手はすでに暴行の現行犯で逮捕・拘留されているのだが、今後、警察の事情聴取やもろもろ面倒なことが残っていて、本当はそちらの方がものすごく気が重い。だが、そんなことを年若い圭に言っても仕方がなく、適当に誤魔化しておいた。  ちなみに、なぜ男が理文に暴行を働いたのか、その理由はあとから警察に聞いて分かった。  男は春先にも暴行事件を起こし、一度逮捕されていた。その逮捕のきっかけは例の店にあって、どうやら理文から話を聞いた辻高史が店のバーテンダーにその事情を話しており、店の方でも警戒していたところ、案の定その男がその店で出会った若い男(かろうじて未成年ではなかったが)に暴力を働いたのだという。  そのときは被害者の事情で被害届が出されず、不起訴になったものの、当然店には出入りは禁止。暴行の常習犯として界隈では有名になり、他の店でも入店拒否をされていたらしく、その逆恨みだったようだ。そこでわざわざ理文を狙ってきたあたり、なにか特別な執着があったのかもしれないが。  加害者の男に対して、理文は憎いとか腹が立つとかそんな怨むような感情は湧かなかった。治療費などは請求するつもりだが、厳罰感情などはない。むしろどうでもよかった。  いずれにしろ、相手が誰であれ、きっと自分はいつか同じような目に合っただろう。そんなふうに理文は思う。  昨夜の暴行の話は巡り巡って辻の方にも届いたらしく、辻からは電話があって、夕方見舞いに来るということだった。辻はしきりに謝っていたが、辻が悪いわけではない。軽く店の方に注意を促しただけのつもりが、こんな事件にまで発展するなど誰も想像しないだろう。  月曜で仕事もあるのに週明けからわざわざ悪いな、と思ったところで、ふと気がついた。 「あ、そっか。今日平日だもんなー。大学、さぼらせちゃったか。ごめん」 「んなこと気遣うくらいなら、最初から呼ぶなよ! つーか、なんで俺なわけ? 他にもいるだろ、使える男なんていくらでも」  こんな状況になってもなお軽い調子の理文を見て、圭は不愉快そうに顔を歪めている。実際は文句を言いながらも、理文の話を聞いて圭は一も二もなく駆けつけてくれたのだが。  彼の真面目な優しさに甘えたのは申し訳なく、素直に理文は頭を下げた。 「マジで迷惑かけてごめん」 「っ、謝るなって! ……ただ、呼び出すのは、別に俺じゃなくてもいいだろって話」  照れ隠しなのか、むっと気難しくしかめた顔をそむけて、どこかそっけなく圭が呟く。本当にいい子だな、と理文はそんな彼を微笑ましく眺めた。  だけど呼び出すのは誰でも良かったわけじゃない。 「本当にごめんな。でも、圭が一番頼みやすかったんだよ」  ベッドサイドで困った顔をして見下ろす彼に、にっこりと理文は微笑みかける。  圭がよかったのだ。彼でなければならなかったのだ。 「だっておまえ、俺のこと好きにならないだろ」 「……ノン」 「他のやつらと違って今後も絶対セフレにならないし」  呼び出すなら、本当は辻でも良かったのかもしれない。だが今も継続的に肉体関係のある男に頼むのは、変な貸し借りをつくるようで嫌だった。  そんな瑣末なことにこだわっている自分に対して、呆れる思いもある。自分の都合で相手を振り回し、迷惑をかけながら心を許さない──そんな自分がものすごく嫌になる。年下を相手にわがままを振りかざすしかできない自分が、たまらなく醜く思えてうんざりする。  理文は窓の外に視線を向けた。窓から見える空は明るくさわやかで、空っぽな胸の内を際立たせるようだ。ふっと理文は自嘲の笑みを口元に佩いた。 「ま、そんなこと言っても、もともと俺は誰にも好きになってもらえないんだけどさ」  昔から分かっていたことだ。  決して自分には手に入れられないものがある。  ……たとえどれだけ望んでも。  圭が言葉もなくベッドサイドに立ちつくしている。また困らせてしまった、と気づいて、慌てて理文がいつもの気安く軽い笑みを浮かべようとしたとき、圭が口を開いた。 「おまえが好きになってもらえないのは、おまえが相手を本気で好きにならないからだろ」 「────」  理文は目を見開いて、圭を見つめ返していた。負けじと圭がまっすぐな眼差しを向けてくる。  自分が本気で好きにならないから?  違う。それは違う。自分がどれだけ好きになっても意味がない。なにもない。あるのはただ冷たい軽蔑だけで──。  そう言い返そうと、理文が口と開きかけたそのとき。  ガンッと音をたてて、病院関係者ではないと明らかに分かる勢いで、病室の引き戸が開かれていた。反射的に二人の視線が入り口を向く。 「っ」  息を飲んだのは理文の方だった。 「なにやってんだ、おまえは!!」  手加減なしの怒声は、室内に飛び込んできた哲のものだ。  大股で病室の入り口からベッドまでの短い距離を詰めて、横たわっている理文の様子を見て、一瞬言葉に詰まる。 「っ、ふざけんなよ! なんで、こんな……っ、バカか、おまえ本当に、このバカ!!」 「あきら、哲、ここ病室だから……」  ここが病室だということを完全に失念している怒号を前に、驚きや気まずさを抱くより、まず彼の興奮を鎮めることの方が先にきた。  痛い身体をなんとか動かし、理文は上体を起こして、両手をあげた。 「哲、怒るのは分かる。分かるから、まず落ち着いて」 「俺がどれだけ心配したと思って……!!」  その怒声は途中で途切れた。なんとか怒りを身体の内側で押しとどめた哲の拳は身体の横で小刻みに震え、噛みしめた唇は彼の怒りの大きさを物語っている。  奇妙な沈黙が病室に落ちた。  怒鳴られた本人の理文だけではなく、そばにいた無関係の圭までがびっくりして言葉を失っている。  個室でよかったな、なんて呆然とそんなことを頭の片隅で考えた。幸い、というべきか、緊急で搬送されたときに一般病棟が満室だったせいで、個室に入れられていた。 「っていうか、哲、なんで、知って」 「──中野に聞いた」  不機嫌な低い声の返事に、ああ、とすぐに思い当たった。  昨夜は中野と電話中に暴漢に襲われたのだ。殴る蹴るの暴行を受けながら、運よく通りがかりの通行人が早々に通報して、警察と救急車がやってきて搬送されるまで、なんとか意識を保っていた理文は、警察に事情を説明し、病院で処置に入る前に中野には「大丈夫、心配するな」のメールを打ち、朝になって改めて連絡を入れて事情を説明した。  そこで中野がやってくるならともかく、なぜ哲が来るのかが分からない。  大体、今日は月曜日の平日で、時間はまだ午後を回ったばかりなのだから、スーツ姿である通り哲は会社があるはずだった。 「……えーっと、中野は?」 「あいつ出張中。だから様子見てきてくれって。……おまえ、中野と電話してなかったら、俺に言うつもりなんかなかっただろ」 「────」  もちろん図星なので返す言葉はない。  哲は怒っている。激怒の限界を通り越してしまったかのように、逆に静かになった声と眼差しが怖くて、理文は息を詰める。  三者三様の沈黙の中に、哲の低い物々しい声が落ちた。 「……怪我は」 「え、あ、大丈夫。一応。……ええっと、骨折はしてなくて、ヒビと打撲。検査の結果が出たら、たぶんすぐ退院、できると、思う」  厳しい目で詳細を促されて、ベッドの上で痛む身体を居心地悪く縮めながら、歯切れ悪く理文は答えていた。つい上目がちになるのは、この状況の気まずさからだ。  まさか哲が来るなんて思ってもいなかった。知られたくなかった。中野からどこまで聞いているのか。新宿二丁目の外れで男に暴行されたというだけで、哲ならそれがどういうことか察するはずだった。しかも駆けつけた病室には若い男がいるのだから、余計にたちが悪い。  案の定、哲はぎろりと鋭い眼差しを圭に向けた。圭は突然訪れた嵐のような事態の変化についてこれていない様子で、ベッドサイドにぽかんと立ち尽くしている。 「おまえが今、理文と付き合ってる男か」 「は?」 「哲!」 「なんでおまえがいて、こんなことにっ!!」  怒りの矛先が理文から圭に移っていた。哲が呆然としている圭に詰め寄って、その胸倉に手を伸ばす。慌てて理文は身体を起こした。 「哲! その子は関係ないから! その子はただの友だちで、いろいろ頼みごとをきいてくれただけだから!」  大きな声を出すと、切れた唇の端が痛むだけでなく、首や胸やとにかくあらゆるところが鋭い痛みを訴えた。痛みのあまり、理文はうっと身体を強張らせ、一瞬息を止める。 「理文っ」 「ノン、無理するなよ!」 「……とにかく、哲、手をおろして。本当に、彼は関係ないから」  痛む身体をゆっくりとベッドに戻して、横たわりながらなんとか理文はそれだけ哲に頼んだ。それから、ベッドサイドで困惑している圭に向かって、静かな声で呼びかける。 「圭。ごめん、今日は帰ってくれる? ……お礼は今度する」 「でも」  怪我の様子より、怒鳴りこんできた男の方が心配なのか、圭は戸惑った眼差しで理文と哲を見比べたが、やがて頷いて踵を返した。哲の隣を通り過ぎるときには、険しい顔をしながらも小さく会釈して、病室を出ていく。 「……付き合ってないなんて、どうせ嘘だろ」 「本当に彼とは付き合ってない。今回の事件にもまったく関係ない。……その、一年以上前に、ちょっと関係があっただけ」 「理文」  名前を呼ぶ声には、苛立ちが交った。  彼と顔を合わせるのは、中野の結婚式の日に別れて以来だった。だが、あの夜あったことの気まずさや怒りや苦しささえ、今は吹き飛んでしまっている。  さきほどまで圭がいた枕元まで移動して、哲は横たわる理文を見下ろした。無言で手が伸びてきて、額に張られたガーゼに指先が一瞬だけ触れかけて、その指を握り込む。 「……バカが。こんな、怪我して」 「ごめん」 「謝るな。こんなの──こんなこと、自業自得だ」  分かってる、と理文は呟く。  それが気に入らなかったのか、途端にキッと哲は冷たい眼差しを理文に向けた。 「遊んでばかりいるからこんなことになるんだ。男をとっかえひっかえしてるから!」 「分かってる。自業自得だって」 「っ、おまえは……!」  また怒りが込み上げてきたのか、怒鳴りかけた途中で、哲は言葉を詰まらせた。  ……哲は可哀そうだ。  横たわったまま彼を見上げて、理文はそんなふうに思う。自分の信条に合わない男のことを心配して、真剣に怒って苦しんでいる。会社をさぼってまでこんなところに来て、不快な思いをさせられている。同じことを繰り返して、何度も何度も苦しめられている。本当に哲は可哀そうで、どうしようもなく馬鹿だ。  ベッドサイドに立った友人は、まるで身体の奥で暴れる灼熱の怒りを抑え込むかのようにうつむき、苦しそうに顔を歪めて、その顔を両手で覆う。 「なんでなんだ。なんでおまえはそうなんだ。こんなこと当たり前のような顔をして。なんで自分で自分を傷つけるようなことばかり。こんな自分で自分を貶めるようなことばかり。なんで、そんな殴るような男と、男なんかと……!!」 「……哲」  嘆く彼の言葉には、男と付き合うことへの軽蔑がにじむ。男を誘い、男と身体を重ねる理文への嫌悪と憤怒がにじむ。 「もうやめてくれ、二度とこんなことは。頼むから俺を心配させないでくれ。もっときちんと普通にしてくれ。きちんと、普通に人を好きになって、幸せになるように努力しろよ、きちんと一人の相手と付き合って、普通に」  それは懇願だった。まったく見当違いの、なにも分かっていない、理文を傷つけるだけの切望だった。  ──哲はなにも分かっていない。  全身から力が抜けていくようだった。すでにベッドに横になっているのに、冷たく暗い深淵の闇に落ちていくように、さらに重く身体が沈んでいく。  もう終わりだな、と理文は思った。  どうしても彼には理解できない。いつも堂々巡りをして、いつまでもお互いを傷つけ合うだけで、ただ苦しいばかりで、もうこんなことは終わりにすべきだった。  ぼんやりと理文は、自分のためにここまで駆けつけて、絶望したかのように嘆く男を眺めた。  不思議に心は凪いでいた。  どこまでも優しくできるような気持ちで、重い頭を枕に沈めたまま、理文は哲を見上げて小さく首を傾げてみせた。 「……哲。俺だって、たった一人の相手に好かれたいよ」 「理文」 「俺だって、たった一人の相手に好かれたい。好きな相手に好かれたい。だけど俺は好かれない。おまえは俺を好きにならない。絶対に好きにならない」 「────」  淡々と告げる理文の言葉に、愕然と哲が顔をあげた。信じられないものを見るように目を見開いて、ベッドに横たわる理文を見る。  ふっと口元を歪めて理文は嘲笑った。 「おまえに軽蔑されるたび、俺がどんな気持ちでいたと思う? おまえに呆れられ、蔑まれ、それでも俺がなにも感じていないと思った?」  静かだった。  静かでやわらかなこの空間に不似合いな、醜く歪んだ汚い言葉がこぼれ落ちていく。 「ねえ、哲のそれはなんなのかな。正義感? 庇護欲? 好きな男に軽蔑し続けられる俺の気持ちも知らないでさ、俺のこと駄目な男だと決めつけて、叱って諫めて、守ってやってる気分になるのってそんなに気持ち良かった?」 「……ちがう。違う、俺はそんなつもりは」 「そんなつもりじゃないなら、なに? なんで分からないの、哲。俺はゲイなんだよ。男なのに男が好きなゲイなんだよ。おまえの隣で笑いながら、おまえに欲情していたような最低な男だよ。それが俺なんだ。いい加減に分かってよ。おまえの心配なんていらない。おまえの自己満足の庇護欲なんていらない。俺が欲しいのはそんなものじゃない。おまえの理想を押しつけないでくれ。俺はおまえの望むようにはなれないんだ」  どうしようもないんだ。  これが俺の生き方だ。俺は望まない。好きな男に好きになってもらえるなんて思わない。幸せが得られるなんて思えない。  最初から分かっていたことだ。俺はおまえや中野たちのように、当たり前の幸せを手に入れらることはできない。だからその幸せを遠くから眺める。結婚して家族を得て、家庭を育み、未来を築く──そんな明るい幸せを眺めながら、俺は仕事をして小さな達成感を得て、稼いだ小金で遊んで、また仕事をして。なにも成さず、なにも得られず、ただ時間に流されていくように毎日を繰り返して終わるんだ。……それでいい。高望みなんかしなくていい。  これが俺なんだ。これが俺の身の丈にあった生き方だから。  不幸だなんて言わないでほしい。同情をするぐらいなら、憐れむぐらいなら、軽蔑してほしい。俺はおまえの前で跪きたくない。強いままでいたい。  ……哲に愛なんて乞わない。絶対愛なんて乞わない。  それが唯一の俺のプライドだったのに。  胸が痛かった。身体のあちこちが痛かった。なにもかもが痛みで覆い尽くされて、なにもかもぜんぶ終わればいいのにと思った。  呆然と理文を見下ろして、哲が口を開く。 「……理文」 「俺を好きになれないなら、二度と顔を見せるな」  冷たく理文の声が、哲の呼びかけを遮った。  哲は真っ青な顔をして理文を見下ろし、言葉を失っていた。理文はもうなにも答えなかった。ベッドに身体を横たえたまま、世界を拒絶するように目を閉じる。  やがてかすかな衣擦れの音が聞こえて、哲が踵を返したのが分かった。彼の気配がゆっくりと遠ざかっていく。  病室の扉が開く音がして、彼は去っていた。  理文は痛む身体を我慢して寝がえりを打ち、病室の扉に背中を向けた。胸が痛みを叫んだ。それが肉体の痛みなのか心の痛みなのか、理文には分からなかった。
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