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 彼がなにかを言うより先に、理文の口からその名前が零れ落ちる。  相変わらずの仏頂面で、哲はぎらりと鋭い眼差しを理文に向けた。 「哲、なんで、ここ」  呆然と呟いてから、はっと我に返って、理文は辻から身体を離していた。  明らかに様子のおかしい男の来訪に、店内は静かに騒然としている。その様子に気づいて、慌てて理文はスツールを降りて、哲のもとに駆け寄っていた。  ここはゲイバーなのだ。ノンケでお堅い哲が来るようなところではない。  大体、なぜ彼がいるのか。 「哲、なにしに来たの。とにかく出よう。外で話をしよう」  そう腕を掴んだが、彼は動かなかった。彼の厳しい眼差しはすぐ目の前にやってきた理文を見て、それからさきほどまで隣にいて寄りかかっていた辻の方へ向く。 「……新しい男か」 「違う!」  つい反射的に理文は否定していた。言ってしまってから、嘘でも肯定すればよかったのだと気がつく。それぐらい理文は余裕がなくなって、混乱していた。  最悪だった。  店内の客たちは、事情が分からずにざわついている。こんなところで彼がその頑迷な正義感と常識をかざせば、彼らの不快を煽り、またはからかいを誘うのは明らかだ。 「ねえ、哲。お願いだから外に出よう。ここは哲が来るところじゃないんだ」 「俺がここに来たらいけないか」 「分かるだろ、哲」  泣きそうな思いで訴えながら、圭だ、と不意に理文は思い至った。  哲がこの店のことを知るには、誰かが教えるしかなく、その接点があるとすれば病室ですれ違った彼しかいない。ハッと理文がカウンターを振り返ると、圭はこんな騒動の中にあって背中を向けたままで、明らかに不審な様子をしている。  理文の意識が別のところに向けられたのが気に入らなかったのか、哲が逆に理文の両腕を掴んで自分の方に向けさせた。 「俺がゲイじゃないからダメなのか」 「哲!」  必死で理文は正面から顔を合わせてやめるように訴えた。だが、そんな理文をまっすぐに見返して、容赦なく哲は言葉を続ける。 「俺はゲイじゃないよ。ゲイじゃないから、男と寝るおまえのことが全然分からない。なんでおまえがそうするのか分からない。ずっと理解できなかった。ずっと許せなかった。おまえが男と付き合っているなんて、おまえが男とセックスしてるなんて、考えるだけでムカついた」 「……哲、なにを、言って」 「どうして俺と同じ男なんだ。なんで俺と同じ男がおまえを押し倒して、おまえのことを好きにするんだ。女ならまだしも、そんなもの許せるわけがないだろう!!」 「────」  呆然と理文は言葉を失っていた。  なにを言っているのだろう。  中学時代からの友人が、いつも自分のことを軽蔑し心配し叱りつけてばかりいる友人が、今なにを言っているのか、よく分からない。 「……おまえが、今どんな男と付き合ってどこへ行ってなにをしているか、聞くたびに本気で腹が立ったよ。相手の男のことが本気で憎かったよ。俺はゲイじゃない。男のなにがいいかなんか分からない。仕方ないだろ、それが俺だ。だけどおまえが他の男と寝るのは我慢できない。どうしても我慢できない!」  店内はいつのまにか静まり返っていた。  哲は周りのことなどなにも見ていなかった。理文のことだけを見て、彼の腕を逆に捕らえ、ただまっすぐに言葉を紡ぎ出した。 「俺が好きか、理文」 「っ」  あまりのストレートさに、カアッと理文は全身が熱くなる。  病室で詰るように告白した。それは彼を遠ざけるためのもので、彼から離れるためのもので、まさか今こんな衆目の場でそのことを持ち出されるなんて思わない。 「まだ俺のことが好きか。もし俺がおまえを選んだら、おまえは他の男を選ばないか」 「なに、言って」 「男に抱かれるのがおまえの幸せなら、俺でもいいだろ。俺のことが好きなら、他の男と付き合うな。俺にしろ。俺だけにしろ」  まるで愛の告白のようだ、とぼんやりと思う。  意味が分からない。彼の言っていることが全然理解できない。 「哲、本当に、なに言ってるの。バカなこと言うなよ。おかしいだろ。俺のこと好きじゃないくせに、そんなのおかしいよ……」 「おかしくないだろ。前におまえ言ったよな、俺がおまえをかまうのは自己満足の庇護欲だって。あれは違う。そうじゃない。俺はおまえが俺の知らない誰かのものになるのが許せない。わけの分からない男と遊んで、危険な目に合うのが許せない。他の男に抱かれるなんて反吐が出る。理文、俺だけのものになれよ」 「っ、なにそれ。そんな、勝手な──」  それは剥き出しの独占欲だ。  ぞっとして、理文は身体を震わせた。まるで愛の告白のような、生々しい独占欲。でも彼は自分を好きだと言っているわけじゃない。そんな中途半端はただの生殺しで、苦しいだけだ。  どうしたらいいか分からない身体の奥の不安定な揺らぎを抑えて、必死で理文は口を開く。 「……嘘だ。そんなの嘘だ。おまえは女が好きなんだから、女と普通に付き合えよ。俺のことなんか放っておけよ。俺のことなんか、俺のことなんか……!」 「ごちゃごちゃうるさいな。いいから、おまえは俺のものになっとけ!」 「────」  一喝されて、理文はとっさに哲をまっすぐ見上げていた。  哲の目に嘘やごまかしはなかった。そうだ。彼にはいつも嘘がない。いつだって理文のことを本気で怒って、本気で心配してくれて──。  急に理文は泣きたいような気持ちになっていた。  理文の想像すら超えて、どこまでもどこまでも、哲はまっすぐで真面目で頑固で馬鹿だ。  本当にどうしようもなく、愛おしい馬鹿だ。  うん、と小さく頷いた次の瞬間には、理文は哲の力強い腕に抱き寄せられていた。 「……っ」  あ、となにか言いかけて開いた唇をキスで塞がれる。まるで獰猛な獣が、獲物に食いつくような乱暴なキスだ。  同時に、わっと怒号のような歓声が上がった。 「っ、ん、……っ、って、あきら、待っ……っ、ん」  息継ぎの合間に、やめるよう喘いだが、哲がそれを許さない。まるで周りの人たち全員に見せつけるように、何度も何度も唇を重ね、舌を奪う。  強引すぎるキスに腹の奥がきゅっと締めつけられるように感じて、たまらず理文は身じろいだ。周りからは、冷やかす声や囃したてる声や指笛まで聞こえてきて、恥ずかしさに全身が熱くなる。  この店で理文は我儘で強引なキャラクターで君臨してきたのだ。それがこんな──哲の前ではほんのわずかな抵抗もできなくなってしまうところを見られるのは恥ずかしい。 「……や、あきら、も」  力を失った手でなんとか哲の逞しい胸を押すと、ようやく彼は理文を解放した。だが、その腕は逃がさず掴んだままだ。 「行くぞ」 「え?」  ほとんど問い返す間もなく、踵を返して哲は店を出て行こうとする。 「いや、会計が……」 「大丈夫、ツケとくから」  すかさずマスターからそんな声が飛んできて、さらに外野が喜びの声をあげた。そんなふうに言われてしまえば、もう哲に抗うこともできない。  強引に連れ去られるように外に出て、背後店のドアが閉まっていくその瞬間、我に返って理文は一言だけ店内に向かって怒鳴っていた。 「圭! 覚悟しとけよ!」  それが年若い友人に届いたのかどうかは分からなかった。  一足飛びに過ぎる、と理文は混乱した。  状況の変化についていけない。  店を出てから、どこへ向かっているのか、ずんずんと哲は足早に歩いていく。片腕をしっかりと掴まれたままで、哲が振り返りもせずに歩いていくから、理文もなんて声をかけていいのか分からず、ついでにやっぱりいまだにこの状況が信じられず、引きずられるままになんだか夢見心地で歩いていた。  狭い店の馴染んだ空間から開放的な夜の街に出ると、さきほどの会話のすべてが現実ではなかったかのようにさえ思えてくる。  だがさすがに新宿二丁目を出て、一丁目のほうまで来て、その先には寝静まったビジネス街しかない、という場所まで来たところで理文は口を開いた。 「ねえ、哲、どこ行くの」  声をかけたとほぼ同時に哲が足を止める。  しばらくそのまま道の真ん中に突っ立って、やがて振り返りもせずに口を開く。 「……どこへ行けばいい?」 「え?」 「おまえなら分かるだろ。こういうとき、どこへ行けばいい」  こういうときというのはどういうときだ、と言い返したかったが、ぶっきらぼうに問う哲が真面目にそれを問うているのが分かって、理文はやめた。  ──本気で彼は自分とそういう関係になろうとしているのか。  やっぱり夢みたいだ、と理文は思う。こんなことは嘘だろう。あれはきっと、今回みたいに変な事件に巻き込まれないよう釘を刺すつもりで芝居を打ったのだ。 「……この近くにホテルとかないのか」 「え、いや、俺んちなら、ここからタクシーで行けるけど」  ホテルという言葉の生々しさが嫌で、思わずそう返した途端、哲は眼差しに怒りを込めて振り返っていた。 「おまえ、いつもそうやって男を連れ込んでるのか!?」 「い、いつもじゃない! いつもじゃないけど、──え、哲、本気なの?」  とっさに否定して、つい理文はまた疑わしく聞いてしまっていた。疑われた哲はむっと顔を歪めて、「当たり前だ」と呟く。 「どうせおまえのことだから、いっときの感情だとか勘違いだとか冗談だとか言って、信じていないんだろう。おまえを信じさせるのに、有言実行のほかになにがあるんだ」 「……哲」  哲は理文のことをよく分かっている。  有言実行、と言ったときに、彼らしい怒ったような照れが横顔に見えて、理文はぎゅっと胃の奥が切なく締めつけられるような感覚を味わった。  もう付き合いは長いのに。もうお互い二十八にもなるのに。今まで何度も何度も笑ったり怒ったり叱られたり苦しんできたりしたのに。  今さらまるで中学生の告白のように恥ずかしかった。  緊張に震える手をのばして、理文は自分の片腕を掴む哲の手の上に重ねる。 「……俺の、部屋、行こう」  誘うにしては小さく弱々しい声に返ってきたのは、重ねた手を奪うようにして握りしめた哲の手の力強さだった。
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