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     ***  故郷の地に降り立ったときには、すでに約束の七時を回っていた。  いつものように締切仕事に追われ、ふと気づいたときには、暦は年の瀬の押し迫った十二月三十日を迎えていて、慌てて飛行機に飛び乗り、地元の空港からバスを乗り継いで、ようやく繁華街の真ん中にあるバス停を降りたところで、ぶるりと理文は身震いをひとつした。  それにしても寒い。  東京より北の地だ。羽田から飛行機で約一時間、空港から市街地まではさらにバスで四十五分ほどかかる。だが、生まれ故郷までのこの帰省の道のりにも理文はもう慣れていた。  高校を卒業すると同時に地元を離れてから、もう十年になる。  その間に理文はデザインの勉強をし、業界ではそれなりに名も実績もあるデザイン事務所に就職し、ブックデザインを中心としたデザイナーになった。まだ若手だがそれなりに仕事をして、評価もされ、最近では店頭の平台に並ぶような本を手掛けることもある。  しかし、そうして東京での暮らしが当たり前になると、故郷の冬が想像よりも寒いということをうっかり忘れてしまう羽目になる。まだ雪こそ降ってはいなかったが、空は重々しい雲に覆われ、風は冷たく、湿った空気が足元から這い上がるような厳しい寒さに、理文は仕立てのいい黒色のコートの前をかき合わせた。  高校時代の友人である中野知己(なかのともみ)の希望で開かれるプチ同窓会の会場は、降りたバス停からは離れているようだった。地図を確かめるために、携帯を取り出してメール画面を開く。  〈遅れるなよ。場所分からなかったら電話して。〉  こういうときいつも取りまとめ役を引き受ける三木哲からのメールは、店の名前や住所など以外は相変わらずそっけない気遣いが込められていた。  メールの忠告に逆らって、遅刻はすでに決定だが、気にせず理文は悠然と歩き出す。  街は年末の夜を迎えて多くの人が溢れていた。特に表通りから一本裏手に回ると、飲み屋が軒を連ねて、忘年会か同窓会か、老若男女の集まりがいくつも見てとれる。  冷え切った冬の空に、ときおり騒々しい若者たちの声が響く。  そんな街中を歩き、一歩一歩指定の店に近づきながら、理文はゆっくりと心を整えた。  ……同じ東京にいても、東京で彼と会うことはあまりない。上京して数年のうちは、まるで高校時代の延長のように数カ月に一度は必ず顔を合わせていたが、それぞれが社会人になって忙しくなり、共通の友人である中野に彼女ができて三人で集まることが減った今は、もう。  だから準備をする。  この重く寒い街で、久しぶりに彼に会ったとき、自分がどう演じればよいかを考える。店に着いて座敷に案内され、懐かしい面々の集まりに顔を出して、彼にかける最初の一言を考える。  なるべく自分らしい言葉を。 「──で、哲は。彼女できたの?」  おつかれ、とまるで昨日も会ったかのように軽い挨拶をして座敷に入り、「遅れて悪い」だの「久しぶり」だの周りに声をかけたりかけられたりして、コートを脱ぎながら招かれた席に腰をおろしてすぐ、斜め前に座っている友人に理文はそう声をかけた。  瞬時にして、彼の顔が歪んだのが分かった。その隣で中野知己がハハッと笑い声を上げる。 「いきなりかよ。飲む前にそれかよ。相変わらずおまえテッちゃんには攻撃的だな」 「攻撃じゃないでしょ。心配してんの俺は。中野が色ぼけして合コンしないから、どうせ出会いもなく寂しい思いをしてるんでしょ。せっかくの男前がもったいない。──あ、生ひとつ」 「おまえに心配される謂れはないし、俺は寂しい思いもしていない」  顔をしかめたまま、唸るように彼が返してくる。  久しぶりに真っ向から見返した友人は、半年前──盆休みのころに会ったときと、そんなに変わっていないように見えた。清潔そうな短い黒髪に、鼻筋の通った男らしい顔立ちと、生来の真面目さと強情さがよく表れている鋭い切れ長の眼差し。  それが中学時代からの友人、三木哲だ。  理文は彼の不愉快げな視線には気づかないふりで、ふふっと笑った。 「やだな、仕事が恋人みたいなつまんないことは言わないでよ、哲。俺たちまだ二十代なんだよ。もっと楽しく遊んでいかないと」  アルコールも入っていないのに軽いノリでそんなふうに言えば、少し離れたところにいた女の子たちが、「やだ西澤くん遊んでるの?」とさざめくように笑った。  そちらのほうに目を向けて、理文は唇の端を少し持ち上げるようにしてみせた。 「なに、みんな俺の遊び方、知りたい?」 「理文!」  すかさずたしなめるように厳しい声が飛んできて、それに理文が肩をすくめてみせれば、周りが笑い声をあげる。  斜め前で哲は憮然とした顔をしていたが、構わず運ばれてきたビールグラスを手にした理文が、「じゃあ乾杯しようぜー」と声をかければ、わっとテーブルが盛り上がった。  これがいつもどおりだ。  遊び人でいつもふわふわしている西澤理文と、それを快く思っていない三木哲、二人の間でマイペースに笑う中野知己。そういうふうに、高校時代から認識された関係だ。  乾杯に湧いて、すぐに周りから飛んできた「元気?」「どうしてる?」なんて近況を尋ねる声に、理文はしばらくにこやかに応じた。理文の仕事を知っている同級生からは「最近どういうものやってるの?」と聞かれたが、それには「いろいろ」と曖昧に答えておく。 「なんだよ、相変わらず忙しいの? この間も金曜の夜、誘ったのに仕事って言ってたじゃん」  とは中野。その日はたまたま締切直前で行けなかったんだ、と理文が口を開くより先に、ふと中野の隣でビールグラスを傾ける手を止めて、哲が横を向いた。 「なに俺の知らないところで誘ってんだよ」 「だってたまたま俺、新宿にいたし。ノンの事務所近くだろ? おまえの会社は遠いじゃん」 「五反田は別に遠くない」 「はいはい。ホント、テッちゃんは意外に寂しがり屋だね。次はきちんと誘うから、そんなに拗ねるなよ。結局忙しいって断られて俺も会えてないんだし」 「寂しがり屋ってなんだ。つーか拗ねてねえ」  中野にかかれば、哲でさえかたなしだ。二人の会話がどこか懐かしく微笑ましく、傍で聞いていて理文はつい笑っていた。  ……理文が哲と出会ったのは中学のときだったが、そのころはまだ特別に親しいわけではなく、ときどき会話を交わすぐらいの普通の同級生でしかなかった。哲と親しくなったのは、二人が同じ高校に進んで中野と出会い、中野が間に入るようになってからだ。  中野のおかげ、中野のせい。  どう表現しようか、いつも理文は迷う。どちらにしても中野のことは友人として好きなのは変わらないけれど。 「──で、式はいつ?」  プチ同窓会がつつがなく進み、結婚という中野の重大発表も無事盛大に済んで、何度かのハイテンションな乾杯が終わったあと、理文はそう問いかけた。  途端に中野の顔がふにゃりと情けなく垂れさがる。  この男は、今や婚約者と呼ぶべきその彼女にすっかりと惚れこんでいるのだ。前からのろけ話はいやと言うほど聞かされている。この調子じゃ最初から尻に敷かれるぞ、とは同級生全員一致の意見だった。 「五月の半ば、連休の次の週の土曜日。あ、とりあえず、おまえとテッちゃんは呼ぶから」 「呼ばなくていいよ」 「失礼なやつだな」  理文の発言に慣れている中野は、そう言いながらも笑っていた。だから遠慮なく理文も、三杯目のビールを傾けながら、限りなく本心に近いことを吐き出せる。 「式とか興味ねーの、俺」 「分かってねえなあ、ノンちゃん。ただの結婚式じゃない、俺の結婚式だぞ。興味持つだろう、普通」 「おまえはどんな式を挙げるつもりなんだ」  呆れた哲が隣からそうツッコミを入れて、ハハッと三人して笑い声をあげていた。  大切なのはバランスだ、と理文は思う。  哲と自分とのふたりだけではうまくいかないのだ、昔から。自由きままに振る舞う理文に歯止めがかからず、そんな理文の前で哲は非難がましい眼差しをしながら黙り込む。……今では黙り込むことはなくなったが、おかげで際限なくお互いを傷つけ合う羽目になる。  だからこそ中野の存在は有難いのだが。 「あ、二次会の幹事も二人に頼むから、よろしくな」 「──は?」  思いがけないことを耳にして、理文は素で向かいに座っている男に問い返していた。だいぶ酔いが回っているのか、赤い顔をして中野はにっこりと邪気のない笑顔を浮かべる。 「二次会の幹事。嫁さんの方からも二人手伝ってくれるっていうから。仲良く頼むわ」 「待ってよ、勘弁してよ、そういうの俺向いてないって知ってるだろ」 「別に大したことしなくていいから。向こうの子たち、超できる子たちらしいし、安心して」  なにが安心して、だ。呆然と言葉を失ったところで、理文の隣で三人の会話を聞いていた同級生が「いいじゃん、出会いの場じゃん」と羨ましそうに口を挟んだ。  だから嫌なんだよ、と思ったが表には出さず、理文は目線を上げて、もう一方の指名相手を見やった。一瞬だけまっすぐに目が合って、それからすぐ哲の方からさりげなく逸らされた。  彼の思ったことがほとんど過たず分かった気がして、急に嗜虐的な衝動がこみ上げ、理文は唇を歪める。意地が悪いのは得意分野だ。 「でも出会いの場は確かに哲には必要だもんなあ。いい加減、哲も可愛い彼女欲しいよね」 「うるさいな、余計なお世話だ」  焼酎ロックに口をつけながら渋い顔。その隣で諸悪の根源の中野はにこにこと笑っている。 「そういうノンちゃんはどうなの」 「俺はだめー。いろいろ遊ぶので忙しいから。特定の相手なんて作ってられないの」 「っていうかさ、おまえって本当にどういう遊びをしてんの?」  なにも知らない同級生が興味深そうに尋ねてきて、理文は「知りたい?」と意味ありげに問い返した。頭の片隅で、彼は誰だったかな、と考える。名前をきちんと覚えていないが、同じクラスでよく中野ともつるんでいた男だと思う。もちろん、と答える彼に耳を貸すよう手招きして、その耳に唇を寄せて、ちらりと哲の方に流し目を送る。 「……新宿の外れにね」 「理文! 後藤は新婚だぞ。変なことに誘い込むな!」  すぐさま哲が怒ったように声を荒げた。予想通りの展開に理文は、ハハッと大きく噴き出す。 「本当に哲はすぐ怒る。もうお堅いんだからー。そんなんじゃ女の子が寄ってこないぞ」 「だから余計なお世話だっつってんだろ」  そう哲が渋い顔をした隣で、中野が「確かに余計な下の世話だな」と笑って、途端にそのくだらなさに周りがふわりと柔らかく笑いの空気に包まれた。そうやっていつも、理文がこれ以上言うと空気が悪くなる寸でのところで中野が自然に間に入る。  かなわないな、と理文はみんなと一緒に笑って、その同窓会らしい空気を味わった。  和風居酒屋の座敷に集まっているのは、男女交えて二十人足らず。プチ同窓会開催の企画が持ち上がったのが一週間ほど前というわりには、参加率が高いと言えた。話を聞いていると半数以上は地元で働いているようで、なかには結婚している者や子どもがいる者もいた。  素直に、すごいな、と理文は思う。電話では哲に揶揄するように言ったが、本当に理文には想像できない──理解できない境地だ。それはゲイだからというより、もっと単純に「たった一人の相手」を見つけて、一生添い遂げようとする現象そのものへの理解不能に近い。  一体どうしたらそんなことができるのだろう?  理文には分からない。  急に落ち着かない気分になって、理文は席を立った。もともと、こういう人が大勢集まる場面は得意ではないのだ。いくらでも普通に演じることはできるし、友人たちのことが嫌いなわけではないけれど、どうしてもときどき違和感を覚えてしまう。それでもわざわざ飛行機に乗って帰省してまで来ているのは、たったひとつの動機があるからで──。  店の奥のトイレから座敷に戻る途中で、その〝動機〟とばったり遭遇して、理文は思わずその場に立ちすくんでいた。自分より十五センチ近くも背が高く、肩幅もあって、しっかりとした体つきをしている彼に向き合うと、それだけでぎゅっと身体が引き締まるような気がする。  「理文」と、彼だけはいつもあだ名でも名字でもなく、名前で呼んだ。  まるで親しげに呼びかけるくせに、彼の表情は変わらず不機嫌そうで、その彼らしさに理文は自然に笑みをこぼしていた。しつらえの良い和風居酒屋の廊下の片隅は、二人で顔を合わせるにはちょうどよく明るく賑やかしく、開放的でありながら落ち着いている。  理文もまた学生時代と同じように名前で呼んだ。 「哲。また眉間にしわが寄ってるよ。そんなんじゃ、あっという間に老ける」 「おまえがそうさせるんだろ」 「俺はなにもしてないと思うけど?」  身長差のある哲の顔を、わざと下から覗き込むように見やって、理文はうそぶく。そういう誘うような上目遣いを彼が嫌っていることをよく知っていた。  ちっと口の中で小さく舌打ちして、哲は歪めた顔をよそに向ける。 「……相変わらず遊んでるのか」  苦々しく近況を尋ねる声に、聞きたくないなら聞かなければいいのに、と理文はうつむいて、自嘲に歪む口元を隠した。理文自身がことあるごとに嫌がらせのように、自分の近況をあからさまに語るから、哲は理文が本当にどれだけ遊んでいるかを知らされている。 「遊んでいるって言わないでよ。俺はいつも本気の愛を探してるの」 「本気の恋愛が週末のバーに落ちてるとは俺には思えないけど。おまえ、もうちょっと真面目に生きる気ないのか」 「やだなあ、仕事は真面目にやってますぅ」 「それは知ってる」  思いがけずあっさりとそんな言葉が返ってきて、思わず理文はうつむけていた眼差しをあげていた。その視線に気づいて、ああ、と哲はどこか気恥ずかしそうな顔をしてそっぽ向く。 「この間、話題になっていたミステリーの装丁、おまえだろ? 見たら、おまえのところの事務所の名前書いてあったし」 「……そんなの、俺かどうかなんて分からないだろ」 「前におまえが装丁したって言ってた本と作家が同じだったし、おまえじゃないの?」  俺だけど、と呟くように理文は応えていた。  うん、と頷いて、ふっと哲の口元がほころんだ。 「だろ? 分かるよ。おまえのやったデザインは。理由はうまく言えないけど、なんとなく」 「────」  どうしてこの男はこうなのだろう。  一瞬、感情が顔に出そうになって慌てて理文は顔を伏せた。その不自然さを隠すようにさっと足を踏み出して、哲の隣を通りすがりざまに彼の肩を軽く拳で叩く。 「分かった? 俺は仕事も遊びも、一生懸命、な、の!」 「遊びに一生懸命って、おい理文!」  呆れた声が背中に追いかけてきたが、振り返らずに理文は軽く手を振った。  顔を上げたすぐ先に、みんなが集まる座敷の賑わいが見える。  中野が戻ってくる理文に気づいて、「早く来い」と笑いながら手招いた。それに軽く手を上げて答えながら、急に彼らの前で、自分はゲイなのだと大声で主張したい衝動が込み上げて、理文は熱い喉でそれを押し殺した。  ──自分はゲイで、男に抱かれるのが好きで、毎週ゲイバーに行って男を漁り、遊んでいるような人間なのだと。  言って、なにもかもを壊したい。  だけどできない。できるわけがない。これは彼とだけの秘密なのだ。だからこそ、哲の興味を惹き続けることができる。  そんな苦しい特権を、理文が自ら手放せるわけがなかった。  予定の二時間を軽くオーバーして一次会の店を出れば、メンバーの半数以上が外の寒さをものともしない様子で二次会に行こうと盛り上がっていた。年末で混雑しているからと、用意のいい地元在住の幹事が次の店も席を押さえているという。  繁華街のやや外れにある今の店から歩いて五分強のところらしく、先導する同級生の後ろについてぞろぞろと大移動を開始していた。  その最後尾にいた理文は、集団が繁華街の中心のスクランブル交差点に達したところで、足を止めた。すぐ近くを歩いていた同級生が「西澤くん、行かないの?」と声をかけてきて、うん、と頷いたところで、先を歩いていた哲が急に振り返った。 「行かないって、理文」 「信号、青になったよ」 「ああ、みんな、先行ってて。……行かないってどういうことだよ」  つくづく幹事体質というか面倒見が良いというか真面目だなあ、と理文は戻ってきた哲を見て呆れた。  理文と哲がいろいろ揉めるのはいつものこと、とばかりに二次会へ移動する集団は先に交差点を渡って行ってしまっていた。結婚を発表した中野は上機嫌で先頭に立っているから、友人二人がついて来ていないことに気づいてもいないだろう。  街は年末ならではの人出で明るく賑やかしく、けれど夜を包む空気は対照的に、この地方特有の湿った寒さに重く沈んでいた。  外気に触れてすぐに冷える両手をコートのポケットに突っ込み、理文は肩をすくませる。 「俺は二次会いいや。中野に東京でまたお祝いしようって言っておいて」 「なんでまたおまえはそう、わがままばっかり」  哲の口からは白い息とともに、呆れたようなため息が漏れた。 「別に他に用事なんかないだろ」  長い付き合いで理文が急に勝手を言い出すことに慣れていながら、毎回飽きずに哲はいつもそれを諌める。そんな彼らしさを前に、うつむきがちに理文は薄く笑った。 「地元に帰ってきたら帰ってきたで、俺には俺の遊び方があるの。哲が知らないような、ね」 「理文」  怒気のこもった声が低く名前を呼んで、殴るような勢いで伸びてきた手が理文の腕を掴んだ。 「いい加減にしろよ。そんなことが、俺や中野たちより大切なのかよ」 「そういう比較ってさ、『私と仕事のどっちが大切なの?』って聞くのと同じくらい無意味だと思わない?」 「理文!」  強く名前を呼んで、哲が咎めた。彼がそうして怒りを見せるほどに、理文は逆に切なく、微笑ましく感じる。  ……彼は変わらない。いつまで経っても、何度同じようなことを繰り返しても、真面目にきちんと自分を叱ってくれる。  理文は掴まれた腕を動かし、まるで絡めるようにして哲の腕を掴み返すと、一歩彼に近づいて、彼の胸の中から彼を見上げ、空いた手を伸ばして彼の頬にそっと触れた。そして唇の端を持ち上げて、嫣然たる笑みを浮かべて見せる。  声にはあからさまに艶を含ませた。 「拗ねないで、哲。俺にとっては哲と中野が一番大切だよ? 浮気なんてしないから心配しないで?」 「っ、──勝手にしろ!!」  とうとう怒りを爆発させて、哲が突き放すように手を離すと踵を返した。もうそれ以上の言葉はなく、背中を向けたまま、ものすごい早足で去っていく。  ──真面目な哲、お堅い哲、俺を軽蔑する哲。  それでも好きだと思う自分はたぶん被虐趣味だ。彼の背中が年末の繁華街の人ごみにまぎれて見えなくなり、そこでようやく理文は目を伏せた。  騒々しい夜の雑踏にひとりになって、急に寒さが身にしみるようで肩をすくませる。  行く先はない。  哲にはあんなふうには言ったが、本当は地元の街で遊ぶつもりなどなかった。もちろんどこにどんなゲイバーがあるかは知っているし、行ったこともあるけれども、本気でそうするつもりで言ったわけではないのだ。  当てのないまま、ひとまず同級生たちが向かった方向とは違う方へ理文は歩き出す。今から泊まれるホテルはあるだろうか、と携帯を取り出し、歩きながらネット検索を始める。  実家は繁華街からタクシーで四十分ほどのところにあったが、帰るつもりはなかった。  勘当されているわけでも、理文の方から縁を切っているわけでもないが、理文が自分の性向をカムアウトして以来、実家とは気まずく、ときおり電話とメールで連絡をし合うだけの関係になっていた。帰ってきているという連絡すら入れていないし、数日前に年末年始も仕事が忙しいとメールを入れたから、彼らはきっと理文が東京にいるものだと思っているだろう。  それでいい、と理文は思う。  たとえどんな相手でも、たとえ哲でも家族でも適切な距離は大切だ。……これ以上、傷つけ合わないために。
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