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二十歳の正月に、両親にカムアウトしたのは成り行きだった。
デザインの専門学校に通っていた理文は、その年の四月から業界では有名なデザイン事務所に勤めることが決まっていた。
その日、念押しのように「おまえも地元に帰ってくる気はないんだな」と父親が尋ねた。三人兄弟のうち、年の離れた一番上の兄はずいぶん前に家を離れていて、六才年上の姉はすでに結婚していた。両親はこれまで一度も理文自身の決めた進路に口を挟んだりはしなかったが、ふとそんなことを聞いてきた。
もう二十歳になったのだから、実家や財産や保険や、そんなさまざまなことを考えなければいけない。そんな真面目な話の流れだった。
その親の真剣さに自分も応えなければならないと思ったのだ。
──ごめん。俺、ゲイなんだ。一生、結婚はできない。家族は持たない。
理文がそう告白したとき、どちらかといえばおおらかな父が「くだらん冗談を言うな!」と本気で怒鳴って部屋を出ていき、母は「冗談なんでしょう? 嘘なんでしょう? なにかの間違いでしょう?」とおろおろして何度も問いかけてきた。
話はそのまま棚上げになり、理文は家に居づらくなって、哲に連絡を入れた。「遊びに行っていい?」と尋ねた理文に彼はあっさり答えた。
『ああ、うちの親、今日夜勤だし、誰もいないしヒマしてたんだ。ちょうどよかった』
哲の家には父親がおらず、母親は看護婦をしていて忙しく、三つ年上の姉がいるけれど、その日はスキーかなにかに出かけているという話だった。
「中野も呼ぶ?」
『あー、あいつ、確か年始は家族と旅行』
「マジで? すごいな家族旅行って。酒とツマミ買ってく。なんか欲しいものある?」
じゃあポテチコンソメ味となにかうまいもん、と返ってきて、中学時代から変わらないその感じに少し笑って、通話を切った。
そのときには、すでに十分彼のことを好きだったけれど、どうにかなりたいとか思っていたわけじゃない。恋をしていたって分別はある。五年以上の付き合いだから、彼がごく普通に異性愛者だということを理文はきちんと知っていた。
……ただ少し寂しかっただけだ。
もちろん覚悟はしていたけれど、聞く耳も持たない父母の態度がショックだった。
「あけおめ、あきらー、ポテチとたこ焼きと、ビールと焼酎をお届けに来ましたー」
ビニール袋にいろいろと詰め込んだものを手に、哲の家に行った。
持ち家の多い土地柄だが、三木哲は中心街近くのマンションに住んでいた。立地が良い上に、看護婦をしている母親が不在にしていることが多いから、高校時代にはよく学校帰りに中野と一緒に遊びに来ていた。卒業して二年、中野と三人一緒に東京に出て、そちらでも変わらずときどきお互いの家を行き来していたから、部屋に遊びに行くのに抵抗はなかった。
それでもふたりきりは珍しい。
「たこ焼きはおまえが食べたいんだろ」
理文の好物を知っている哲は、玄関先でたこ焼きの入ったビニール袋を受け取ると、少し笑いながら顎を持ち上げるようにして、理文に部屋に上がるように促した。
三LDKの、玄関に一番近くて一番狭い部屋が哲の部屋だ。ベッドとデスクと背の高い本棚とキャビネットがあればそれでいっぱいで、座るところは床かベッドの上しかない。慣れた様子で理文はコートを脱ぎ、適当に畳んで部屋の隅に置き、本棚を背にするように座った。遅れて哲がグラスと箸と、チーズやナッツの軽いツマミをお盆に載せて入ってきた。
「なあ、正月ってさ、すぐ腹減らねえ? お節って味に飽きて腹いっぱい食えないし」
「それ分かる。俺は雑煮で腹膨らませてるよ。餅三つとか食って。あ、哲も、とりあえずビールでいい?」
「ん。あ、ポテチ、サンキュー」
床に座る理文と対面になるように、哲がベッドに座った。大体それがいつもの位置で、その普段と変わらない感じに少しほっとする。
互いにビールをグラスに注ぎ合って、そのグラスを持ち上げるようにしてから口をつける。部屋は少し寒く、そんな中で冷たいビールが喉を通っていくのは気持ちがすっとするようで理文は心地良く、ぷはっと息を吐いた。
ふ、と小さな笑い声が聞こえた気がして顔をあげる。
「──なに?」
「いや、おまえ、うまそうに飲むな」
「そ?」
「おまえいつのまにそんな酒好きになったんだよ。前のときはそんなでもなかっただろ」
どうだろう。自分ではそんな変化が分からず、適当に理文は首を傾げた。
まあ、同級生の集まりなどではあまり嬉々として飲んではいないのかもしれない。
理文が酒の美味しさを教えてもらったのは、二丁目で出会った三番目の恋人に連れて行ってもらった店で、彼からはそれ以外にもさまざまなことを教えてもらったが、もちろんそんなことを哲は知らない。
「哲は? 大学で飲むんじゃないの?」
「たまにね。あ、このたこ焼き、うまいな。おまえも学校で飲むの?」
「……ま、そこらへんの友だちと、ときどきね。あ、チーズちょうだい」
ベッドの上から放り投げられたベビーチーズを受け取った。そうしてツマミとビールを行ったりきたりさせながら、本当のことから少し逸れた会話を交わす。
そういう話し方に、理文ももうこの数年で慣れた。高校を卒業し、それぞれが大学や専門学校などに行くようになれば、酒や合コンや彼女やデートや遊びの話になる。どこにいった、なにをやった、どんな人と会った──彼女ができた、彼女とどこへ行った──……。
「そういや、今日はおまえ、どうしたの」
え、とビールを飲む手を止めて目をあげれば、「だって珍しいだろ」と哲が言った。
「おまえって突然人を呼び出すことはあっても、突然人んちに来ること滅多にないし」
「……そうだっけ」
「いつも突然電話してきて、どこどこにいるから来いとか、どっか行こうとか、勝手ばっかり言ってんじゃねえか」
理文は手酌でビールをグラスに注ぎながら、わざとらしく唇を尖らせてみせた。
「それをいつも平気で断るのは誰だっけ?」
「あのなあ。今から飲むからとか、今から映画行くからとかいきなり言われて、簡単に行けるかっつーの。授業もバイトもあるんだぞ普通!」
「だってそのとき突然そういう気持ちになるんだもん」
そんなふうに、乱暴に誘う方法しか理文は知らないのだ。いつだって断られる可能性の方を多くしておく。その方が多く失望しないで済むから。
「だから、じゃなくて。普段はそうやって呼び出す方が多いだろ。家行っていいか、聞くなんて珍しいぞ。なんかあったのか」
「────」
話が逸れたのに気づき、すぐに方向修正して乱暴な口調で哲がそう尋ねてきて、つい理文は手を止めていた。そんなふうに心を読まれるとは思っていなかった。
哲は、中学の頃から男子らしい鈍感さで女子たちの好意にまったく気付かず、無頓着な優しさで彼女たちを知らずうちに傷つけてきた。そんな自分の鈍感さを自覚しているのか、感情を素直に表し、まっすぐに意見を伝える女の子が好きで、これまでもそんな子と付き合った。
一瞬空いた間を誤魔化すように、理文はたこ焼きを口に運んだ。
「ここのたこ焼きが食いたかったんだよ。飲み屋に持ちこむわけにいかないでしょ」
「どんな理由だよ。……本気で言ってる?」
突然、ひやりと彼の声が硬く強張ったのが分かった。
哲が嫌いなのは、真面目な話をしているときにそれに向き合わないことだ。だからときどき、いつも冗談で本気を誤魔化す理文と歯車が噛み合わない。
本棚を背に床に座った理文と、ベッドに腰を下ろした哲とでは、狭い部屋の中でも腕一本以上の距離があり、そして上から厳しい眼差しで見下ろされるのはひどく居心地が悪かった。
──ゲイだと親にカムアウトしたら、信じてもらえなくて、気まずくて家に居づらいんだ。
そう言えばいいのか。
理文は目を伏せた。嘘や誤魔化すことには慣れている。
「ま、ちょっと正月から親とケンカしちゃったので冷却期間置くため?」
「ケンカって」
「まあ、よくあるようなケンカだよ。意見の相違っていうか」
「今さら? おまえをあれだけ自由にさせている親と意見の相違なんて、今さらあるのか」
「…………」
驚いた哲の言ったとおり、確かに理文の親は、理文をかなり自由にしてきた。
県内でもそこそこの進学校にいて、その学校では前代未聞だった無許可バイトも夜遊びも停学も、ほとんど許容してきた。国立大学にも行けるほど成績優秀なのに、理文が進んでデザインの専門学校を選んだときも、学校の教師たちの説得に対して「息子がそう望むなら」の一言で許した。道徳と正義に悖ること以外なら、本人の意思を優先した。
──そうか。ゲイだということは、彼らの道徳と正義に反することだったのか。
そう気付いた瞬間、どきりとして理文は動きを止めていた。
親に告白をしたのは半日近く前なのに、まるで遅効性の毒のように今さらショックが回ってきて胸が重く苦しく詰まった。嘔吐感が込み上げるように喉が熱くなり、たまらず理文は口元を手で覆い、こらえるように前かがみになって、呆然と哲の部屋の床を凝視した。
ゲイだということは、そんなにも親不幸なことか。
「理文? どうした!?」
慌てて哲がベッドを降りて、理文の目の前に膝をつく。
余計な心配をさせている。そう気づいたが、すぐには声がでてこなかった。
「……な、んでもない」
「なんでもないって感じじゃないだろ。どうしたんだよ、理文。なにがあった。俺には言えないようなことなのか?」
違う、ととっさに顔をあげて返しかけて、理文は言葉を失う。哲が真剣な顔をして、本気で心配そうに自分を見ていた。
「おまえが言いたくないなら無理強いするつもりはないけど、でも話をするだけでも楽になることもあるだろ? 俺は聞くよ、おまえの話ならいつでも」
「────」
どうしてこの男はこんなにもまっすぐなのだろう。
真面目でまっすぐで優しくて、どうしようもなく、いとおしい。
言えないのは自分自身の問題で、哲を信頼していないからではないのだ。そう伝えたいのに、うまく伝える言葉が見つけられず、理文は苦しくうつむいた、
「言いたくない、わけじゃない。おまえだから言えないわけじゃない。ただ、俺がダメなだけだから」
「ダメってなんだよ。今さらおまえのどんな所業を聞いて、ダメ出しするっていうんだよ。おまえ、今まで俺たちにどれだけ迷惑かけてきたと思ってるんだ」
呆れたような口調の揶揄は理文を和ませようとしたものだ。そんなさりげない優しさを、いやというほど理文は知っている。
──哲なら。
ふとまるで悪魔の囁きのように、ひとつのひらめきが胸に忍び込んだ。
哲なら軽蔑しないかもしれない。学生時代から今まで、いろんな無茶をしてきたけれど、なんだかんだ言いながらも哲は認めてきてくれた。理文の奔放さをときどき呆れ、目に余るときはたしなめながらも、多くは見守ってきてくれた。だから、きっと──。
気づいたら理文は、震える唇を動かしていた。
「……親に言ったんだ」
「なにを」
「そしたら、『くだらない冗談は言うな』と怒鳴られた。『嘘でしょう』と疑われた」
「なにを言ったんだ?」
「俺が、自分が」
ゲイだと。
……ほんの少しだけ期待したのだ。片想いなら誰でも夢見るような、バカな妄想のような期待を。もっと多くは普通に想像した。自分の友人は自分を軽蔑しない、と。
けれど違った。
「え?」
その声はまるで囁き声のように小さく低く、狭い部屋にこぼれ落ちた。
「……冗談だろ?」
ハッと理文は顔をあげた。まっすぐに眼差しが交差して、そのときになって彼は気づいたようだった。理文の言葉が冗談ではないことに。
その顔から色が失われ、頬が歪んでいく様を理文は見た。呆然と開かれた唇から重い息を吐き出され、彼は顔をうつむけ、両手で覆うように額を押さえる。
「ちょっと待ってくれ。どういうことだ。だってこの間おまえ、彼女できた、って」
「────」
彼女じゃない。相手は男だ。もう別れたけど。
理文の無言の返事は、過たず哲に伝わってしまったようだった。
ひゅっと息を飲む音が聞こえて、反射的に理文が顔をあげるより先に、哲が床を蹴るようにして立ち上がっていた。
「なんで」
「哲、」
「なんで、嘘だろ、いつから、……男と? 男が、好き、なのか? ──男が」
次々と哲の唇から零れおちていく声が、刺のように理文の胸の奥に突き刺さる。
首からぞっとする寒さが背筋を滑り落ちた。
「あきら」
床に座る理文を見下ろす哲の目には、怒りと失望と不快と不信と憎悪と軽蔑と、あらゆる感情が混じっていた。
「──理文、なんで」
そのとき理文は知ったのだ。
世の中には絶対に手に入れられないものがある。
一生、得ることができないものが。
──ああ、ごめん。哲が真面目な顔するものだからつい言っちゃった。本当は誰にも言うつもりはなかったんだけど。忘れてって言っても無理だよね。じゃあせめて、せめてみんなには黙っておいてくれる? さすがにみんなには知られたくないから──
理文は哲にそう言った。唇に自嘲の笑みを佩きながら、それをうつむいて隠して。
今日は帰る、と言い置いて理文はすぐに友人の部屋を出た。
だが、翌日にはなにも知らない中野が理文と哲の二人に「集合!」のメールを送ってきて、理由もなく断れずに約束の場所に行って、あっさりと気まずい相手と再会した。
哲は顔を合わせた一瞬、まるで傷ついたような顔をしてから、すぐにそれを消して、昨日会ったことなど忘れたように装って「よう」と声をかけてきた。
……中野は知らない。他の友人たちは誰も知らない。
だから、哲は彼らの前で理由もなく理文を突き離せない。
その日から、理文は哲にだけこっそりとなんでも話すようになった。ゲイバーでどんなふうに男を探すのか、新しい男はどんな男か、自分の彼氏のことや性生活やいろんなことを。
それでも哲は今までのように友人を装い続けた。
理文の話に顔を歪めて軽蔑を露わにしながらも、辛抱強く理文の奔放さをたしなめ、ときおり友人としての優しさを見せる。
何度も同じことを繰り返して、もう七年だ。
久しぶりに会った同級生たちと別れて適当に歩きながら、理文は年末で混みあう繁華街から遠く離れたビジネスホテルでぎりぎり最後の一室を確保して、ようやく行き先を見つけた。
気づけば時間はもう夜の十時過ぎだった。理文がプチ同窓会のために東京から飛行機に乗って帰ってきて、たったの四時間弱しか経っていない。このあと理文は押さえたばかりのホテルに行って一晩休み、次の朝にはまた飛行機に乗って、東京に戻るのだ。
繁華街から郊外へ抜ける大通りを歩き出しながら、理文は携帯のメール画面を呼び出した。少し考えてから、メール作成画面を立ち上げる。
繁華街から少し離れただけで、もう周りは暗く冷たい冬の夜に沈んでいた。師走の忙しなさと賑やかさは遠く、あとはもう人気のない静かな道がまっすぐに続くばかりで。
〈中野によろしく言っておいて。よいお年を。〉
いつもの彼と同じくらいに短く愛想のないメールを送って、彼との短い逢瀬は終わりだった。
そう、理文はただ哲と会うために、一日だけ地元へ戻ってきたのだ。
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