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居心地のいい店、おいしいお酒、気安い友人。
──と、お気に入りの元彼。
それだけそろえば、毎日を過ごしていくには十分だ、と理文は思う。残念なのは、そのお気に入りの元彼に本命の相手ができてしまったことだった。
「すっごく久しぶりなんだけど。圭、この距離はなに?」
カウンターテーブルに頬杖をついて、じとりと理文は並び席に目を向けた。視線の先には、理文からひと席空けてひとりで座っている背の高い男がいる。
土曜の夜だった。仕事もあがり、他に予定もなかった理文が、わりと早めの時間から一番居心地の良い行きつけの店に陣取っていたところに、彼はやってきた。木製の扉を開けて照明の落とされた店内に理文を見つけ、顔をしかめながらも会釈をしたのは、いかにも彼らしかった。
けれど理文の言葉を聞いて、うっと男はマスターからグラスを受け取る手を止める。
「混んでいるのに他のお客さんが入ってきたらどうするの? ほら、席、詰めなよ」
「……客が入ってきてからでいいだろ」
「だーめ。ねえ、マスターもそう思わない?」
「あはは、本当にノンちゃんは城崎くんが好きだねえ」
マスターが次の客のカクテルをつくりながら、常連客の二人にそんな言葉を投げかければ、理文の元彼である城崎圭(きざきけい)は、諦めた様子で席を移動しながら「それ迷惑」と小さく呟いた。
生意気だなあ、と理文は笑う。
彼は理文より七つか八つも年下の大学生だ。昨年の春ごろ、彼が上京して初めて二丁目に顔を出したときに他の店で出会い、理文が強引に口説き落として二ヶ月ほど付き合った。「他に好きな男ができた」と理文が言い出して別れたのだが、お気に入りなのは変わらず、それ以降もなにかとちょっかいをかけて、遊んでいる相手だ。
圭は席を詰めて座り直して、隣になった理文にむっとした顔を向けた。
「つーか、なんでおまえこんな早い時間にいるんだよ、ヒマなのかよ。彼氏んとこでも行けよ」
「うわー、本命できた途端に本当に生意気だねー。ねえ、どう思うマスター?」
「でも城崎くんに彼ができて、本当はノンちゃん嬉しいんでしょ」
「これで!?」
マスターの穿った見解に、たまらず圭の方がそう問い返して、マスターが遠慮なく声を上げて笑った。カルバドスのロックを舐めるように飲みながら、理文は肩をすくめてみせる。
「心の底から祝福してるのに、圭がこういう態度なんだもん。ひどいよね」
「祝福してるなら、それなりの態度で表してくれればいい」
「じゃあ祝福に奢ってあげるから今度連れてきなよ。俺、彼にいろいろいっぱい話したいことがあるなあ」
「それは絶対祝福じゃねえだろ」と隣で圭が唸った。どうやら理文の祝福の想いはまったく通じていないようだ。つくづく理文は不思議だった。二ヶ月とはいえ情を交わしたはずの男なのに、マスターの十分の一ほども理文のことを理解してくれていない。
オーダーがひととおり落ち着いたのか、二人に「おかわりは?」と尋ねながら、マスターは少し悪戯っぽく笑った。
「ノンちゃんはあれだよね。最近、彼氏いないから寂しいんでしょ」
「彼氏がいない? ノンに? 本気で!?」
「そんなに驚くことないじゃない。俺にも彼氏がいないときぐらいあります。ほら、前回ちょっと失敗しちゃったからさあ、反省してしばらく大人しくしてようと思って」
「……ずっと大人しくしてればいいんだ」
「なんでそういうこと言うかなあ」
「ノンは遊びすぎだ」
年の差をまったくものともしないストレートな物言いに、ふふっと理文は機嫌よく笑った。
彼のこういう真面目な頑固さを理文は気に入っていた。乱暴な口のきき方も、不愉快を顔に表すところも、高い身長も、誰かによく似ている。
だからダメだったのだ。
城崎圭のことは本当に気に入っている。けれど付き合えば付き合うほど、ふとした瞬間に、真面目で頑なな友人のことを思い出させた。最終的にそれに理文が耐えられなくて別れた。
彼氏ではなくなった今はずいぶん気持ちに余裕を持って、彼の性質を楽しめているが。
理文はいったん意地悪するのをやめ、普通に圭に話しかけた。人見知りの嫌いのある圭も、理文と店のマスター以外にあまり親しい相手がおらず、結局は理文との会話に興じた。
彼に本命の相手ができたのはつい一カ月ほど前のことだ。同じ大学の同級生で、奇跡的にもゲイではないノンケの男という。理文も本気でそれは喜ばしいことだと思っている。
圭のようにまっすぐな男には幸せになってほしいと思う。本当に。
「────」
ふとカウンターテーブルに置きっぱなしだった携帯が震えて着信を知らせ、会話が途切れた。理文はなにげなく手を伸ばし、表にして画面に映った名前を見て、思わず眉をひそめる。
──哲だ。しかもメールではなく電話。
ちらりと眼差しをあげて隣を見れば、圭も自分の携帯でなにかをチェックしていて、理文には注意を払っていない。少し悩んでから、理文は電話を受けた。
「……なに?」
『悪い、電話いいか?』
お互いに挨拶なんてない。遠慮をしているのか、苛立っているのか、電話を通して聞こえる哲の声はいつもよりさらに低く耳に届いた。
『例の二次会の件だけど、向こうの幹事が一回会って話しようと言ってきてて、急なんだけど来週土曜にどうかって』
「来週?」
向こうの幹事が一回会って話しようと言ってきてて?
にわかに身体の奥で暗い感情が湧きあがり、理文はそれを持て余した。新婦側の友人と連絡先を交換していることぐらいでなにか思うのは、ひどく馬鹿らしかった。
「式ってまだ四ヶ月以上先だよね? ずいぶん早くない?」
『どうせ一回は事前に顔合わせておいたほうがいいだろ。ならいつだって一緒だ』
「来週?」
わざとらしくもう一度理文は問い返していた。仕事でどうしても外せないような用事は入っていないはずだった。もちろん彼氏のいない今はデートの約束もない。だが、変な反発心がそうさせる。手持無沙汰に、目の前のグラスの側面に浮かんだ雫を指先でなぞった。
哲に会える。会いたい。でも見知らぬ女が一緒だ。会いたくない。でも──。
「……おまえひとりじゃダメなのかよ」
『わがまま言うなよ。中野が俺とおまえに頼むって言ってんだろ。来いよ、頼むから』
「────」
ひたむきささえ感じる哲の言葉につきんと胸が鳴って、本人が目の前にいないにたまらず視線をうつむけていた。その視界の隅で、隣席の男の身体が動くのを見つけて、理文はハッと顔をあげる。帰る気なのか、圭がマスターを相手に会計を済ませようとしていた。
『来週、ダメか? ならそれ以降でおまえの都合のいい日を教えてくれ』
耳に当てた携帯からは、哲が理文の都合を聞いてくる。
隣で圭が席を立とうとした瞬間、ほとんど反射的に理文は手を伸ばして彼の腕を捉えていた。
「ちょっと待って、圭! 行かないで、ここにいて、お願い!」
「はあ!?」
突然の引き留めに、驚いたように圭が聞き返してきたが、理文は構わなかった。電話口で理文のその発言を聞いた哲が口をつぐんだのが、分かった。
「あ、ごめん、哲。俺、彼氏、待たせてるから。来週でもさ来週でもいつでもいいから、日程と待ち合わせ場所、あとでメールしてくれる? それに合わせる」
『理文、……おまえ』
「よろしくー」
名前を呼ぶ声に険がこもったのに気付かないふりをして、短く言って理文は通話を切った。その間もずっと理文に袖を握り続けられていた圭は、とても嫌そうに顔を歪めた。
「なんだよ今の。彼氏ってなに嘘ついてんの」
「んー。ちょっとした嫌がらせ?」
なるべく軽い口調でそう言い返して、ようやくそこで理文は圭から手を離した。その指が冷たく強張っていたことに気づかれないよう、すぐに懐の財布に手を伸ばす。
圭は不愉快そうに顔をしかめたままだ。
「そういうの本当にどうかと思う」
「いいのこれは! なに圭、本当にもう帰るの? あ、もしかして今から彼と会う? じゃあ駅まで送るよ。マスター、俺もお勘定」
「送る必要ないだろ!」
「うん分かってる。これは本当に単なる嫌がらせ」
「…………」
経験上強引な理文に逆らうのは無駄と悟っているのか、うっと言葉を詰まらせてから、諦めたように圭は大きく息を吐いた。それ以上は文句を言わず、さっと先に身を翻して店を出ていく圭を、理文は勘定を済ませてから追いかける。
会いたいけど、会いたくない。好きだけど、好きだと言いたくない。
いつだって矛盾を抱えている。その矛盾がどうしようもなく理文を露悪にかきたてた。
嫌われたくないけど──嫌われたい。
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