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5
指定の場所は、恵比寿駅から少し離れたところにあるカフェだった。
事前にネットで調べてその店の洒落た雰囲気を知って、一体誰のチョイスなんだか、と理文は思った。哲だとすれば、なんでこんな店を知っているのか気になるし、女性陣だとすれば、都会の女アピールかと言いたくなる。
どっちにしろ気は進まなかったが、仕事の一種だと言い聞かせて、理文は約束の時間通りにそのカフェに足を運んだ。
三月上旬、冬の名残の寒さが残る、よく晴れた日だった。
恵比寿駅を降りて、休日ならではの人の混雑に辟易しながら、理文は目的地に向かって歩き始める。東口を降りてしばらく歩いた先にあるカフェは、住所的にはたぶん広尾だろう。通りに面したカフェの店先はオープンカフェにもなっていて、その開放的な感じが、この街らしい大人の落ち着きと余裕とお洒落をより演出していた。
昼三時という中途半端な時間だったが、ちょうどいい休憩時間なのか、駅から離れているわりに店は程よく混んでいた。その中でも、背の高い男の姿はすぐに見つかった。
壁際の四人席で、哲の前には若い女性が二人すでに座っている。入り口から除いただけで、なにか歓談しているのが見てとれた。
「────」
こんなお洒落な店なのに哲が普通に馴染んでいるのが、なんだか気に入らない。
店に入る前から胃を重くしておきながら、戸口で足踏みしている自分は自分らしくないと、意を決して理文は中に踏み込んだ。
「哲」
友人の背中にそう声をかければ、哲が座ったまま振り返るとほぼ同時に、女子二人がすっと腰を上げた。背の高い方の女性は軽く目を伏せるように会釈し、もう片方は会釈してからにっこりと微笑む。
──礼儀正しい女子。きっと男性的には、かなりの高得点だ。
負けじと理文もお得意の営業スマイルを返すと、その隣でゆっくりと落ち着いた物腰で哲が立ち上がっていた。グレイの生成りTシャツにネルシャツを重ね着したその姿は、目を惹くファッションではないけれどカッコつけすぎず自然体で好感度が高い。
あんまりそうやって女の子の気を惹かないでよ──なんて勝手なことを想いながら理文が彼の隣まで歩み寄れば、すっと一瞬向けられた眼差しがどこかやわらかくて、少しびっくりした。
「時間通りだな。白石さん、新郎側幹事のもうひとりです」
「……西澤です。中野とは高校の同級で」
皆まで言わなくてもすでに説明はされているだろう。短く自己紹介を済ませて、理文は二人に座るよう促せば、しっかりと二人は同じように簡単に自己紹介をしてから、腰を下ろした。
二人とも新婦の高校時代の友人ということだった。背の高い方の白石(しらいし)はるみは、仕事中といった感じでジャケット着こなし、黒髪をひとつに結んでおり、もう一方の小野有紀(おのゆき)はふわふわの茶色い髪に春らしい色づかいのニットを着ていた。それだけの印象で理文は、哲のタイプはどちらかといえば白石はるみだな、と思う。
だが第一印象だけでなく、話をすればそれはすぐ明らかだった。
「──私、サプライズ、したいんですよね」
新郎新婦からお願いされている二次会の概要を共有し、二次会の進行にあたってどういうことを考えて用意しなければならないかをざっと整理したあと、白石はるみがそう言った。
間を置くように、すでに冷めているだろうコーヒーを一口含んでから、顔を上げる。
「普通のクイズとかケーキカットとかそういうイベント的なことだけじゃなくて、私たちから二人になにかサプライズ的にお祝いできたら、って思ってるんですけど」
「新郎新婦には内緒で?」
「そう、内緒のサプライズ。でもただプレゼント用意してあげるっていうのはつまらないじゃないですか、そんなの」
「……ものじゃなくて、価値をプレゼントしたいってことでしょ」
彼女の言葉を補足したのは理文だった。彼女がふと視線を理文に向け、それまで仕事モードだった真面目な顔をふわりと和らげて嬉しそうに笑った。
「そう、そうです!」
「いいんじゃない? いいアイディアがあれば、だけど」
そう返しながらさりげなく視線を逸らし、本格的に哲の好きなタイプだよな、と理文は思う。
自分の意見をはっきり言ってしっかりしていて、まっすぐだけど硬すぎない。
理想的な彼女像だ。
なんだか顔をあげて哲がどんな顔をして、彼女たちと話をしているのか見たくなくて、理文はコーヒーカップに指を絡めながらうつむいた。けれどもちろん哲はそんな理文の心情を読むことはしないし、できない。
「価値ってなんだろうな。理文、おまえならどういうのがサプライズで嬉しいと思う?」
「……そういうこと俺に聞く?」
つい小さい声でそう返せば、哲が黙ってしまい、さすがに慌てて理文は顔を上げた。初対面の女性を前に、空気を悪くするわけにはいかない。
理文はすかさず三人に向かって、営業スマイルを浮かべてみせた。
「なんかこっそり仕込んでみんなでやるとか、そういうのって盛り上がるんじゃないの」
「みんなで踊るとか? みんなで歌うとか?」
「って、どこに練習時間あるんだって話か。二次会参加者全員ってわけにもいかないだろうし」
「──あ、全然違うんですけど、私はビデオレターとか好きだな。素敵じゃないですか? その場にはいない人からメッセージが届いているって」
それまでにこにこ話を聞いていた小野有紀がふとそんなことを言った。
ああ、と理文は呟く。触発されて、わっといろんな考えが頭の中を駆け巡る。まるで仕事をしているときのように、無意識に理文はテーブルをコツコツと指先で小さく叩いていた。
「メッセージか。それもありだな。二人の出会いのきっかけになったときの関係者に、そのときのことを思い出してもらってコメントとって、ストーリー仕立てにするとか。あー、でも有名番組の模倣はありふれてるし、つまんないか。……家族からめて、なにかしかけたほうが感動的かな。式では親への手紙。二次会では親からの手紙とか」
「あ、それいい!」
ぶつぶつと呟くようにアイディアを垂れ流していた理文の言葉を途中で、はるみがぽんと手を叩いた。話合っているうちに彼女のテンションも盛り上がっているようだった。目を輝かせて理文の方に向かって少しテーブルに乗り出す。
「家族からの手紙! ……エリカって実は四兄弟の長女なんですけど、すごい家族のこと好きなんです。妹と弟をよく構うくせに、いつも空回っちゃってるところがあるみたいなんですけど。だから家族からの手紙とかすごく嬉しいと思う」
「…………」
有紀もはるみに合わせて、「それいいかもー」とにこにこと笑っている。あっという間に、それで話はまとまりそうだった。
またはるみがしっかりモードに戻って、いつまでになにをするべきかを整理し始める。逆に理文は仕事モードを解除して、ぼんやりと向かい合わせの二人がリズムよく話をまとめていく様子を眺めた。
はるみも有紀も、ただ二次会の内容を決めているだけなのに、なぜかとても楽しそうだ。他人の結婚なのに、なにがそれほど楽しいのか理文にはよく分からない。だが彼女たちの様子には、どこか結婚への憧れや夢やなにかが透けて見えるような気がした。
……哲はどう思っているのだろう。
付き合いが長いくせに、結婚についてどう考えているか、聞いたことはない。ここ数年、彼女がいないことは確かのようだが。
三人の間でさくさくと進んでいく話がサプライズの件にさし戻ったときだけ、理文は少し身体を起こした。
「それ、俺やるよ。家族の手紙あつめて、一冊の本にする。さすがに装丁は手の込んだことできないけど、一冊の本作るくらいなら予算的にも高くないし、なんとかなるし」
「おまえが作るならそれはすごいけど。でも、いいのか? 忙しいんだろ」
「別にすごくないし、まあ一冊ぐらいなら。ただ新婦側の家族の手紙をあつめるときは、協力してもらわなきゃ、だけど」
じゃあそれは私がします、と有紀が言った。
それで大方決まりだった。気づけば、打ち合わせは軽く一時間を超えており、最後には幹事同士で連絡先を交換した。会計は、払うと言った哲に対して、ここは割り勘でとやんわり主張したはるみの勝ちで、つづがなく打ち合わせは終了。
駅に戻るという二人に対して、悪いけど、と理文は手を上げた。
「俺、ちょうどこっちに用事あるから。哲は帰るだろ。彼女たち、駅まで送って行けよ」
「理文」
まるで咎めるような声で、哲が名前を呼んだ。カフェの出たすぐのところで、足止めをしていて迷惑だな、と理文は頭の隅で考えた。
夕方にさしかかった空はすでにほんのりと暮れかけており、そのせいで空気がぐっと冷え込んできたようで、理文はコートの襟をたてて肩をすくませる。不意にそのコートの肩のところを哲が掴んだ。驚いて顔をあげれば、哲が女性二人に少し申し訳なさそうな顔を向ける。
「ちょっと俺、こいつと話あるんで、ここで。じゃあまた」
「はい。またよろしくお願いします」
声を合わせて言って、理文にもにっこり笑顔を向けると、彼女たちはあっさりと背中を向けて、恵比寿駅の方に向かって歩き始めていた。
「なんだよ。せっかくお膳立てしたのに。なんで一緒に行かないんだよ」
「……余計なお世話だっつってんだろ、毎回」
「だってあの子、哲のタイプじゃん。白石はるみ。良い子だったし、お似合いじゃないかな」
「お似合いとか俺のタイプとか、おまえが言ってんじゃねえよ」
なんとなくそのまま店先に立ち尽くし、彼女たちの背中が通りの雑踏にまぎれて見えなくなるまで見送りながら、そんな会話を交わした。
不機嫌そうに肩を掴みっぱなしの友人に目線を送ることなく、バカだな、と理文は思う。
こういうチャンスを逃すから、彼女がなかなかできないんだ。
「もう行けば? 別に俺に話なんて、ないんだろ」
「おまえこそ用事なんてないんだろ」
返す刀で鋭く返ってきた哲の指摘は図星で、理文は口をつぐんだ。
そこでようやく掴みっぱなしだったことに気づいたのか、哲が手を離し──たかと思えば、今度はコートの袖のあたりを掴んだ。なに、と訝しく顔をあげれば、打ち合わせの時とは打って変わった怖い顔をして、哲が腕を引いて歩き出す。
「話はある。少し歩こう」
歩き出した方向は駅とは違う方向だ。大通り沿いだが、この先、隣の駅近くに辿りつくまでの長い距離の間に目ぼしいショップがあるわけでもなく、人気は少なかった。
また説教か、と思いながらも、そうやって哲に強引にされるのが気恥ずかしく、赤くなりそうな顔を理文はうつむけた。最初は早足だったのが徐々にゆっくりになって、ほとんど散歩という感じで二人連れだって歩く。
袖を掴まれて連れて歩かれている恥ずかしさに耐えられなくなり、先に口火を切ったのは理文の方だった。
「話、あるんだろ。なんだよ?」
「理文、おまえ、今、相手が、……恋人が、いるのか」
「は?」
哲はまっすぐ前を見て歩いていて、理文のことを振り返りもしない。ただその横顔は強張って、相変わらず不機嫌そうだった。
「この間、電話したときに〝彼氏が〟って言ってただろ。どんなやつなんだ」
ああ、と理文は思い出した。哲との電話途中でわざと聞こえるように、男にすがるような声を出した。やっぱり説教だ。と理文はいつもの調子を取り戻して、悪戯っぽく笑ってみせた。
「ああ、彼? んーと、年下。背が高くて若くて体力があって、なんていうか相性抜群?」
「っ」
ギリッと奥歯を噛みしめる音が聞こえそうなくらい、彼が顔を歪めたのが分かった。
「そういうことじゃなくて、良い奴なのかって聞いてんだよ!」
ほとんど怒号に近いそれに驚き、それから、ふっと理文は唇の端を持ち上げて笑った。
哲は真面目で、たとえ俺がゲイでも心配してくれる。滑稽なほどに。
「哲の言う良い奴ってなに? 仕事してるかどうか? 浮気しないかどうか? それともフリーセックスがダメってこと? もしかしてプレイの問題? ねえ、どういう男? 教えてよ」
「理文っ!!」
怒りに任せ、乱暴に腕を引いて、哲が足を止めた。
駅と駅との間をつなぐ大通りは、駅前より人の往来は少ないが、通りがかる人が全くいないわけではない。
こんなところでなにをやっているのだろう。哲の激情とは対照的に、暗く冷えていく胸の内を抱えながら、ゆっくりと理文は彼の腕に手を添えて自らの腕を離させた。
「哲。それこそ余計なお世話だよ? 俺はね、中野みたいにはならないんだ。相手がずっとひとりなんてありえないし。結婚なんてもっとありえないし。一生一緒なんて誓わない。……そんなもの理解できない。俺の世界には存在しない」
初めて歩く都会の歩道で、長い付き合いの男と今さらそう向き合う。
空はだんだんと薄暗くなり、ときおりゴウゴウと音をたてて隣の道路を車が走っていく。風圧に煽られて、理文のコートの裾が少しだけ揺れた。
哲がまっすぐに理文を見つめてきて、それを感情のない眼差しで理文も見返した。
「……おまえ、中野の結婚を祝う気はないのか」
「あるよ。だからやるって言ってんじゃんサプライズは。でもそれ以外はパス」
「理文」
「俺、女は嫌いなの! 哲が仲良くやってよ。それでうまくいったらなおいいじゃない。俺が結婚式でお祝いのスピーチしてやるよ。二人が初めて出会ったのは恵比寿のカフェで、まさかそれが一生の相手との出会いになるとは──」
「おまえはなんでいつも……っ!」
茶化す理文に腹を立て、彼は乱暴に理文の言葉を遮った。
可哀そうだな、と目の前で憤然とする哲を見やり、理文は憐れみさえ感じた。彼は自分の価値観に沿わない人間に、いつまでも振り回されている。
「ねえ、哲。任された仕事はきちんとする。お祝いする気持ちだってある。だから俺の私生活を怒るのはお門違いだよ。哲には関係ないんだから。そうだろ?」
腕一本も離れていないほんの近くにいる哲を見上げ、怒りに歪んだその顔に手を伸ばしたい気持ちを押さえこんで、理文は精いっぱい優しい声音で言った。コートのポケットに手を入れて、ぎゅっとその中で拳を握る。
──早く俺のことなんて見放せばいいのに。
けれど真面目な哲はいつまでも友だちとして、理文のことに腹を立てる。
「俺は、おまえのことが心配なんだ」
噛みしめた唇から絞り出されたその声はどこまでも真摯で、怒っているようにも泣きそうにも思えるぐらいに苦しげで。
「おまえが、まともな奴ときちんと付き合ってるんなら、それでおまえが幸せになるんだったら、俺はそれで──」
「────」
たまらず理文は目を閉じて天を仰いでいた。
彼は本当に、どこまでも残酷だ。
ゲイである自分を軽蔑しながら、それでも幸せを願うのか。それも見当違いな幸せを。
自分を気にかけてくれることへの喜びより苦しさが上回り、真面目で優しい彼への愛おしさより哀しさが胸を占めた。
「……俺も心配だよ、哲に彼女がいないことが。せっかく感じのいい子と出会えたのに、そんなふうにひとのことばっかり心配して機会を逃して。そんなんじゃいつまでたっても、俺だって安心できないよ」
「理文!」
静かに告げた理文に苛立ったように、哲が声を荒げた。
「ほら一緒だ。言われたくないなら、俺にもそんなこと言わないでよ。俺は俺で、哲は哲なんだ。心配してくれるのはうれしいけど、哲のそれはお節介が過ぎるよ。──迷惑だ」
最後の一言はまるで吐き捨てるようにこぼれた。
理文には珍しいその声の強さと乱暴な口調に、ハッと哲が目を見開く。もうその視線を理文は見返さなかった。
「とりあえずサプライズは任せてよ。完璧に仕上げるから。それ以外はよろしく」
「理文」
「俺はこのまま渋谷まで歩いてくから、おまえは恵比寿から帰れよ」
そう言い放って、理文は呼び止める声も聞かずに歩き始めた。その背中にすがるようにもう一度、名前を呼ぶ声が追いかけてきたけれど、聞こえないふりをする。
ゆっくりと歩きながら、幹線道路を走っていく車の音がゴウゴウとうるさく、まるで川の音のようだと理文は思った。まるで下へ下へ流れていく濁流のようだ。
背中で哲の視線を感じていた。
哲、と理文は心の中だけ彼に呼びかける。
きっとおまえには分からない。絶対におまえには分からない。
俺はずいぶん昔に悟ったんだ。おまえに、怒りと失望と不快と不信と憎悪と軽蔑とあらゆる悪感情が混じった眼差しを向けられたときに知ったんだ。
──俺は、俺の願うように、おまえの望むように、幸せにはなれない。
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