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6
空しい、という感覚を噛みしめる。
さわやかで胸がすっとする辛めのジントニックを飲んでも、胸の奥に澱のように溜まったその感覚はなくなってはくれなかった。
「……あー、彼氏が欲しいなー」
カウンターの一番端の席で、肘をついて両手で顔を覆いながら、理文はそう呻いた。
胃の奥で暴れている感情を表す言葉としては間違っているのは分かっていたけれど、なにかを口から吐き出せば少し気が晴れるような気がした。
「ああ、彼氏が欲しい彼氏が欲しい彼氏が欲しい」
「なんか呪いみたいで嫌なんだけど」
その隣でうんざりした顔をしたのは城崎圭だ。
相変わらず付き合いのいい彼は、理文に隣に座れと言われて、毎回嫌がりながらも結局素直に隣席でグラスを傾けていた。
うっそりと顔をあげて、そんな心優しい元彼に理文は眼差しを向ける。
圭はいい男だ。背が高く、特別にスポーツをしているわけじゃないのに肉付きも悪くない。ちょっと後ろ向きで自意識過剰なところは玉に瑕だが、セックスは丁寧で優しかった。
「ねえ、圭。今日一晩、付き合わない?」
「はあ!? ありえねえ、だったら他の店で男探せよ!」
ものすごく嫌悪感に溢れる返事が返ってきて、理文はちぇっとわざとらしく舌打ちをしてみせた。もちろん本気ではないから、ショックはない。
一番の行きつけであるこのバーでは、原則としてナンパ禁止だから、他の店へ行け、となるのは当然だった。そう、理文もこれまではそうしてきた。違う店で男を漁り、本当に気に入った相手だけはここに一緒に飲みに来る。今のところこの店を紹介したことのある相手はほんの数人で、そのうちのひとりが城崎圭だった。
本来なら、男を探すのは得意なのだ。けれど今は気が乗らなかった。一から相手を探して、どんな相手なのか探って、口説き落とすなんて、面倒でたまらない。
今欲しいのはそんなんじゃない。もっと気軽で後腐れなくて、楽しくこんな暗い気持ちを吹き飛ばしてくれるようものだ。
「……あ、そっか、辻ちゃんがいたな。それだ。電話してみよう」
不意に今の気分にふさわしい友人を思い出して、理文は携帯を取り出した。もちろん〝そういう友だち〟だ。隣で圭があからさまに顔をしかめたのが分かった。
「うわ、なにその目。軽蔑してる?」
「軽蔑とかじゃなくて、あんた、もうちょっとまともに人と付き合うとかしねえの」
誰かと似たようなことを言っている。
気に入らなくて、むっと理文は唇を尖らせた。
「なんだ感じ悪いなあ。自分の価値観を押しつけるのはよくないと思わない? 圭」
言いながらも、携帯のアドレスから思い出した名前を探し出して、さっさと理文は通話ボタンを押していた。
コールを待つことさえ気楽な相手は悪くない。五つ目のコールで電話はつながった。
『はい、もしもし』
「あ、俺。ノン。今日会える?」
『また突然だなー。どうかしたの?』
久しぶりに聞くやわらかな声が、電話の向こうで苦笑した。
「別に。週末だよ? 街に来てないの?」
『一応、俺にも仕事ってのがあるの。そうだな、今から行ったら十一時過ぎるけどいい?』
さすがに慣れている。あっさりとそう言って、待ち合わせ場所を決めると彼は『じゃあ、あとでね』と囁くように言って電話を切った。
隣に目を向けて、「相手、見つけちゃった」と笑えば、圭がひどく重々しい声で名前を呼ぶ。
「ノン」
「なに?」
「俺は価値観押しつけるつもりじゃなくて、心配してんだ一応!」
「────」
思わず理文は言葉を飲んでいた。言い慣れないことを言ったせいか、圭はむっと理文から顔を背けて、乱暴な口調でマスターを呼んでおかわりを頼んでいる。
良い子だなあ、と理文はその横顔を眺めた。本当に誰かに良く似ている。
けれどなぜだろう。こんなに似ていても、圭のことを心の底から愛することはできない。
「ごめん、圭」
ありがとう、と呟くような小さな声で言えば、うわっと圭が振り返って、なぜか嫌そうな顔をしてみせた。
「素直に謝るなよっ、気持ち悪い!」
あんまりな言いように、意地悪く言い返すより先に理文は、ハハッと笑い声をあげていた。
──でも、そんな心配いらないんだ。哲からの心配なんて一番いらない。
欲しいのはもっと違うものだから。
「つーじちゃんっ!!」
待ち合わせはいつも理文が行きつけにしている店とは違う店だった。理文がよく行くもう一つの店だったが、顔を出したのは年末以来だ。
本当はあまり来たくなかったのだが、辻と約束するときはいつもこの店だから仕方がない。
〝そういう友だち〟であるところの辻高史(つじたかし)は、先に来ていてカウンターでウイスキーのロックを傾けていた。驚かせるように理文はその隣ににゅっと顔を出して、にっこり笑った。辻は少しだけ驚いたように目を見開いて、それからグラスを軽く持ち上げる。
「や、久しぶり」
「久しぶり。あれ、バーテンダーさん変わった? ごめん、俺も彼と同じものを」
三人いるバーテンダーのうち、目の前にやってきた顔は見覚えがなく、そういえば三カ月以上ここには来ていなかったのだと思い知らされる。
どちらかといえば賑やかな店だった。騒がしいとまではいかないが、広めの店内にいる客層は多彩で、声がけもオッケーのため、どこか浮かれたような空気がある。……この店で、理文はよく次の男を探していた。
だから元彼がいないとは限らないのだ。特に〝会いたくない〟元彼なんかがいると最低で、ちらりと店内を見回したが、それらしい人影は見当たらず、少しほっとした。
「今日は久しぶりにこんな時間に呼び出されちゃったよ。強引なのは変わってないなあ」
「そう? あっさり誘いに乗った辻ちゃんの軽さも変わってないと思うけど」
そう言えば、ふふっと彼が笑う。
茶色に染めたくせっ毛に小洒落た眼鏡をかけて、大人びた余裕と遊び慣れた軽さを持ち合わせているのが彼だった。今は特に彼の軽さが有難い。
「もうこんな時間だよ。今から遊ぶにも一体どこへ行けばいいんだろう?」
「俺の部屋ならここからタクシーで十五分だよ」
「即物的だなあ。そういうの嫌いじゃないけど、俺って良いように使われているのかな」
「辻ちゃんも俺のことを良いように使ってもいいんだよ?」
お互いに分かりきった、軽い言葉の応酬。定石のように交わして、理文は差し出されてきたウイスキーのロックを口に含んだ。
「一杯だけ飲んだら、行こう」
「本当に即物的だな。もう少し雰囲気づくりに励む気はないの?」
「励みたいのはヤマヤマなんだけど、実はちょっとこの店は今の俺には鬼門なの。……前彼に顔合わせたくなくてさ」
ああ、と苦笑を洩らすと、彼はグラスに半分残っていた琥珀の液体をさらりと喉に流し込んだ。
「なら、さっさと行こうか。ワガママ王子様」
「なに王子って。気持ち悪いな」
彼のそういうもの分かりの良さが心地好くて、理文は詰るように言いながら笑った。
店を出てタクシーを捕まえて、理文の部屋に着くころには結局深夜零時近くになっていた。タクシーの中では、辻はまるで会社の同僚かかつての同級生かのように装っていて、そういう要領の良さも嫌いじゃない。
あと理文が気に入っているのは、彼のセックスがノーマルでセーフティなところだ。
部屋に入ってすぐコートを脱いで、理文が辻をベッドに誘えば「結局雰囲気作りはないんだ」と呆れて笑った。
「でもノンちゃんが前彼に会いたくないって珍しいね。いつもきれいに別れてるのに」
ベッドの上で向かい合わせに座って、互いに手を伸ばして服を脱がせ合う。
「前彼っていってもセックスもしてないんだけど。最初に会ったときの印象が優しくて、ちょっと良いかなって思って二人で会ったんだけど、ホテルに入った途端、乱暴に掴み上げられてベッドに投げ出されて、腹が立って暴れたら殴られて。一瞬くらっときているうちにズボンを脱がされ、前戯もなしに生でぶち込んできそうになったから、金的蹴りあげて逃げたの」
「…………」
淡々とした理文の説明に、服を脱がせる手を止めて「ハードだなあ」と辻がしみじみと呟いた。うん、と理文はなんでもないことのように頷く。
「たぶん、抵抗しにくい従順なタイプの若い子相手にああいうことやってるんだろうな。ほら、俺ってちょっと童顔でしょ。たぶん大学生くらいに思われたんだよ」
「ありうるね。けど、ひどい目に合わなくてよかった。とっととあの店出てきて正解だ」
「でしょ?」
理文はゲイで、経験人数も多い方だが、あくまで嗜好はノーマルだ。殴るのも殴られるのも嫌いだし、縛られるのも好きじゃなく、基本的にゴムは必須だった。性交で病気を伝染されるなんて冗談じゃない。そんなことになって、もし友人にばれたら、軽蔑どころの騒ぎじゃない。
──もし哲にばれたら。
不意にそんなことを想像して、胸が重くなって、ぱたっと理文は手をおろした。なんとなく気持ちと一緒に身体までぐったりして、上半身までしか脱がしていない辻の肩に頭を預ける。
辻の肩は特別にしっかりしているわけではないけれど、温かかった。
「……ノンちゃん? なにかあったの?」
なにか?
そうだ。この重苦しさは、一体自分になにがあったというのだろう。
以前はこんなではなかった。たとえ哲に久しぶりに会って冷たくあしらわれても、軽蔑の目で見られても怒鳴られても、平気だった。会うたびに傷ついたけれど、逆にその傷を彼氏と遊ぶことで紛らわせることができた。なのに今はできない。
ノンちゃん、と囁くような声が名前を呼んで、辻が背中に腕を回してくる。優しくなだめるように背中を撫でる手が気持ちいい。
「どうしたの。好きなひとにふられた?」
「そんなんじゃないよ。ただ……──友だちが結婚するんだ」
その言葉がするりと口から出てきて、理文は自分でもびっくりした。
そういえば年末に中野が結婚するということが分かってからだった。あれからなぜか気持ちが沈んでいるのだ。
「その子が好きだったの?」
「いや、それは全然違うんだけど。なんか、同級生がみんな結婚していくなって思って。別に俺は結婚したいわけでもなんでもないけど、なんか、なんとなく」
いつか哲も結婚するだろう。たとえば白石はるみのようにしっかりした女性と出会い、付き合い、いつか。
辻の肩に理文は自らの額を押し当てる。ゆっくりと理文も腕を伸ばして辻の背中にしがみついた。直に触れる肌は温かく心地好いのに、心は重いままだ。
そっと辻がうつむく理文の頬に口づけを落とした。
「そうだな。置いていかれるのは誰でも怖いんじゃないかな」
「辻さんも?」
「そうだね。俺だって近くにあったはすのものが、手が届かなくなるのはすごく怖いよ」
囁くように言いながら、辻が理文の頬に指を添えてうつむく顔を持ち上げた。共犯者のような優しい笑みを浮かべて、理文の唇にキスを落とす。
──偽りのキス。誰でもいい遊びのセックス。
どれだけ身体を重ねても、心は虚空に浮かれゆく。そんなこと分かっているけれど。
「……ねえ、辻さん、名前を呼んでくれない?」
辻の優しい手つきでベッドに押し倒されながら、理文はふとそう呟いた。
「ノン、じゃなく?」
「うん。理文って」
理文の小さな頭を胸に抱き込みながら、少しだけ辻は困ったような声を出した。
「そんなふうにしても、代わりにはならないよ」
「知ってる」
誰も代わりにはなれない。辻高史も城崎圭も、誰も。
理文が欲しいのはたったひとつだから。
だが、それを理文は決して手に入れられないのだ。
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