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7
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快晴だった。
地下鉄の駅を出てすぐ、よく晴れた心地良い青空を見上げて、さすが中野だな、と理文は思う。こういうときには必ず当たりを引く男だ。
中野の結婚式の会場は新宿の高級ホテルだった。
都心なのに緑が多く、五月の気持ちの良い風が吹いている。そんなホテルの、眺めの良い最上階でウェディングなんて、とても中野の発想とは思えないから、きっと新婦の趣味だろう。
中野の彼女とは、理文も一度だけ会ったことがある。去年の夏にいつもの三人で集まったときに、中野が連れてきたのだ。明るくて、どこか気風の良い女性だった。初めて会う彼氏の友人に対する礼儀正しさは残しつつも、目の前で遠慮なくいい加減な中野と張り合うところを見て、バランスのいい二人だなと理文でさえ思った。
そしてその結果が結婚だ。世界は本当によくできている。
ホテルの前でなんとはなしに理文が足を止めたところで、携帯が震えてメールの着信を知らせてきた。相手は、哲だ。
〈迷ってるのか。遅刻するな。〉
時計は昼の一時五分前を示している。
式は一時からで、披露宴は二時から。二次会は六時から、というのが本日のスケジュールだ。
過保護というか、優等生というか。五分前行動を促す友人のメールに呆れながらも、すぐ理文はホテルに向かい、ロビーの豪奢なシャンデリアの下を抜けて、式場に辿りついたのは式開始の予定時間とほぼ同じだった。
場内を探さなくても哲のいる場所は明らかだった。哲は式場の入り口に立っていて、理文を見つけた途端、苛立った様子で腕を振って早く来いと促した。
──待ってなくてもいいのに。
そう思いながらも、久しぶりに見るスーツ姿に見惚れそうになり、慌てて理文は緩い笑みを浮かべて哲に駆け寄る。
「なんだよ。間に合っただろ」
「ギリギリすぎなんだよ。来ないかと思った」
「来るよ。だってただの結婚式じゃなくて中野の結婚式なんだろ。……座るのこっち?」
「こっち」
たとえ前回ケンカ別れをしても、大体いつも次に顔を合わすときはいつもどおりの不機嫌レベルに戻っている。いつだって後には引かないのが、彼の良さだ。
哲に腕を引かれるように遅れてチャペルに入り、新郎客の席に向かいながら、反対側を見ると、華やかな装いをした女性たちの中で前の方に座っている二人が、理文と哲の組み合わせを見て、中腰になって軽く会釈してきた。
白石はるみと小野有紀だ。
軽く会釈だけ返して、理文は哲と並んでベンチに座った。ついでに、ちらりと哲を横目で見たが、彼女たちに対して彼が特別な眼差しやなにかを送った様子はなかった。
二次会の件で、理文は何度か小野有紀とメールを交わしたが、それ以外は宣言通りすべてを哲に任せていた。だから哲と彼女たちが、どういうかたちでどんな打ち合わせをしたのかも知らない。それらを通して彼らがどのくらい仲良くなったのかも。
──中野の結婚式はチャペルでの人前式から始まり、披露宴はホテル最上階の会場で行われた。前に「俺の結婚式だぞ」と中野は強調していたが、特別なことはなにもなかった。
むしろ無駄なことが削ぎ落されたシンプルな式と披露宴だ。
余興らしき余興はなく、あったのは友人代表のスピーチとケーキカット、新郎新婦の生い立ちムービーの上映と、それぞれの祖父母へのプレゼントぐらいだった。けれど会場は終始和やかで、どことなく一体感があって、誰もが二人の結婚を心から祝福し、当人たちが心を尽くして集まった参列者をもてなそうとしているのが分かった。
中野らしいな、と理文は思う。子どもみたいに無邪気でいい加減なところのある男だが、不思議と人の心を解きほぐす。だから特別なことをしなくても十分なのだ。
彼が結婚し、二LDKのマンションで彼女と二人で暮らし、やがて子どもをもうけて、たとえばマイホームとマイカー、それから犬や猫のいる家庭を想像するのはたやすかった。
……俺は、それを羨んでいるのだろうか。
理文には分からなかった。まるで夢見るように彼の将来を想像しながら、それが決して手に入れられないことをぞっとするほどの実感で自覚している。
もちろん妻が欲しいわけでも、子どもが欲しいわけでもない。
だが、胸の片隅でなにかがちりちりと訴える。羨みなのか、悲しみなのか、痛みなのか、分からないなにかが。
式の最後に、新郎が挨拶に立った。彼は無闇に泣かせようとするようなスピーチはしなかったが、いつもよりも少し真面目な顔をして、けれどいつものようにどこか飄々とした空気のまま、素直に謝意を述べた。
そのスピーチに理文は拍手をした。中野の結婚を祝いたい気持ちに嘘はなかった。
祝いたい気持ちと目立ちたくない心性はまったく別物なのだ。
そう訴えたところで、哲には通じなかった。
「なに言ってるんだよ。おまえ、二次会の準備なんにもしてないだろ。くじ引きの準備とか景品の買い出しとか、彼女たちが全部してくれたんだぞ。タイムスケジュールもつくってくれたし、司会は俺たちでやるしかないだろ。そりゃ俺だって別に目立ちたくなんかないよ。だけど仕方ないだろ。頼むからひとりにするなよ」
そんなふうに言われたら、それ以上の主張はできない。
披露宴がつつがなく終わり、引き出物を片手に一息つく余裕もなく、早々に哲に引っ張られて、理文は二次会に予定している店の近くのカフェに連れ込まれていた。もちろんそこには白石はるみと小野有紀もいた。
披露宴では挨拶をしただけだったが、改めて同じテーブルにつくと、ふたりはにっこりと親しげな笑みを浮かべてみせた。
テーブルに彼女たちが用意した資料を広げて、二次会の催し物の最終確認を行なう。その内容のほとんどが理文は初耳だったが、これまで一緒に打ち合わせしてきた哲はよく分かっているようで、ときおり理文の脇を小突いて、事前にきちんと把握するよう促してきた。
「……司会はやっぱりやらなきゃダメなわけ?」
打ち合わせの最後に無駄な抵抗と分かりつつ呟くと、隣で哲が顔をしかめ、テーブルを挟んだ向かいではるみが少し困ったように首を傾げてみせた。
その空気を読んだのか、読んでいないのか、「あっ」と小さな声をあげて有紀が手を叩く。
「じゃあ男女ペアに分かれます? 西澤さんと私とで受付、はるみと三木さんで司会、とか」
「…………」
少しはにかむようにして提案した彼女の無邪気さに、一瞬理文は黙る。〝いかにも〟といったそのペア分けはものすごく嫌だが、司会をやりたくないと主張している自分が、彼女の提案を否定するのは明らかにおかしい。仕方なく理文はいつもの軽さで口を開いてみせた。
「あ、それ、いいかも。俺は大賛成」
「ダメだ」
間髪をおかずきっぱりと隣に座る友人から否定の言葉が返ってくる。予想以上の強さに理文が顔をあげると、哲がじろりと睨みつけてきた。
「さっき言っただろ。司会は俺とおまえ。いいな?」
彼の迫力に押されて、ほとんど反射的に理文は頷いていた。
融通のきかない男だ、と思う一方で、男女ペアにならなかったことには正直ほっとする。
彼女たちの準備は完璧だった。
二次会の会場はホテルからは離れた、新宿の外れにあるイタリアンバールで、そのワンフロアを貸し切った上で立食形式だった。二次会の会場を決めたのは新婦らしいが、事前に下見もしていたらしく、二次会の会場に一足早く会場に入ると、彼女たちはスタッフと相談して、すぐにメインイベントである「くじ引き大会」の景品を会場の片隅に見栄え良く並べ、さらに披露宴で流した生い立ちムービーをループで上映するコーナーもスムーズに設けた。
司会に不可欠な進行表には、進行の流れが記載されているだけでなく、本かネットで参照したらしいセリフ例もついている。
「ここまで準備ができていたら、もうやることはないじゃん。あとはこれに従ってあやつり人形のごとく演じるだけだ」
早々に準備が終わり、受付開始までまだ余裕がある中で、司会席にあたる雛壇の脇に設置された司会用の壇上で進行表を読んでいる哲の隣に立って、理文はそう彼の手元を覗き込んだ。
「ここでボケろ、とか書いてない?」
「バカ、ふざけないで、きちんと読んでおけよ」
叱るような言葉だが、声はどこかやわらかい。ふふ、と理文も機嫌よく笑った。
「俺とおまえとで司会をしたら絶対漫才になるよ。賭けてもいい。途中でおまえが怒って俺にツッコミを入れる」
「分かってるなら、おまえが変なことしなきゃいいだろ」
「変なことってなに?」
わざとらしく茶化して返した理文に対して、じろりと哲を鋭い視線を向けてきたが、目を合わせたところでつい二人で笑っていた。
──ほんの一瞬の、小さな幸せ。
笑いを収めてなにげなく顔をあげた先に、会場の入り口の向こう、受付スペースにいる有紀とはるかを見つけて、理文はひそかに目を眇めた。
だが、そんな小さな幸せも、いつかは理文の手をすり抜けていくだろう。
中野が生涯の伴侶を見つけたように、いつか哲も誰かを見染める。その相手はもしかしたら白石はるみかもしれないし、理文の知らない誰かや今からどこかで出会う誰かかもしれないし、それは一年後かもしれないし、十年後かもしれない。
それを理文はただ眺めるしかできない。
「でもすごいね。仕事のできる、気のきいた子だ」
理文の呟くような言葉に、哲は僅かに視線をあげて、「そうだな」と返しただけだった。その真意を読めないまま、理文は無邪気を装って小首を傾げてみせる。
「なんだよ、反応薄いな。今まで打ち合わせで何回か会ってんじゃないの?」
「……おまえが嫌だって言ったからな。そりゃ俺が会うしかないだろ」
「それで少しは仲良くなってないのかよ。ああいう子、おまえの好みじゃん。しっかりしてて明るくて、身長差もぴったりで」
「おまえに俺の好みについて言われたくない」
軽い調子の理文の言葉を遮って、ぴしゃりと哲がそう言った。
どうしてこう彼はお堅いのだろう。もし彼がもっと軽々しく女性に声をかけたり付き合ったりするタイプだったなら、逆にもっと気が楽なんじゃないだろうか、と理文は思う。
「俺、ペアでもよかったのに。その方がもっと仲良くなれただろ。せっかくの出会いなのに、おまえがそんなじゃダメだって。今からでも交替しようか?」
「──理文」
いつもの調子で理文がけしかけると、急に哲はぞっと怖気を感じるほど低く重い声で名前を呼んだ。どきりとして理文は顔をあげる。
彼の怒りに触れた。それが分かった。だが、すぐに怒って理文の行動を諌めるは彼の性分だが、この程度の軽口に目くじらをたてるのは彼らしくなく、理文は戸惑う。
こんな祝いの日の華やかな会場の片隅で、二人の間にだけひどく重苦しい空気が流れていた。
「そんなに司会やりたくないのか。……おまえ、中野の結婚、本気で祝う気ないのか?」
「え? 違う、俺は別にそういう意味じゃなくて──」
司会をしたくなくてごねていると思われたのか。
慌てて言い訳しようとしたが、その言葉は途中で遮られた。
「打ち合わせは全然参加しない、式には遅刻ぎりぎりでやってくる、二次会の幹事もやる気がない。なんなんだよ。おまえが女嫌いなのは構わないけど、友人の結婚ぐらい心から祝ってやろうとか思わないのか」
「…………」
理文は口をつぐむ。
中野の結婚を祝う気持ちに嘘はない。嘘はないけれど、胸に巣食うもやもやとしたこの気持ちを理文は哲にうまく伝えられるとは思えなかった。
「……黙るなよ。言いたいことがあるなら言えよ」
理文から顔を背け、視線を進行表に戻しながら、ため息交じりに哲が言い放つ。
嘘でも言い訳でも冗談でもなにかを言わなければ、と強張った喉を動かし、理文はなんとか口を開きかけた。
ちょうどそのときだ。
「あの、いいですか」
少し離れたところから声がかかった。
有紀だ。レースのカーディガンを羽織った淡い黄色のワンピース姿の彼女が現れて、ようやくこの場のあるべき雰囲気を思い出す。理文と哲は少し気まずく、お互いに視線を逸らした。
彼女は二人の間に流れる微妙に重苦しい空気に気づいているのか、いないのか、小柄の肩を恐縮そうにすくめて、小首を傾げてみせた。
「新郎新婦の入場のタイミングについてなんですけど──」
有紀の話は、新郎新婦の到着が予定より少し遅れそうで、そのときの対応の話だった。
気づくと、もう招待客の受付が開始する時間になっている。
本格的に司会をする準備をしなければいけなかった。つい一瞬前の衝突をまるでなかったことのように、理文は哲の手元の進行表を覗き込んだ。
「じゃあその対応も含めて、俺が最初の方はやるよ。ここからここは、哲にお願いしていい?」
「分かった。……おまえ、サプライズきちんと用意してあるんだろうな」
素直に理文が頷くと、「ならいい」と短く哲は答えた。
哲はすぐに怒るが、それを引きずらない。それは彼が、すぐ気持ちを切り替えているのか、言葉を費やして理文を諌めることに飽き飽きしているのか、どちらなのかは分からなかった。
さきほどの話題から離れてしまえば、もう理文に言い訳をする機会は残されていない。
だから理文は自らの胸の内だけで呟く。
心から祝っている。たとえそれが自分にはありえない人生の節目だとしても、本気で素晴らしいことだと思っている。それは奇跡のように、美しいことだと、そう本当に。
だけど、分からない。いつかもし哲が結婚することになったときに、同じようにその幸せを祝えるのか、分からない。
本当はきちんと哲の幸せを願えるようになりたいのに。
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