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 中野はすごいな、と改めて思う。 「なー、哲、モルディブってどこ?」 「知らない。たぶん南」 「なー、水上コテージってさ、なんかエロくない?」 「そんなふうに考えるおまえの頭の方がおかしい間違いなく」  だらだらと歩きながら、理文はそんな意味もなく目的もない会話を哲と交わしていた。  場所は人気のない新宿の外れ、時間は夜の三時過ぎだ。もはや夜というより明け方が近いと言えるかもしれなかった。  中野の結婚式の二次会のあとは、招待客の半分くらいの参加者が歌舞伎町にあるパーティーもできるカラオケ屋の大部屋に移動して三次会が行なわれ、その終わりぐらいにちょうど終電の時間が押し迫って、そこで大半が帰り、最後は男ばかり十人ぐらいが残ってバーに行って四次会となった。ちなみにその時点で新婦はホテルに帰ってしまっている。  四次会が終わったのがほんの少し前だ。  理文は新宿からならタクシーでも帰れる距離に住んでいるが、哲は費用的に厳しい東京郊外に居を構えているため、どこかで始発までの時間を潰そうと、四谷の方へ向かう途中にあるはずのファミレスに向かって、静まり返った夜のビジネス街を歩いているところだった。  こんな長い時間をかけて飲んでいると、さすがに途中で酒をセーブするので、すでに酔いは醒めてきている。だが最後まで残った男だらけの四次会が、まるで学生時代に戻ったような下らなく楽しいもので、まるで酔ったような陽気な気分でいた。  それはきっと主役である中野の、彼らしいのんきな明るさに幸せオーラが加わり、他人の気持ちさえ巻き込むパワーを発揮したからだ。彼は本当にすごい。  少し前に抱いていた戸惑いやどこか物寂しい気持ちも忘れて、頬を撫でる夜気を心地良く思いながら、理文は隣を歩く哲を振り返る。 「でも新婚旅行じゃなきゃ行こうと思わないじゃん、水上コテージって」 「つーか、なにすんだ。水上コテージで」  無粋な哲らしい疑問に、思わず理文は笑っていた。馬鹿にされたと感じたのか、「なんだよ」と言ってむっと哲が顔をしかめる。 「色気がなさすぎるよ、哲は。新婚旅行で水上コテージだぜ。決まってるだろ。泳いだり、のんびりいちゃついたり、あれしたり、これしたり」 「わかったわかった」 「俺思うけど、絶対カップルのうち何人かは水着プレイを──」 「理文!」  下ネタに入ろうとしたところで、すかさずお堅い哲からストップがかかった。今のこの心地良い空気を壊したくなく、素直に理文もそこでやめておく。  しばらくそのまま会話が途切れた。  気持ちがいいな、と思う。ふたりの間にあるのは、日中小さないさかいを起こしたとは思えないくらいに、とても穏やかな空気で、会話がなくても十分だった。  月が見えた。目の前に伸びる雑居ビルに挟まれた路地裏の道が、街灯と月明かりにどこかやわらかく浮かび上がる。  ずっとこのままでいれたらいいのに。  そんな子どもじみた願いを抱きながら、ただゆっくりと歩く。 「──悪かったな」 「え?」  急に隣からそんな言葉が投げかけられて、理文は驚いて足を止めていた。 「結婚を祝う気はないのか、とか言っただろ。悪かった」 「……なにそれ」  呆然と呟くように洩れた問いかけに、理文が立ち止まったことに気がついて、哲が遅れて理文を振り返る。どこか少しだけ気まずそうに、彼は視線を逸らした。 「あの本、すごい良かったよ。おまえの詩、すごい良かったよ。中野も感動してた」  少し離れたところに立った男が、低い声で淡々と賞賛を述べる。  自分が悪いと思ったらすぐに非を認めて謝り、相手を良いと思ったらきちんと口に出して褒める。それは憎らしいほど、哲らしかった。  こんな薄暗い路地にいるのにそれがひどく眩しく、どこか切ないような愛おしいような、不思議な気持ちになって、理文はどう反応したらいいのか分からなくなる。 「そ──んなふうに言われたことなんて、もう忘れてたよ」 「理文」 「そりゃ本づくりは俺の専門だもん。きれいにできてなかったら廃業の危機だし。詩はネットにも落ちてる有名なものだし、むしろあんなのいかにも狙ってるみたいで、超恥ずかしいよ。中野も感動したっつって、泣かすことできなかったしな。俺は別に全然──」 「理文」  口早にそう言い訳めいた言葉を重ねている途中で少し強い口調で名前を呼ばれて、理文は言葉を止めた。  どこか呆れたように哲が息を吐いて、つかつかと短い距離を詰めよると、いきなり理文の頭を大きく広げた手のひらで掴む。そのまま哲は宥めるようにくしゃくしゃと髪をかき回した。 「どうしておまえは素直に褒められないんだ」 「俺は別に」 「どうしておまえは俺が褒めると困ったような顔をするんだ」 「────」  どきりとして、理文は目の前の男を見上げていた。  彼は髪をかき撫でていた手をすでに離していたが、まだ体温が伝わるような近さで立っていて、まっすぐな眼差しで理文を見下ろしていた。  なぜなのだろう。普段は鈍感なのに、理文が触れてほしくないことにばかり、彼は鋭い。  そして気づいたことを直接問わずにいられないのが彼の性格で、そんなところをいとおしいと思うと同時に、ひどく理文は苦しくなる。  彼は理文になにも隠さない。聞きたいことは遠慮なく尋ね、腹が立てば怒る。良いと思えば心のままにそれを口にする──。 「昔からそうだ。昔からおまえはいつだって褒めても全然嬉しそうにしない。逆に褒めるたび、おまえは後ろに下がっていくんだ」  理文は言葉を返せなかった。 「高校のころのおまえなんて本当にいつも自由で自分勝手ばかりして。授業サボってふらっと姿を消したかと思えば、かっこいいものとか面白いこととか見つけて帰ってくる。おまえのそういう振る舞いに、他の同級生たちが憧れてたの知ってたか? なんにも縛られないような顔をして、常識とかルールとか他人とかどうでもよさそうにして、遊び人みたいに振る舞って。でも結局おまえが一番よく見てるんだ。きちんと本当に大切なものとか美しいものとか見逃してはいけないものをきちんと見つけている。……今回だって」  言葉を切って、哲が顔をあげた。そっと手をのばし、まるで壊れものに触れるように理文のこめかみのあたりに指先を添える。 「嫌だとかやりたくないとか、わがまま通しておきながら、なんだよ。あんなのかっこよすぎるだろ。本当にすごいよ。おまえのそういうところ本当にすげーって思うよ」  肌には触れずに顔の輪郭に沿って、指はこめかみから頬のあたりをなぞっていく。触れないままの指をふと握り込んで、哲がどこか困ったように目を細めた。 「でも、俺が──俺たちがどれだけおまえをすごいと思っても、おまえはそんなの要らないって顔をしている。自分は一歩後ろに下がって、壁をつくって、遠くから眺めてる。どれだけ自由にしても、どれだけ美しいものを見つけても、どれだけすごい仕事をしても、おまえはいつだってひとりで、いつだって全然幸せそうに見えない」  彼はなにを言っているのだろう。  ぼんやりと理文は、訥々と言葉を落としていく友人を見上げていた。  これはなんなのだろう。なぜ彼はそんなことを言うのだろう。 「そんな顔をするなよ、理文。そんな、まるで泣きそうな顔を。俺はおまえにそんな顔をしてほしくない。俺はおまえに普通に幸せにいてほしいんだ」 「────」  心臓が叫びを上げた。  まるで胃の奥に灼熱の塊があるみたいに、それが熱く燃えたぎり、逆に身体の表面は怖気が立つほどに急速に冷えていくのが分かった。  苦しかった。助けてほしいと思った。  自分の身体がバラバラになって、壊れたところから醜い欲望やエゴや孤独や苦痛や憎悪やあらゆる感情が溢れ出しそうだった。けれど理文は助けを求められない。叫ぶことができない。 「理文、なあ、そんな目をするなよ」 「っ」  もう一度、哲の指が伸びてきて、今度は理文のおとがいを優しく支えるように捕らえた。まるで覗き込むように見つめてくる友人の眼差しに耐えられなくなって、ぎゅっと理文は目を閉じる。無意識のうちに、身体の横で両手を強く握りしめていた。  ──優しくて残酷で、どうしようもなく無知な、あきら。  彼は自分の幸せを考えるべきだった。彼の思い描く幸せは彼自身で実現するべきで、それを理文に求めるなんて、彼は愚かに過ぎる。  どれだけ助けてほしくても、彼だけは理文を救うことができないのに。  哀れを通り越して滑稽だ。嘲笑う衝動が身体の内側からこみ上げて、理文は顔を伏せ、目を閉じたまま、身体を震わせた。  ああ違う。滑稽なのは、自分だ。 「……哲はなんにも分かってない」 「理文?」  その呟くような言葉に、哲の指が固まった。理文は目を開いて、目の前にいる友人を見つめ返した。  ……もうダメなのだ。もう無理なのだ。  彼にはどうしても理解できない。  しばらく黙って見つめて、それから理文はふわりと、とろけるように嫣然と笑ってみせた。 「俺の幸せを望むなら、哲が俺のこと抱いてよ。俺のこと満足させてよ」 「……な、に?」 「俺はゲイなんだよ。俺は哲とは違う。みんなとは違う。俺の幸せがなにか分かる? ──男と寝ること。ただでさえ、男なのに男が好きなマイノリティで、狭いコミュニティで出会う男と相性がいいとは限らないし、いつも満足できないんだ。……そうだよ、昔からそう。だってどれだけ楽しいことや面白いことがあったって、それは俺になんの満足も与えない」  くすくすと笑いながら、理文はゆっくりと手をのばす。 「最近もずっと忙しくてご無沙汰でさ」  どこか艶めいた動きで両腕を彼の首にまきつけるようにして抱きつき、唇を彼の耳元に寄せて、理文は「すごく溜まってるんだ」と掠れた声で囁き込んだ。  愕然と目を見開く彼の目を覗き込みながら、彼の厚い胸板に自らの胸を擦り合わせるように押し当てて、彼の硬い太ももを自らのそれで撫でるように足を絡める。 「……なあ、分かるだろ。身体すごく熱い」  声に艶を含ませ、理文は微動だにしない哲の頬に熱い吐息をふきかけた。熱っぽく淫らがましく誘いながら、胸の奥ではもうなにも感じていなかった。 「俺の幸せを心配してくれるなら、哲が俺を満足させてよ。ちょっと乱暴にされるぐらいが、俺好きだな。俺の中をおまえで満たして、いっぱい犯して、俺を幸せにして」  陰惨に甘く囁きながら、唇を哲の頬に押し当てた。顎のラインに沿って、その先を予感させるようにゆっくりと這わせていく。  ゆっくりと堕ちていく。なにもない空っぽの真っ暗な闇へ。 「お願いだから、あきら。……ちょうだい」  触れるかどうかの距離でもう一度囁いて、そっと理文は唇を重ね合わせた。  ──だから、どうか、もっと。  軽蔑を。 「ッ」  突然、ガツンと強く手首を掴まれて、理文は哲から引き剥がされていた。  驚きに目を瞬くと、ぞっとするほど冷たい怒りの眼差しが理文を射抜いた。今まで見たことのないような激情が、彼の全身を覆っている。  握られた手首が痛い。睨みつけてくる彼の眼差しが怖い。  わざと怒らせたのは自分だというのに、今まで見たことのない静けささえ感じる哲の重い怒りに、理文は思わず怯えて身体を震わせていた。  息を詰め、ごくりと唾を飲み込む。 「……っ!」  次の瞬間、急に手首を引かれ、まるでなにかから奪うような力強さで理文は、哲の腕に抱き寄せられていた。  驚く声を出す間もなく、唇を塞がれる。強く押し当ててくる唇に反射的に抗うよう腕が動いたが、掴んだ哲の手がそうはさせなかった。 「────」  大きく見開いた目に映るのは、目を閉じて自らに口づける哲の顔だけ。  ──え? なにこれ。  そう思った途端、哲が目を見開き、どきりと心臓が鳴った。  眼光の鋭い、怒りに満ちた目が覗き込むように理文の目を見つめたかと思った途端、唇が動いてぬるりと舌が口腔内に入ってきた。 「ん、……っ」  厚い舌が口腔の奥を探るように侵入し、まるで貪るように理文の舌を絡め取る。さらに角度を変えて口づけられ、唇で唇を愛撫され、舌を奪うぐらいの強さで吸いつかれ、ぞくぞくと腰から這い上がる痺れに理文は身体をよじった。  そんな理文の抵抗さえ、哲の腕が強く抱きしめて封じ込める。 「っ、……あ、……う」  顎を仰のかせ、キスから逃れようとしても、彼の唇が追いかけてきて覆いかぶさるようにまた深く口づけられた。 「──ふ、……あ、ン……っ」  こんな乱暴に無理矢理されながらも、たまらず鼻から抜けるような甘い吐息が洩れて、理文はカアッと全身を熱くした。それに煽られたかのように、哲の舌がまたとろとろに愛撫するように濃厚に絡みついてくる。  わけが分からない。  まるでセックスそのもののようなキスだ。欲望を刺激するキス。まるで彼から求められているのだと錯覚してしまいそうなキスだ。そんなわけがないのに。そんなことありえないのに。  ──違う。こんなのは違う。こんなのはダメだ。  こんなのダメだ!! 「あ、きら……ッ!」  渾身の力で理文は哲の身体を押しのけた。  反動で理文の方がよろけて、すぐ近くにあったコンクリの電信柱に背中をぶつけていた。肩を上下するほどに息を乱し、理文は力の抜けそうな身体を壁に預けながら呆然とする。  恐る恐る視線を突き飛ばした男の方に向けると、暗がりの中で彼の眼光だけが鋭く、まっすぐに自分に向けられているのが分かった。  冷たく燃える怒りの炎。  淫らに誘った理文のことを軽蔑しているのか、それに巻き込まれた自らに腹を立てているのか、憤ろしく彼の身体が打ち震える。頬を歪め、言葉もなく理文が見つめている中で、彼の開かれた口から声にならない叫びが迸った。 「──っ!!」  哲が拳を振り上げて、理文の顔にほど近いコンクリートの壁を強く殴りつける。 「二度と俺を誘うような真似はするな!!」  咆哮のような怒声だった。  彼はもう理文を見なかった。嫌悪も露わに目を背け、夜の路地裏で壁にもたれている理文に言葉をかけることもなく、全てを拒絶するように背中を向けて歩き出す。 「……あきら」  呆然と見送る理文の唇から、力なく名前を呼ぶ声が零れ落ちたが、去っていく背中が振り返ることはなかった。  理文はその場に崩れ落ちた。  煙草の吸殻やジュースの空き缶やすぐ近く居酒屋の裏口に置かれたゴミ袋から沁み出てきた汚水やなにかで、地べたは汚かった。冠婚葬祭用の一張羅のスーツが汚れるのは分かっていたが、理文はそのまま座り込んで両手で顔を覆った。  身体を小さく縮めて、こみ上げる震えをこらえ、熱く軋む喉から溢れそうになる嗚咽を押し殺す。何度も何度も心の中で、これでいいのだ、と自分に言い聞かせた。  彼の軽蔑を望んだのは自分なのだ。  泣くのは間違っていた。
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