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8時過ぎのオフィスに社員はまだ2人しかいない。ひとりは特急で遠方から通勤していて、ダイヤの関係上8時頃に到着してしまうと聞いたことがあるが、もうひとりは何故早く来ているのだろう。とはいえ、自分だって始業時間の1時間前から来ているのだから、物好きと思われても仕方がない、と芳賀は思う。
会社近くのコーヒーショップで購入したブレンドコーヒーとサンドイッチを朝食に、自席で新聞を読んだり早めに仕事を始めるのが芳賀の日課だった。30半ばでひとり者の気楽さで、朝から洗い物を出したくないというのが、早く職場に来てしまう理由である。
パソコンを起動して社内イントラネットを開くと、社内報の最新版がアップロードされていた。そこまで興味があるわけではないが、急ぎの仕事がないこともあってついつい読んでしまう。社長・日比野孝介の講話、福岡支社の防災マニュアルの紹介、大阪支社の田中さんが表彰されました、健康づくりコラム……
株式会社ヒビノは70年続く大手企業である。創業者一族による同族経営と週刊誌などで揶揄され、創業者の曾孫である社長と古くからの共同経営者の親族である専務の対立がことあるごとに面白おかしく報じられているが、出世に興味の無い芳賀は社内派閥の構図を勝手に解説した記事を冷笑しながら読む程度だった。実際には、少なくとも営業部は派閥の対立などはなく平和だった。係長になって2年だが部下との相性も良く、仕事はやり甲斐がある。
「おはようございます」
サンドイッチを食べ終え、コーヒーを半分ほど飲んだところで係の社員が次々に出勤してきた。芳賀は手帳とパソコンでスケジュールを確認する。今日は出かける予定がないから、溜まっている書類を片付けられる。一日頑張れば土曜日だ。
始業のベルが鳴った。
係では毎朝打ち合わせをすることになっていた。ひとりずつその日の予定を簡単に発表していく。2人目が話し出したとき、外線電話が鳴った。女子社員の中野が取る。
「はい、おりますが、打ち合わせ中なので折り返しま……お急ぎですか?」
中野の声が硬くなり、喋っていたベテラン社員の菊池も言葉を切る。
「坂本くん……ハル食品様から」
「えっ、はい」
坂本は今年度入社した新人である。有名大学を卒業していて、顧客への提案書を書くのは得意だが、スケジュール管理が苦手で先送りする悪い癖がある。
「お電話替わりました、坂本です。はい、はい……えっ?昨日でしたか?来月の20日ではなくて?」
坂本の顔色がみるみる蒼白になっていく。
「係長……なにかありそうですよ」
菊池が囁いた。
「うん」
坂本は緊張した面持ちで「はい」を繰り返している。受話器からは相手の声がすこし漏れていて、係員全員が聴き耳をたてていた。
「申し訳ありません!」
坂本の声が部屋に響く。あまりの音量に、他の係の人間までこちらを見ている。
「はい、上司と相談して早急に……はい、ご連絡しますので……しばらく……」
受話器を置く坂本の手は震えていた。
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