前篇

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前篇

江戸の師走の空。風は冷たいが晴天だ。 長屋に住む朔太郎(さくたろう)は大きな欠伸をしながら、仕事道具であるカンナが入った風呂敷を片手に持って歩く。今日が仕事納め。嫁を貰っていない朔太郎は明日から寝正月だ。のんびり過ごそうと思いながら、長屋の部屋に入ろうとした時。 「朔太郎さん」 背後から可愛らしいお美津(みつ)の声がして、朔太郎は振り向き、思わずデレデレしてしまう。萌黄色の紬を着たお美津が小さなカゴを持って立っていた。 「何だい、おみっちゃん」 「頂きものなんだけど、いらない? おっかさんが朔太郎さんにって」 カゴの上に被せてあった手拭いを取ると、中から出て来たのは卵だ。 「こりゃあ、良いもんじゃねえか。俺なんかにゃもったいねえ」 ふざけて朔太郎が言うと、お美津は袖を口元にやり笑う。 「良いのよ、おっかさんは朔太郎さんが大好きだから」 (俺あ、おみっちゃんに好かれたいけどねえ) そんなことを思いながら、卵の入ったカゴを有り難く受け取り戸を開けた。お美津から貰った卵を大切に置き、朔太郎はゴロンと寝転ぶ。と、当時に外から声が聞こえた。 「朔太郎、いるかあ?」 毎度お馴染みの声。悪友の三朗(さぶろう)の声だ。返事をする間もなく、玄関の戸は開けられて三朗と蓮太郎(はすたろう)(たすく)が入ってきた。 「おお、呑気に寝てやがったのか。良いもん持って来たぜ」 三朗がニマニマしながら、手に持っていたのは二匹の魚だ。さっきまで水に入っていたのか雫が落ちている。 「お前、なんか入れ物に入れて持ってこいよ」 「どうせすぐ捌くんだ、気にすんなよ」 カカカと目を細めて笑う三朗。もともと目の細い三朗だが、笑うと狐のようにさらに細くなる。 朔太郎と三朗は大工で生計を立てている。まだまだ見習いの二人はいつも親方に叱り飛ばされていた。隣にいるのは蓮太郎。流しの「彫り師」だ。固定の仕事場を持たず、一箇所に数ヶ月滞在しては、他の土地へと渡り歩く。彫り師としての腕前は中々のもので、江戸では多少名が売れている。蓮太郎の後ろにいるのは佑。傘の修理などで生計を立てていて、朔太郎と同じ長屋に住んでいた。大抵この四人でつるむことが多く、何かと集まり、酒盛りが始っていく。 「この魚、河豚(ふぐ)かい?」 「ご名答。まだ新鮮だから美味しいぜ。早速食おう」 三朗がそう言いながら支度を始める。魚を捌いて調理するのは三朗の役目だ。この頃は河豚は一般の家庭で調理されていた。上手く毒を取り除くことは難しく、河豚を食べるには相当な覚悟が必要だった。 蓮太郎は、朔太郎の顔が少しばかりこわばっていることに気づいて、ニマニマしながら言った。 「なんだァ、朔太郎。毒が怖くて河豚、食えねぇって言うのか?」 意気地なしだなァ、と包丁を取り出した三朗と佑が笑い出す。 「バカ言っちゃなんねぇよ。ホラ、早く調理してくんな!」 真っ赤になって朔太郎は叫ぶ。 そして、暫くして出てきた河豚の刺身は絶品だった。朔太郎は河豚を食べたのは、実は今回が初めて。恐る恐る口をつけてみるとまるで鯛の刺身のよう。しかも鯛より弾力がある。すっかり河豚の虜となった朔太郎はウマイウマイ、と刺身をつまみに酒を呑む。 こんなに美味いモノ、死ぬのが怖くて食べないなんて江戸っ子の名がすたる、とパクパクと食べるものだから、他の三人は苦笑する。その後も四人で楽しく呑み交わしてった。 *** そして。 (……眩しい。朝か?) 朔太郎が光の気配に気づいて目を覚ます。その瞬間、朔太郎の様子をのぞき込んでいた三朗がものすごい勢いで抱きついてきた。 「朔太郎お!」 「うわあ、なんだ気色悪い、離しやがれ!」 半泣きで離そうとしない三朗に、朔太郎が布団の側にいた佑たちに助けを求めた。それに応えるように、佑が頭をかきながら朔太郎に告げた。 「あのね朔太郎。お前、突然ぶっ倒れたんだよ。慌てて医者呼んだんだけどね、多分飲み過ぎなんじゃないかってさ」 そう言えば、河豚が美味しかったので、ついついたらふく飲んでしまった気がする。だけどいつもとそんなに変わらない量だったはずだ。疲れていたのだろうかと朔太郎は頭を傾けた。 「まあ何にしろ良かったよ、てっきり河豚にやられたかと」 佑が笑いながらそう言ってきたので、朔太郎が河豚にやられるもんか!と反論しようとしたとき。佑の背中あたりからユラリ、と薄い炎の様なものが見えて朔太郎は驚く。 「佑、お前どしたんだ、それ」 朔太郎が佑を指差して問う。三朗と蓮太郎も佑を見たが、二人は何の反応もしない。 「なに?」 キョトンとする佑。全く動揺していない。他の二人も不思議そうな顔を朔太郎に向けた。 「なんか見えるとか、言うんじゃねぇだろうな。そういう話は裏の与太郎(よたろう)爺さんから聞き飽きたぜ」 蓮太郎が笑いながら言う。裏に住む与太郎は何かと幽霊が見える、お前さんに憑いてると騒いでる爺さんで、近所では有名人だ。 (二人には見えてないのか) これ以上言っても、奇人扱いされそうなのでとりあえず口を閉めることにした。布団の横に置いてあった水を、ぐいと飲み干して気持ちを落ち着かせた後に、再度佑を見る。佑の華奢な体の線から、薄い桃色の半透明なものがユラユラしている。気のせいではない。だが見えているのはどうやら朔太郎一人。 (俺ぁ、どうかしちまったんだろうか) それからというもの、朔太郎は佑の姿を追っていた。同じ長屋に住んでいる為、よく見る機会があるのだが、やはり薄い桃色のものはユラユラしている。傘を直しているときも、蕎麦屋に行くときも。気にするまい、と思えば思うほど気になるのだ。 白米を炊き、正月の残り物の数の子をおかずに朔太郎は昼飯の準備をする。この時代の数の子は高級品ではなく、むしろ庶民のおかずだった。数の子のしょっぱさでご飯が進む。さて食べるかと箸を持ったとき。 「朔太郎、いるかぁ?」 蓮太郎の声が外から聞こえて、ヤレヤレと朔太郎はため息をつく。 「いまから飯だ。入ってこいよ」 戸を開けて、蓮太郎は入ってくる。手には何やらお土産を持っている様だ。蓮太郎が支度してある茶碗を見て、俺も白米を食べたいから、膳をくれと遠慮なく座った。 「コイツも一緒に食おうぜ」 大したもんじゃないけどよ、と手にしていた風呂敷を開き容器から出てきたのは、べったら漬けだ。昨日、相手にした女が持ってきてくれたんだけど、と蓮太郎。箸でつまんだべったら漬けは薄く切られていた。 「あの女、生まれも育ちも江戸だっていいやがったが、江戸っ子なら厚く切るに決まってらぁ。そうだろ!」 江戸ではべったら漬けは厚く切って食べるもの、と暗黙の了解になっていた。沢庵の三倍程の厚切りにして食べるのだ。薄く切るのは江戸以外の人間だと、蓮太郎は憤る。まあまあ、と朔太郎は蓮太郎に白米を渡す。他愛のない話をしながら二人はあっという間に平らげた。 茶を啜りながら、朔太郎は先日から見えている『不思議なもの』を蓮太郎に聞いてみることにした。 「あのよ、蓮太郎。こんなの見たことあるか?」 朔太郎が見えていたものを、蓮太郎に教えた。あえて佑の後ろに見える、と言わなかったのは万が一、『よくないもの』だったら嫌だなと感じたからだ。蓮太郎は不思議そうな顔をして首を傾げていたが、やがてそういえばと続けた。 「以前、聞いたんだけどよ。自分を好いてる奴に出会えたら、相手の身体から炎のようなモヤのようなのが見えるんだとよ。それが桃色だったか、赤だったか。オメェが見たのはそれじゃねぇの?」 「はァ?」 お前もとうとう所帯を持つのかぁ、と蓮太郎は朔太郎の背中をばしっと叩く。飲んでいた茶を吹き出しそうになったのは朔太郎だ。 (お、俺を想ってるって! 佑も俺も男だぞ?) その後も蓮太郎が恋愛について熱弁をふるっていたが、朔太郎は全く聞いていなかった。 「あら、朔太郎さんお出かけ?」 後日。朔太郎が銭湯へ向かう途中、お美津とばったり出会った。桃色の小袖姿。今日も可愛いな、と思いながら見ていたが…… (ああ、おみっちゃんには何も見えねぇな) 蓮太郎の話が本当であれば、お美津は朔太郎に何も感じてない、ということになる。例のモノが見えないからだ。朔太郎は一瞬ガッカリしたがあまり気にならないのはどうしてだろうか。ついこの前まで可愛い可愛いと思っていたのに。 「なあ、おみっちゃん。今、こういう話が女の流行ってるらしいじゃねぇか」 何となくお美津に聞いてみたところ、やはり蓮太郎が言った通りの噂が流行っていた。お美津の周りにも見えた、という女がいたという。 「その二人は結ばれたらしいわ、素敵よね」 「そ、そうかい」 その日の晩。朔太郎は例のべったら漬けの残りと酒を持って、佑の部屋へ向かった。 (ウジウジ考えるのも、めんどくせぇ!聞いてやる) 一緒に酒を酌み交わせば、何か分かるかもしれない。悶々と考えるのも自分の性に合わない。そう思いながら戸を叩いた。暫くして佑が戸を開いて中に入れてくれた。 傘の修理を生業としている佑の部屋には至る所に木屑が落ちている。木屑の香りが部屋に染み付いていた。佑は木屑をほうきでさっと履いて、朔太郎が持参したべったら漬けと酒を置いた。どうせならと佑はメザシを軽く炙って、つまみに差し出す。 「珍しいね、朔太郎と二人で呑むなんて」 「そ、そうだな」 他愛のない話をしながら、チラチラと佑の顔を見る。男にしては整った顔をしている。まるで女形の歌舞伎役者のようだ。たまに女達が熱い視線を送っているのを、朔太郎は見かけたことがある。長い睫毛に整った鼻。長い髪を後ろで結えている。女だったら、惚れていたかもしれない。 「なんでこのべったら漬け、薄く切ってあるの?」 生粋の江戸っ子の佑。やはり厚くないべったら漬けに不満のようだ。朔太郎は説明しようと畳に手を置いた途端、指に激痛が走った。 「イテッ」 畳に触れただけなのに、と手のひらを見ると薄ら血が滲んでいた。どうやら畳の上に木屑がまだあったらしく、木片が掌に刺さったようだ。驚いたのは、佑の方ですぐに朔太郎の手を取った。 「ああ結構、血がでちまったなあ。ちゃんと木屑、集めきれてなかったんだな」 佑がすまねえ、と謝りながら血の出ている朔太郎の掌をペロリと舐めたものだから、朔太郎は全身に雷に打たれたような衝撃を受けた。 「つっ、舐めんなよ」 「一番手っ取り早いだろ、唾液が」 そういいながら、執拗に掌を舐めてくる。朔太郎は佑の顔を見ながら、自分の顔が熱を持っていることに気づく。 (俺、何で) その間に掌を舐めていた佑が、今度は指を舐めてきた。それもまた身体に雷が走る。 ふっ、と指から口をのぞいて佑が聞いてきた。 「ねぇ朔太郎、何で最近俺を見てる? 何か言いたいことあるの」 朔太郎の顔を覗き込んだ佑。一気にもっと顔が熱くなる。これは酒のせいではないことは、明白だ。 「な、何でもない。気のせい」 「そんな赤い顔して、酒だけじゃないだろ」 例のユラユラしたものが桃色から朱色になっていることに朔太郎は気づいた。朔太郎の視線は佑によって外される。いきなり乱暴に後頭部の髪を鷲掴みされて、後ろに引っ張られたのだ。 「いてえよ!」 「ずっとこうしたかった」 そう言った途端、佑は朔太郎の首筋を舐め、そのまま耳朶を齧る。慌てたのは朔太郎だ。いつもおっとりとしていて、蓮太郎や三朗の後ろでニコニコしてる佑が、人の髪を鷲掴みにした挙句、耳朶や首筋を舐めてくる。その顔はいつもの穏やかな佑ではなくて。まるで獲物を捕らえた鷹のようだ。 「ふざけんな、お前ッ」 「どうして? 俺はずっと好きだったよ、まさか朔太郎も好いてくれるなんて」 ここ最近、佑の様子を見ていたことに気づいていたのだろう。そしてそれが『自分を好いてくれている』と勘違いしているようだ。朔太郎は首を振るが、佑はそれも気にする事なく、ゆっくりと朔太郎の身体を押し倒す。朔太郎を組み敷いて、唇を重ねていく。 端正な顔を間近に見て、朔太郎は思わず生唾を飲み込んだ。それを良し、として佑は微笑んでさらに唇を重ねる。今度は舌を入れてきて、朔太郎の反応を楽しんでいた。 「んっ……」 困ったことに『気持ち悪い』と思えないのだ。むしろ、身体がだんだんと反応してきている。それに佑は気づいたのか、はだけた着物の(すそ)から手を入れて、朔太郎の反応していているそれに手を触れた。 「ちょ、佑! やめやがれっ」 「良い反応してる」 ぎゅ、と握ったそれをゆっくりと上下に擦り上げる。初めこそ抵抗していた朔太郎も段々と、眉間に皺を寄せながら身体をくねらせていた。そして頃合いを見て佑は思い切り裾を捲り上げて、手を離す。 「あ?」 朔太郎は肩で息をしながら、中断してしまった快楽に、多少非難の目を佑に向ける。その視線を受けながら佑は頭を下に向けて、さっきまで擦っていたそれを口に含んだ。 「や、ああっ」 いきなりの行動に朔太郎は驚いて思わず、のけぞった。逃がすものかと、さらに佑は快楽を与える。どんどん、朔太郎に余裕はなくなっていく。 「気持ちいい?朔太郎」 口を離し、上目遣いに朔太郎を見る佑。なぜこんなことになっているのか、もう朔太郎は考えることができない。 「いい……、佑、やめん、な」 その言葉を聞いて、微笑んだ佑はすぐにまた口に含む。はち切れんばかりのそれはもう限界を迎えていた。 「あッ、ああッ……」 ビクン、と身体を痙攣させて朔太郎は佑の口内に思い切り、それを放出させた。佑は一滴も逃すまいと、それを飲み込んだ。その様子を虚ろな目で見ながら朔太郎の意識はそこで途切れた。
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