7.

10/10
前へ
/56ページ
次へ
 階段を上がった先は狭い廊下が続いていた。その左右にはいくつかドアが並んでいる。坂口はそのうちの一つを開けて中に入ると「ちょっと座って待っててくれる?」と、足早に部屋を出て行った。  音羽は入り口に立ったまま部屋を見回す。そこは音羽が暮らす寮の部屋と同じくらいの広さだった。会議室なのだろう。長テーブルが組み合わせられて四角形を作っている。 「座ろっか」  音羽は理亜の手を引いて近くのパイプ椅子に腰を下ろした。その隣に無言のまま理亜も座る。彼女の表情はどこか虚ろだった。  音羽は理亜を見つめる。顔色が悪い。緊張しているのか、それとも恐怖か。 「大丈夫だよ、理亜」  握ったままの手をギュッと握る。彼女はゆっくり音羽に視線を向けると「そうだね……」と微笑んだ。  それから少しして、坂口は二人の男と共に戻って来た。一人は瑠衣と一緒に宮守家へ行った帰り、坂口と一緒にいた若い男。そしてもう一人は体格の良い初老の男だった。おそらくは坂口の上司なのだろう。  三人は坂口を中央にして音羽たちの向かい側に並んで座る。 「すみません、お待たせして」  少し緊張した面持ちで口を開いた坂口の隣で若い男がノートパソコンを開く。何をするのだろうと見ていると「それで」と坂口が続けた。 「もう一度確認させてください」  視線を坂口に向けると、彼女は真剣な眼差しを理亜に向けていた。 「あなたは宮守理亜さん、ですか?」  理亜は微かに頷く。握った手に力が込められた。坂口は「そうですか……」と理亜を見つめたまま言葉を続ける。 「しかし、宮守理亜さんは亡くなったはずです。我々の検死結果、そしてご家族の確認もあり、それは間違いようのない事実。それなのにあなたはここにいる。これは、どういうことでしょう?」  坂口の言葉はゆっくりで柔らかい。しかし、その視線は鋭く理亜を捉えていた。彼女の両隣に座った二人は何も言わず、ただじっと理亜のことを見つめている。 「――あれは、わたしじゃない」  掠れた声で理亜は言った。静かな部屋にカタカタとパソコンのキーを叩く音が響き渡る。 「じゃあ、あれは誰?」 「あれは香澄美琴、です」 「香澄、美琴……?」  坂口が眉を寄せながら問い返す。理亜は頷いた。そして消え入りそうな声で話し始める。  ポツリ、ポツリと自身が生まれてからのことを。  自分が何をしたのかということを。  そしてすべてを話し終わったとき理亜は繋いでいた手を放し、バックパックから美琴の遺書を取り出した。それを坂口に手渡した彼女の手は、そのまま自分の膝の上に置かれて拳を握る。  坂口たちは理亜の話を聞き終わると顔を見合わせ、小さく頷き合った。言葉はない。まるで視線で会話をしているようだ。  しかし理亜の話を聞いている間も今も、彼女たちの表情は一切変わらない。警察官だから訓練でもされているのだろうか。それとも、こういう仕事をしていると自然とそうなるものなのか。  彼女たちの表情を見ていても、理亜に対してどのような感情を持っているのかわからない。  そのとき、ふいに初老の男が無言で立ち上がって部屋を出て行った。坂口はドアが閉まるのを待ってから「宮守さん」とテーブルの上で手を組む。 「今から宮守家と香澄家、双方のご両親に来てもらおうと思います。そこで今のお話をもう一度していただけますか?」  坂口の視線は理亜に向いている。隣を見ると、彼女は青白い顔で小さく頷いた。そのとき「坂口、ちょっといいか」とノックもせずに先ほど出て行った男が顔を覗かせた。坂口は返事をして廊下に出て行く。  残された若い男は、ひたすら無言でノートパソコンに何かを打ち込んでいる。キーの音がカタカタと軽快に響いていた。 「理亜」  音羽の声に理亜はピクリと肩を震わせた。そしてその不安そうな瞳を音羽へと向ける。 「大丈夫だよ」  音羽は彼女の膝の上で握られたままの拳に手を重ねた。彼女は苦しそうに眉を寄せて、ただ小さく頷いた。 「こちらへ」  ドアが開くと共に坂口の声がして音羽はそちらへ視線を向ける。すると彼女の後ろには見覚えのある少女が立っていた。 「瑠衣……?」  理亜が呟く。彼女は音羽と理亜を見ると「よう」と力なく微笑んだ。 「瑠衣、なんでここに」  しかし彼女は答えずに少しだけ口を尖らせる。代わりに答えたのは坂口だった。 「彼女が宮守家のご両親を連れて来てくださいました」  理亜が問うように瑠衣を見つめる。彼女は少し決まり悪そうな表情で「どうせ呼ばれるだろうと思ったから」と小さな声で答えた。 「そっか……」  理亜は微笑む。そして瑠衣の後ろに視線を向けた。 「二人は廊下に?」 「いえ、今は別室に」  坂口の答えに理亜は首を傾げる。 「なんで?」 「ご両親からも事情をお聞きしてからと思いまして。香澄家のご両親とも連絡はつきましたので、間もなく来られるはずです」 「そう」  理亜は静かに頷く。坂口は無表情に彼女を見つめていたが、その視線をスッと音羽に向けた。 「崎山さん」 「はい……」 「大変申し訳ないのですが、本日のところはお引き取りいただけませんか?」 「え、でも」  音羽は戸惑いながら理亜を見る。彼女がギュッと音羽の手を握ってくる。その柔らかな手は冷たく、震えていた。  坂口もその様子に気づいたのだろう。申し訳なさそうな表情を浮かべながら「あなたが理亜さんから信頼されていることは重々承知しています」と続けた。 「ですが、ここから先はデリケートな話にもなりますし」 「デリケート……?」 「ええ。つまり、その、家族間のと言いますか」  言いにくそうに坂口は言葉を濁す。音羽は「ああ……」と呟いて瑠衣に視線を向けた。彼女は困惑したような表情で音羽のことを見ている。 「わたしは部外者ですもんね」  苦笑して音羽は頷く。 「そんなことないだろ。音羽は――」 「いいよ、瑠衣ちゃん」  誰がどう見ても、自分は部外者だ。  どんなに理亜のことを想っていても、他人であることに変わりはない。  どんなに理亜のことを助けたいと願っても家族にはなれない。  この場で自分にできることは何もない。 「あの、ここからはお話も長くなると思いますので」  音羽は頷き、手を握り続けている理亜に視線を向ける。彼女は泣き出しそうな表情で音羽のことを見ていた。 「理亜」  瑠衣が近づいて理亜の肩に手を置く。すると彼女は顔を俯かせ、何かを呑み込むように頷いて握っていた手を放した。 「音羽」  理亜は顔を上げると静かに音羽の名を呼ぶ。 「うん。なに?」 「ありがとね」 ニッと彼女は笑った。  いつものように。  こんなこと、なんでもないとでも言うように。  自分はもう大丈夫だ。そう言っているような笑顔に音羽は笑みを返す。 「どういたしまして」  そして坂口に促されるまま部屋を出る。ドアが閉められる瞬間に振り向くと、理亜は笑顔のまま音羽を見ていた。  まるで音羽を安心させるかのように。 「これじゃ逆でしょ……」  閉められたドアに向かって呟く。本当は、音羽が理亜のことを安心させてあげなくてはいけなかったのに。  ――助けられたかな。少しでも。  階段を降りながら思う。軽くなった右手には、理亜の柔らかくも冷たい手の感触が残っていた。
/56ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加