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神坂薫――今年、二八歳になる日本人青年ヴァイオリニストである。長い髪を掻き上げながら、起きぬけのガウン姿で、寝室から姿を見せる。
若き天才ヴァイオリニスト――このベルリンでは、そう呼ばれている。その端麗な容貌も、多くのファンを惹きつける要因であっただろう。
「グーテン・モルゲン、カオル」
リヒャルトは、入れたてのカッフェをテーブルに乗せ、まだ眠たげな青年に、声をかけた。
「ダンケ。悪いな、朝から」
カッフェを受け取りながらの薫の言葉は、そう機嫌の悪そうなものでもなかった。
音楽家には有りがちなことで、演奏前後、数日間を含めて、大きく気分が変わる、ということは、多々あるのだ。昨日、リヒャルトがここへ泊まったのもそのためであり、もう長い付き合いになるため、その辺りの対処の仕方も心得ている。
「気にするなよ。俺は、おまえのヴァイオリンに惚れて、こうしてるんだ」
「家政婦でも雇えばいいんだろうが……」
「おいおい、冗談はやめてくれ。そんなもん雇われて音でも壊されちゃかなわない。おまえの気分もお構いなしに、毎日決まった時間に掃除機でも掛けられてみろ。譜面が全部吸い込まれちまう」
リヒャルトは目を丸くして、大仰に言った。
「クックッ……」
「笑い事じゃないぜ。他人が家をうろついていようと弾ける人間なら構わないが、おまえのヴァイオリンは、そんな中じゃ歌ってくれない。この四年、俺だって何度失敗したか」
その失敗の積み重ねが、今の副業である。リヒャルトが薫の気分を害さなくても、その不安分子は、世の中に所せましと蔓延しているのだ。
だが、当の薫は、といえば、そんなリヒャルトの苦労など他人事のように、まだ、クスクスと、けだるげな朝に似合う音程で、笑っている。
この青年も、さっきの少年に劣らず、結構、自分中心なのである。
「そう言えば、さっきも妙なガキが来て――。言うに事欠いて、こんな朝っぱらから、おまえの弟だと大ボラを吹きやがる」
「弟?」
リヒャルトの言葉に、薫は目を丸くして、首を傾げた。
「ああ。結構きれいなガキだったぜ。もちろん、おまえには似てやしないさ。何しろ、さっきのガキは、金髪碧眼のアメリカ人だ。日本人の顔の区別はあまりつかなくても、金髪碧眼のガキを、日本人と間違えたりはしないさ。――最近のガキは図々しいったらないぜ」
呆れるように天を仰ぎ、リヒャルトは、ひょい、と一つ肩を竦めた。そして、
「おまえは一人っ子だっけ?」
「いや。弟はいないが、兄が一人いる。今は金髪美女と結婚して、ニューヨークで暮らしているが……」
薫は想い出を見るように瞳を細め、手の中のカッフェを口に含んだ。
「ニューヨーク? それでおまえも大学を卒業して、ニューヨークへ行ったのか」
「高校時代、父の仕事の関係でしばらくニューヨークにいたんだ。兄貴はそのままニューヨークに残ったし、俺はこっちの大学に入ったし――。家に戻るような気分だったのさ」
「あの時は参ったぜ。在学中から期待されてたくせに、卒業と同時にニューヨークへ行っちまうんだからな。おまえをドイツへ連れ戻すのに二年もかかった。――向こうには兄貴だけじゃなく、恋人でも残して来たのかい?」
――恋人……。
その言葉に、薫は、自嘲のような笑みを、零した。
朝は、そんな雰囲気の中で始まっていた。
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