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朝凪の協奏曲(コンツェルト)
彼にしてやりたかったことは、ただ一つ――もう少しだけ優しく、してやりたかった……。
その少年がドアの前に立ったのは、冷たい風の吹く、秋の朝のことだった。
十七、八歳だろうか。光のような金髪も、風のように碧い瞳も、薄い朝の陽差しの中では、幻のように霞んで、見えた。
生意気そうで、そして、きれい、と形容できる少年だった。
その値踏みは当たっていたようで、可愛げのない性格を裏付けるよう、部屋から出て来たリヒャルトの顔を、無愛想に見上げている。茶色い髪に、口ひげを生やすドイツ人に、何か恨みでもあるのだろうか。
「Ist“Kaoru Kosaka”zu Hause?」
ぎこちない――使い慣れていないドイツ語で、少年は言った。多分、外国人なのだろう。
短い夏を終え、長く暗い冬を迎えようとする、ドイツ。
森に囲まれたその風土は、決して人懐っこい人々を育てず、洗練された装いも、派手な装いも持ち合わせないまま、哲学を生み出し、音楽を創造し、ゆっくりと、確実に歩んで来た。
昔ながらの家並みや、中世の面影を濃く留める街並み、城や砦、そこに残る伝説や逸話、ロマンティックな王の夢、今も存在するその結晶……それこそが、この国の人々そのものなのだ。
そして、ドイツ統一と共に、再び首都となった街、ベルリン――。
ここには、どこを見渡しても、歴史がある。
ジーゲスゾイレの勝利の女神ヴィクトリア、十八世紀末に建造されたプロセインの凱旋門ブランデンブルク門、戦争の傷痕たるカイザー・ヴィルヘルム記念堂、ナチス・ドイツが国威を誇示するために総力を結集したオリンピック・スタジアム、ベルリン大聖堂、マリア教会、赤い市庁舎、テレビ塔……。
そんな歴史の街に立ち、
「カオル・コウサカはいる?」
少年は、もう一度、同じ問いかけを口にした。
ここが、日本人青年、神坂薫の部屋であることを知るように――。
「あのなァ、坊主、カオルは忙しいんだよ。演奏を聴きに来てくれるのなら歓迎だが、自宅にまで押しかけられるのは迷惑だ」
リヒャルトは、少年を見下ろして、憮然と言った。
リヒャルトの役目は、神坂薫に逢いに来る煩いファンを、さっさと追い返してしまうことである。もちろん、それがリヒャルトの本業、という訳ではなく、彼の本業は、飽くまでも作曲家なのだが。
だが、今は、その本業よりも、副業の方が忙しくなって来ていて……。それは、今日も同じだった。引っ越しをして、やっと落ち着ける、と思っていたのに、ファンはもう、こうして家を嗅ぎ付けて来る。
「ほらっ、さっさと帰りな」
リヒャルトは、動こうとしない少年を見て、しっしっ、と追い払うように、手を振った。
だが、それでも少年は怯みもせず、生意気にリヒャルトを睨んでいる。
最近、こういうファンが増えているのだ。
「神坂薫はいないのかい?」
と、また図々しく、訊いて来る。
「あのなァ、坊主。カオルは忙しいって言ってるだろ。オーケストラをバックに協奏曲を弾くエネルギーがどれほどのものか解っているのか? 独奏にどれほどエネルギーを費やすか考えたことがあるのか? とっとと帰りなっ! カオルは誰にも会わない」
怒鳴りつけるように言って、ドアを閉め――いや、閉めようとした時、
「Please speak more slowly…….シュ……シュプレッヒェン・ズィー・ビッテ……ラングザーマーっ」
最初は英語で、それから、気がついたように、覚えたてのドイツ語に直して、少年が言った。その様子を見ても、あまりドイツ語が得意ではないのだろう。それどころか、ほとんど話せないのではないだろうか。さっきのリヒャルトのドイツ語も、彼には通じていなかったに違いない。
「ドイツ語が出来ないのか?」
咄嗟に英語を使ったことからしても、英語圏内の人間であることは、間違いない。
リヒャルトが英語で問いかけると、
「あんた、誰? 神坂薫は?」
無愛想な早口の米語で、少年は言った。
気を使って、英語で話しかけてやったのに、損した気分だ。
「だから――。カオルは疲れて寝てるんだ。わざわざベルリンにまで会いに来てくれたのは嬉しいが、ファンの相手をする余裕は――」
「ぼくは彼の弟だっ。ファンじゃない」
「――弟?」
リヒャルトは、その無謀な言葉に、ムッとした。目の前の少年は、どう見ても日本人とは思えない、金髪碧眼の白人である。
しかし、少年は鏡を見たことがないように、
「ああ。さっさと部屋に入れろよ、おっさん」
と、飽くまでも、その言葉で押し通そうとする。――いや、弟という言葉だけなら、まだリヒャルトも許せたかも知れない。
だが――。
「だっ、誰がおっさんだ――っ」
何も、十七、八歳の子供を相手に、そんなに腹を立てなくても、と思わなくもないが、その少年、可愛げなど全くないのである。
「神坂薫はいるんだろ? 弟が来た、って言えば入れてくれる」
と、また高飛車な物言いで、リヒャルトを見上げる。
リヒャルトとしては、腹立たしい限りである。
「ハッ!」
と、天を仰いで両手を広げ、
「そのド金髪で、よくそんな大ボラが吹けるな? カオル・コウサカは日本人だ。――知ってるかい? 日本人は黒い髪と黒い瞳の黄色人種だ。間違っても、金髪碧眼の弟は出来やしないさ。くだらない嘘をつくなっ!」
「ぼくは――」
「とっとと帰りな! まだうろつくようなら警察を呼ぶぞっ」
と、怒鳴りつけるようにして、ドアを閉じる。
少年は、しばらく所在無げにドアの前をうろついていたが、その内、諦めたように歩き出した。
「――ったく、最近のガキは」
文句を言いながら翻り、リヒャルトは、奥のリビングへと足を向けた。
ここは、さっきの少年が言った通り、神坂薫の部屋であり、左手には寝室と防音室、 そして、客室と、奥には広いリビングがある。そのリビングには、シンプルなテーブル・セットと、窓際に洒落たソファ、それ以外のものも、落ち着いた色合いで揃っている。
左手のドアが開いたのは、リヒャルトがそのリビングへと、足を入れた時だった。
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