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美術館を出ると、心地よい風が、吹き抜けた。――いや、肌が凍るような冷たい風だが、それでも、今の薫には心地よかった。だから、その風に瞳を細めるフリをして、己の滑稽さを、笑った、のだ。
エリオットが、戸惑うようにして、薫を見上げた。
多分、その薫の笑みに、さっきの言葉も帳消しにしてもらえた、と思ったに違いない。許しを得た仔犬のように、何度も薫を見上げては、気詰まりな雰囲気を取り除くように、邪気のない言葉で、話しかけてくる。
それは、車に戻ってからも、同じだった。
「にーさんは、ぼくの理想だったんだ」
と、夢を語る少年そのものの表情で、薫を見上げる。
「ハッ。低い理想だ」
「そんなことないっ! にーさんは何でも出来て、頭も良くて、才能もあって――。ぼくは、ずっとにーさんみたいになりたかった。……姉さんは、きっと女だから解らなかったんだ。だから、トオル義兄さんと結婚して」
「――」
「トオル義兄さんはいい人だよ。おっとりしてて、不器用で、どこか間が抜けてて――。だから、姉さんも放っておけなかったんだと思う。……ぼく、カオルにーさんが姉さんのことを好きだったことも、知ってた」
「……」
何故、そんな話を持ち出すのだろうか。
今ならもう、薫が傷つかない、とでも思っているのだろうか。――いや、そうでないことは、薫自身、承知している。彼は、ただ薫に、自分の方を振り向いてもらいたいだけなのだ。自分のことを気にかけて欲しいだけなのだ。薫が自分に優しくしてくれるのを待ち、愛してくれることを催促している……。それこそ、無邪気な幼子と同じように。
だから、薫も、その彼の言葉に、傷ついたりしてはいけないのだろう。
だが――。
「ぼく、ハイスクールを卒業したら、こっち《ドイツ》の大学に――」
もうそれ以上の言葉を聞いていることは、出来なかった。エリオットの言葉が終わらない内に、薫はブレーキペダルを踏み付けた。
タイヤの軋む音が高く響き、車が脇に寄って、乱暴に、止まる。
「く――っ!」
エリオットが、フロント・ボードにのめり込み、咄嗟に翳したらしき腕を打付け、痛みと衝撃に、呻きを上げた。
「……にーさん?」
碧い瞳が、持ち上がった。
戸惑うような表情だった。
多分、彼には車が止まった理由さえ、解ってはいないのだろう。――いや、解っていたかも知れないが、薫がこれほど傷つくとは、思ってもいなかったに違いない。
そして、それは彼の非では、あり得ない。
それは、薫も承知していた。
それでも、優しくしてやることは、出来なかったのだ。
「飛行機代だ」
と、上着の内ポケットから財布を取り出し、薫は、何枚かの紙幣を、エリオットの前に突き出した。
「ここからなら歩いて家に帰れるだろう? リヒャルトに頼んで、空港に連れて行ってもらえばいい。俺は用がある。見送りには行けないが、明日、ちゃんとニューヨークへ帰るんだ」
「……どうして?」
エリオットは、震える声で、薫を見上げた。
「にーさんは、ぼくのことが嫌い……?」
嫌いではない――そう言ってもらいたかったに違いない。そして、薫にもそれは充分、解っていた。どう言えば傷つけずに済むかも、知っていた。
そして、どう言えば傷つくかも――。
「生憎、俺はゲイじゃない。ニューヨークで生まれ育ったおまえとは違うんだ。そういう相手が欲しいのならニューヨークで探せ」
「――」
風が代わる刹那であった。
海からの風と、陸からの風が、交差する。
風が、凪いだ。
陸風と海風が、無風のまま、朝凪の協奏曲を、奏でる。
「ほら、家の鍵だ。夜にはリヒャルトが来るから渡して――」
薫が言い終わらない内に、差し出した鍵を、エリオットが叩きつけた。同時に車のドアを開け、振り返りもせずに駆けて行く。
どんな表情だったのかは、判らない。
多分、泣き出しそうな表情だった。
置き去りにされた薄っぺらい紙幣が、シートの上で、薫を笑う。
「フッ。……クックッ」
もう、これで傷つかずに済む、のだ。
薫は、自嘲のように、唇を歪めた。
肩を揺らし、低い声で、笑い続ける。
「これが理想の兄? 何でも出来て、才能もある? この俺が? クックッ……。アハハハハ――っ!」
高らかに広がるその笑いは、果たして、楽になれるものであったのだろうか。
眉を寄せて、車の脇を通り過ぎる人々は、その笑いを何と思っていたのだろうか。
未だに一人の女性を未練がましく想い続け、何の罪もない少年を平気で傷つけることが出来る男――その姿を見て、哀れ、だとは思わなかっただろうか。
「俺は所詮、この程度の人間だ……」
車のハンドルに額を押し付け、薫は随分長い時間、そうしていた。
コンコン、窓を叩く音がしたのは、それからどれくらい経ってからのことだったのか。少なくとも、薫がまだ、エリオットのことを考えている時間だった。
だから薫も、エリオットが戻って来たのではないか、と思ったのだ。
薫は、ハッ、と顔を持ち上げた。
だが、窓の外に立っていたのは、エリオットではなく、ブルッネットの髪に大人の色香を纏わせる、スラリとした美女だった。
「ハイ、カオル。こんなところで逢うなんて奇遇ね」
と、窓を覗いて、笑みを見せる。
「リタ……」
マルゲリータ・ベッツ――美貌のピアニスト、と謳われる華やかな女性である。
「私と逢う時間もないのに、一人でドライブ?」
リタは、皮肉げな口調で言いながら、当然のように助手席のドアを開いて乗り込んだ。
「時間はあるのでしょう? あなたと過ごしたいわ」
そんな言葉も、自信と魅力に満ち溢れている。
そして、今の薫には、最短で辿り着ける逃げ道でも、あった。
薫は、リタの腕を強引に引き寄せ、そのまま激しく口づけた。
「カオ――」
戸惑うリタに構わず、舌を搦め、ドレスの裾を捲り上げる。
「やめ――っ。カオル! こんなところでイヤよ――」
そのリタの言葉も、薫を止めるものにはならなかった。
多分、誰にも止められはしなかったのだ。
薫は貪るようにリタを求め、その中へと逃げ込んだ。
風が、流れた。
誰にでも奏でることの出来る風、だった……。
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