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ヨーロッパの朝は、カッフェにブロート(パン)という、簡単なものであるから、男手しかなくとも、苦労はしない。
「……そう言えば、さっきのガキも、ニューヨーク訛りの米語だったな」
「え?」
リヒャルトが口にしたその言葉に、薫はカッフェから顔を上げた。――といっても、弟がいることを思い出したわけではなく、ニューヨークという言葉に反応しただけなのだが。――もとより、ニューヨークに弟がいるはずもなく、ましてや、金髪碧眼の弟など……。いるのは、純日本人の兄だけで――。だから、いつも通りに、ゆったりとカッフェを飲んでいたのだ、その時は。
だが、カッフェを飲み干す頃になって、ふと、脳裏に引っ掛かったものが、あった。
「リヒャルト、その『弟』は今どこにいるんだ?」
と、不安に駆られて、問いかける。
「へ?」
「金髪碧眼の弟だ」
「もう追い返したが……」
「ちょっと出て来る」
ガウンの上にコートを羽織り、薫は部屋から飛び出した。
「おい、カオル――っ」
そのリヒャルトの声も、届かなかった。
肌寒い朝のベルリン――。
樺太とほぼ同緯度にあるこの国は、大西洋から吹く風のお陰で、同じ緯度でも平均気温はずっと高い。とはいえ、夏の盛りでも二十度に達しない平均気温は、やはり寒い。
その寒さの中、薫はガウン姿で――いや、今はコートを羽織っているが、長い髪をそのコートの中に包んだまま、辺りに視線を巡らせた。
金髪碧眼の弟、という言葉に当てはまる人物がいるとすれば、それは、一人しかいない。ニューヨークにいる薫の兄が結婚した女性の弟――。所謂、義理の弟である。
そして、もうそんな弟がいたことも、すぐには思い出せないほどに、薫はニューヨークから遠ざかっていた。――いや、金髪碧眼、というリヒャルトの言葉に、その弟の姿が結び付かなかったせいもある。何しろ、その弟、小さい頃は赤毛と言った方似合う髪をしていたし、ソバカスを顔中に散りばめていたのだ。リヒャルトがいうような金髪ではなく、一人で海外に来られるほど、大きくもなかった。
そして、人通りもまばらな朝の通りに、その少年の姿は、見当たらなかった。
もちろん、リヒャルトが追い返したのは、随分前のことなのだから、見当たらなくても不思議ではないのだが――。いや、それ以前に、その少年が、本当に『彼』であったのかも、定かではない。もしかすると、全くの別人で、奇遇にもニューヨークから訪れていた、ただのファン、ということだってあるだろう。第一、彼がこのベルリンに訪れる理由など、何もないのだから――。夏休み中、というのならまだ解るが、もう新学期も始まっている。
だが――。
だが、再び視線を巡らせた時、その少年が通りの向こうから歩いて来るのが、目についた。リヒャルトが言っていた通りの、金髪碧眼の少年である。
「アニー……?」
柔らかいレザーのトップとボトムを身に纏うその少年は、光のような金髪と、風のような碧い瞳に、幼い日のあどけなさを留めて、歩いていた。
少年らしい線の細さが、眩しいほどに、この凍える街にきらめいている。
手には、紙コップのカッフェと、プレーツェルを握り、それを口一杯に頬張っていた。「モーニン、義兄さん。今、起きたところ?」
と、口の中のプレーツェルをカッフェで嚥下し、小さな輪郭に相応しい皮肉げな口調で、薫のコートの下――部屋着のガウンを覗き見る。生粋のニューヨーカーらしい早口の米語である。
そして、幻でもないのだろう。
「エリオット……。何故、こんなところにいるんだ……?」
薫は、呆然としながら、問いかけた。
こんな子供が、何の前触れもなく、たった一人でベルリンの街を歩いているのである。何故、戸惑わずに迎えることが出来た、というのだろうか。
そして、最初にその少年を「アニー」と呼んでしまったことにも、薫は気づいていなかった。もちろん、その呟きは、エリオットには届いていなかっただろうが。
「変なおじさんが出て来て部屋に入れてくれないから、朝ごはんを買いに行って来たんだ」
と、手に持つプレーツェルを、持ち上げる。
薫の問いかけとは、多分に的外れな返答であったが、薫にとっては、気に掛かる言葉でも、ある。
「……変なおじさん?」
「ああ。にーさんには取り次いでくれないし、こんな時間に着いたからお腹は空いてるし、食べながら部屋の前で待とうと思って――。にーさん家、もっとマシなキャフェある?」
エリオットは、もう気にも留めていない様子で、紙コップのカッフェに眉を顰めている。
子供であるというのに、カッフェに文句をつけるなど、十年早い。
「ああ、今、リヒャルトが――」
茫としたまま、すっかりエリオットのペースに嵌まりかけ、
「いや、そんなことより、何故、おまえがここにいるんだ?」
ハタと気づいて、話を戻す。
寝起きの上に、こんな不意打ちでは、調子も狂う。
「義兄さんに――トオル義兄さんに、カオル義兄さんの住所を訊いたんだ。引っ越したんだね」
トオル――ニューヨークにいる薫の兄、神坂透である。そして、エリオットにとっては、姉の結婚相手であるから、義理の兄に当たる。
「それで、ケネディ空港から飛行機に乗って――随分、遅れてさ。ベルリンに着いてからはタクシーで来た」
また話が逸れているような気もする。
そして、エリオットは、胸を張るほどに得意げである。よもや、一人でベルリンに来たことを褒めてもらえる、と思っている訳ではないだろうが、その態度からは、どう見ても、そういう風にしか、思えない。
「そ……そんなことを訊いてるんじゃない! 一体、何をしにベルリンへ――」
「ねェ、話は部屋に入ってからにしない? ぼくも飛行機で疲れてるし、寝てて機内食も食べてなくてお腹は空いてるし、にーさんだってコートの下はガウンだし」
どうやら、今の段階では、まだエリオットの方が頭の回転が速いらしい。怒られる、と判るや否や、話を別の方向へと持って行く。
――何を考えているんだ、最近の子供は……。
それが、まだ頭の目醒めていない、薫の胸中であった。
結局、突然の訪問については何の進展も見られず、話は部屋に入ってから、ということになった。
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