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「リヒャルト、これはエリオットだ」
と、リビングに入り、簡単な紹介から、まず始める。
この頃には、薫も冷静さを取り戻し、事態を把握できるまでになっていた。
「さっきは悪かったな、ボーイ」
リヒャルトも気を遣っているのか、笑みこそ見せていないものの、一応、英語でそう言った。
しかし、エリオットは目一杯、さっきのことを根に持っているようで、
「気にしてないよ。ミスター.リチャード」
と、名前まで全て英語に直して、受け応える。
これに、ドイツ人であるリヒャルトがムッとしたことは、言うまでもない。
「こっちが気を遣って英語で話してやってるからと言って、名前まで英語読みにするな! 俺はドイツ人でリヒャルトだ! これだから、歴史も何もないアメリカ人はっ」
「大人げない人だなァ。ヘル.リヒャルトって呼べばいいのかい?」
「――」
ますます険悪な雰囲気である。
「やめないか、エリオット」
エリオットと『変なおじさん』との非友好的な挨拶は言うまでもなく、多分に波乱を含んで、三人は――いや、薫とエリオットの二人、はブロートとカッフェを並べたテーブルを挟み、席についた。
リヒャルトは、といえば、もう拘わるまい、とするかのように、窓際のソファに腰掛けている。最も賢明な判断であっただろう。
「学校はどうしたんだ、エリオット?」
何とか落ち着いた状況で、薫は訊いた。
だが、エリオットは全く堪えていないようで、カッフェを手に、涼しい顔で、こう言った。
「社会勉強だよ。――素敵な部屋だね。にーさんのセンスって好きだな。シンプルで落ち着く。――朝食もシンプルだけど」
と、コンチネンタルの食事に、視線を落とす。
「厭味を言うなら食べるな――」
「キャフェはおいしいよ。部屋はきれいだし。やっぱり、木の部屋の方がヴァイオリンにいいのかナ……」
と、部屋の中をぐるぐると見渡し、趣味のいい調度にまとめられた空間を、マジマジと懐かしむように眺めている。
どうやら、人の話を聞く積もりはないらしい。
薫はさらに厳しく、
「ご両親には何と言って出て来たんだ? 一人で行くと言って許してくれた訳じゃないだろう?」
「許してくれたよ」
「嘘をつくなっ!」
「ホントだって。電話を掛けてもいいよ。手紙、まだ届いてない?」
「……手紙? いつ出したんだ? そんなものは届いてない」
「飛行機に乗る前、空港で――」
「この馬鹿っ! 何を考えているんだ!」
そんなものが、すぐにドイツまで届くわけがない。
「そんなに怒らなくても……。パパとママが許してくれたのはホントだよ。にーさんのところに泊まるのなら安心だって――」
「泊まる? ここへ泊まるだと?」
「そうだよ」
ケロッ、とした顔で、エリオットは言った。多分、小さな子供として可愛がられて来た彼には、それが当然のことであったのだろう。
だが――。
「冗談じゃないっ! 俺とおまえは『他人』だ。おまえの姉さんと結婚したのは兄貴で、俺じゃないっ。押しかけられても迷惑だ」
暢気すぎるエリオットの言葉を、薫は勢いに任せて、つい強い口調で撥ね付けてしまった。言うつもりなどなかったというのに、そんな言葉など――。
エリオットが、硬く表情を強張らせる。
「おいっ、カオル! そんな言い方をしなくても――」
さっきまでエリオットを敬遠していたリヒャルトでさえ、ソファを立って、そう言った。
「……。俺は、他人が側にいてヴァイオリンを弾ける人間じゃないんだ。それは、君だって知っているはずだ、リヒャルト」
「それはそうだが……。だが、せっかくおまえを頼って来た弟を、二、三日泊めてやるくらいのことは――」
「ホテルを取ってやろう。英語も通じる。その『社会勉強』とやらを済ませたら、さっさとニューヨークへ帰るんだ」
薫は表情を崩さず、電話の方へと翻った。
エリオットは、硬く表情を強ばらせたまま、唇をキュッと結んでいる。そして、薫が視線すら合わせようとしないのを見ると、
「要らない。他人のあなたに迷惑はかけない」
と、ドアの方へと翻った。振り返ることは一度もなく、バタン、とドアを閉じる音だけが、部屋に残った。
いや――。
――他人のあなたに迷惑はかけない。
その言葉だけが部屋に――胸に、残った。
「おい、カオル! もっと穏便な言い方があるだろう? 何だってあんな言い方をするんだっ。おまえを当てにして来たのなら、ホテルに泊まる金だって持ってるかどうか――」
「なら、ニューヨークへ帰れば済むことだ」
「――カオル?」
「シャワーを浴びて来る。まだ疲れが取れない」
薫は無表情に――無表情を努めて、バス・ルームへと翻った。
「カオル――っ。あんな子供を一人で放り出して心配じゃないのか? あの子はほとんどドイツ語が出来な――」
「君が追い返したままでも同じだったさ。――そうだろ、リヒャルト?」
「――」
「俺は自分のことで精一杯なんだよ」
パタン、とバス・ルームのドアを閉じる。
それは、心の扉を閉じる音にも、似ていた。
飛沫が降り注ぐバス・ルームに、痛みを伴う過去が映る。
あれから、もう四年も経つのだ。
『どうして結婚式に出席してくれないの、カオル? 寂しいわ』
『……。以前からドイツに誘われていたんだ。大学時代からの友人で――。兄さんと幸せに、アニー』
――幸せに……。
――兄さんと……。
そう言って、ニューヨークを離れた、あの日――。
そして、今日、その女性とそっくりな顔をした少年が、薫の前へと姿を見せた。光のような金髪も、風のような碧い瞳も、何もかも彼女に似通っていた。
あの美しく、聡明な女性に……。
そんな彼の姿を見て、一体、何が言えた、というのだろうか……。
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