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薫の部屋を飛び出した後、エリオットは朝の通りを行くあてもなく歩いていた。
時々、後ろを振り返っては、薫が追いかけて来てくれないか、確かめてみる。――が、その様子は、全く、なかった。もちろん、エリオットにしても、薫の元へ戻る積もりは――薫が追いかけて来てくれない限り、微塵もない。
それでも、胃の奥が、キュッ、と痛くなった。
悪いのは、エリオットではなく、薫の方であったはずなのだ。それは、リヒャルトが薫を咎めたことでも判断できる。
エリオットは、ポケットの中に手を突っ込み、一枚の紙切れを取り出した。雑誌の切り抜きである。そこには、ヴァイオリンを奏でる薫の写真が、ゴシップ記事と共に載っている。
《天才ヴァイオリニスト、神坂薫、来春にはピアニストのマルゲリータ・ベッツと結婚か》
――結婚……。
記事を手の中で握りつぶし、捨ててしまおうと思ったが、エリオットは結局、またそれをきれいに伸ばして、ポケットへ、入れた。
音楽の国、ドイツ――。
この街では、クラシックからジャズ、ロックに至るまで、何でも、聴ける。
歴史ある劇場や歌劇場でのコンサートやオペラも、中世ドイツのロマンティシズムを漂わせるこの街を、旋律の都として位置付けている。
そんな街の道路には、リーム色のベンツが、黒字に黄色で『TAX』の標識灯を乗せて止まっていた。その一台に乗り込み、
「ボックス・オフィス(プレイ・ガイド)まで」
エリオットは言った。――が、
「ビッテ(え? 何だって?)?」
運転手に問い返され、
「あ……えーと。テアター・カッセ、ビッテ(プレイ・ガイドまで)」
と言ったものの、
「どこのだい?」
「???」
今度はエリオットの方が、解らない。
「ヨーロッパ・センターでいいのかい?」
「Ja(ああ)」
取り敢えず、そう応える。
今のエリオットの目的は、どこのプレイ・ガイドに行くか、ではなく、取り敢えずプレイ・ガイドに行って、チケットを買うことなのだから。
薄いクリーム色のベンツ――タクシーは、プレイ・ガイドへと走り始めた。
ニューヨークとは全く違った過去の街――この街は、今しか存在できないニューヨークとは、何もかもが違って、いる。
『俺とおまえは他人だ。おまえの姉さんと結婚したのは兄貴で、俺じゃない。押しかけられても迷惑だ』
――迷惑……。
思い出す度に、胸に冷たく突き刺さる言葉だった。
「にーさんなんか……」
プレイ・ガイドの前には、薫が演奏するコンサートのポスターが、貼ってあった……。
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