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ホール内は、水を打ったように静かだった。
薄暗い照明の中、たった一人の青年だけが、スポット・ライトを浴びている。
誰もが息さえ止めて、その始まりを見つめていた。
もう何時間もそうしているような気が、した。
青年が、ヴァイオリンを優しく抱いて、顎に挟む。
軽く弓を滑らせ、糸巻きを、動かす。
今、ヴァイオリンと青年が、一つに、なった。
ヴァイオリンは、まるで彼の身体の一部であるかのように、ぴったりと腕の中に収まっている。
啼き声が、聴こえた。
ヴァイオリンが啼いているのだ。
愛を囁くように、切ない声で。
それは、誰もの耳に、そう聴こえただろう。もし、それを『ただの楽器の音』だ、という人がいたら、それはとても不幸な人だったに違いない。
ヴァイオリンは確かに、歌っていたのだ。彼の愛撫に応え、一体となって呼吸をし、震え、共鳴し、切なく、物憂いに……。
彼に抱かれて、歓んでいる。だからこそ、優しく撫でる仕草に、強く抱き締める腕に、これほど美しい啼き声を、上げる。
これが、彼とヴァイオリンが育む世界なのだ。
エリオットは、胸を締め付けられるような息苦しさに、瞬きも出来ずに、ヴァイオリンを奏でる薫の姿を、見つめていた。
チケットの都合もあって、決していい席とは言えないが、それでも、薫の姿を見るのに、不都合はなかった。
ホールは、夜明け前の海のように、美しい旋律に満たされて、いる。
得体の知れない熱い塊が、喉を苦しく支配していた。
多分、呼吸も止まっていた。
体が、小刻みに、震え出す。
全身に、戦慄が、駆け抜けた。
そして、全てを知る頃、涙が……零れた。
これは、朝凪――。
海辺で朝、陸からの風と、海からの風が代わる時、一時、風が止まる。
全てがその刹那に静まり返る。
この曲は、彼とヴァイオリンが奏でる朝凪なのだ。
曲が、終わった。
拍手が起こるまでの時間が、随分と長かった。――そう。誰一人として、無粋な拍手で『彼とヴァイオリン』を壊すものは、いなかったのだ。
誰もが彼に、魅せられていた。
彼は、全ての観客を、朝凪のように黙らせることが、出来る。
――にーさんは、やっぱり凄い……。
エリオットは、その余韻を残しながら、ホールの外へと、席を立った。
あれから五日――。
当然のように、お金もほとんど残っておらず、帰りの旅費はもちろん、ホテル代すら、手元にない。高校生のエリオットに、両親がカードを持たせてくれるはずもなく、もとより、薫のところに泊まる積もりをしていたのだから、その金銭的な障害は、意外でも何でもなく、すぐに財布に訪れていた。
そんな中、ホールを後にして夜の通りを歩いていると、カフェ・テリアの前に、求人の貼り紙がしてあるのが、目についた。――いや、恐らく求人だろう。Kellnar(ウェイター)と書いてあるし、それがメニュー表示とは、思えない。
エリオットは寒さを凌ぐように首をすぼめ、コートのポケットに手を突っ込みながら、その貼り紙をしばらく眺めていた。
このままベルリンに残るなら、ニューヨークの両親に送金してもらうか、働くしかない。そして、両親に送金をしてもらうには、その理由も言わなくてはならないだろう。薫の家に泊めてもらっていないからお金がない、と……。
――ウェイター……。
考えている時だった。
「アルバイトを探しているのかい?」
カフェ・テリアから出て来た二人の男が、エリオットの前に立って、そう訊いた。二人ともに、まだ若い青年で、ラフなジャンパーを羽織っている。
もちろん、ドイツ語であるから、エリオットには二人が何と言ったのか解らなかったが、状況からして――そして、唯一聞き取れた『アルバイト』という単語からして、男たちの言葉の意味も、こうではないか、という風には、理解できていた。
「アルバイト……。ヤー」
ドイツ語で『仕事』の意味である。
「イギリス人かい?」
「Nein(ノー).USA」
それくらいのドイツ語は、理解できる。
「へェ。最近はアメリカからの観光客も多いからな。――来いよ」
その言葉は、理解することが出来なかった。
だが、エリオットの肩を叩き、通りの先へと指を立てている男の姿を見れば、それが、エリオットを促しているものだ、というくらいには、推察できた。
「このカフェ・テリアの人じゃないの?」
別の場所へ行こうとする男たちを見て、エリオットが訊くと、
「え? 何だって?」
男たちには英語は通じないらしい。
「仕事って、何さ?」
「街娼だよ」
その言葉は、ドイツ語ではなく、流暢な米語で返って来た。そして、それは、目の前の男たちが返したものではなく――、
「え……?」
エリオットは、届いた言葉に戸惑いながら、声のした方へ視線を向けた。そこには――。
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