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翌日、二人が訪れたのは、十三世紀から十八世紀までの六〇〇に及ぶヨーロッパの絵画の名作を飾る、美術館であった。ダーレム博物館内にあるその美術館は、フリューゲル、レンブラント、デューラー、ラファエロなど、巨匠の代表作がこの上なく贅沢に並んでいる。――が、それでも気に入らないものは気に入らないらしい。
「どーして美術館や博物館巡りなんだよっ。学校の旅行じゃないのにさ。もっと楽しいところに行きたいよ」
言わずと知れた、エリオットの不満である。
昨日、可愛かった、と思えば、今日はもうこれなのだから、薫が甘い顔をしたことを後悔し始めていたのも、無理はない。
「俺は、おまえのお母さんから、おまえのことを預かっているんだ。――美術館のどこが悪い? このベルリンの博物館は、ロンドンの大英博物館やパリのルーブル美術館にも匹敵する『お子様向け』の場所だ。友達に自慢出来るものを見て、ニューヨークに帰――」
「こんなもん見るくらいなら、にーさんのところでゴロゴロしてた方がマシだよ」
不満をありありと口にする。
何という可愛げのない子供なのだろうか。
「最近のガキは……」
この時、薫がエリオットを殴らなかったのが、不思議なくらいである。
「ねェ、明日の予定は?」
エリオットの方は、そんなことなど気にもしていないらしい。
「昼間は用がある。夜はドイツ・オペラにでも――」
「えーっ。英語の字幕出る?」
出る訳ない。
「嫌ならベルリン・フィルだ」
「にーさんが弾く訳でもないのに? ぼく、どこにも行かなくてもいいよ。にーさんの手伝いがしたいんだ。――ぼくさ、料理とか結構できるよ。最近、ママが手抜きだから、自分で作ったりするんだ」
それは偉い。目の前のレンブラントとは何の関係もない言葉ではあるが、褒めるには値するだろう。
「いいことだ」
薫は言った。
もちろん、エリオットの瞳も輝いた。
「だからさ、きっとにーさんの役に立つよ。他にも仕事をするしさ。部屋の掃除とか何でも。――ぼくもここで暮らしちゃダメかな?」
と、機嫌を窺うように、薫を見上げる。
少し甘い顔をすると、もうこれである。
「もちろん構わないさ」
薫は言った。
「ホントっ!」
エリオットの瞳も、ますます、きらきら、と輝き始める。
「ああ。大学を出て、親孝行出来るようになったら、好きなことをすればいい」
そんな言葉を言わなくてはならないようにしているのは、エリオットの方なのだ。――いや、少なくとも薫はそう思うことで、自分の心を正当化していた。
「俺は、絵も静かに鑑れない子供のお守りはごめんだ」
「――。ぼくは一人で何でも出来る……。にーさんに迷惑は――」
「おまえを迷惑だとは思っていない。それ以前の問題だ」
「……にーさんだって、ハイスクールの時に日本からニューヨークへ来たじゃないか。ぼくだって、もう、あの時のにーさんと同じ年だ」
「親の仕事の都合だ」
「でも――っ。でも、その後、にーさんはドイツの大学に一人で行って……。卒業してニューヨークに戻って来て、またドイツに行って――」
「話を変えるな」
「……にーさんは、姉さんとトオル義兄さんが結婚してから、一度もニューヨークに来てくれない」
「――」
――一度も……。
また、傷口が、開いて、行く。
もちろん、それはエリオットのせいではないだろう。
それでも――。
「きっと、これからも来てくれない。ぼくがドイツに来るしか……」
切ない胸の内を語るエリオットの姿を、肖像画たちが黙って見下ろしている。
エリオットもまた、同じなのだ。薫と同じように、報われない想いを抱えている。
「……絵を鑑ないのなら、もう出よう」
薫は出口へとエリオットを促した。
「にーさん――」
続くエリオットの言葉も、聞いてやることが出来なかった。
彼のせいでないことは解っているのだ、薫にしても――。 だが、彼女と同じ顔で、そんな言葉を持ち出されて、そのまま聞いてやるこは出来なかった。
何も解らない子供だ、と思っていた少年が、薫がニューヨークへ顔を出さない、ということの意味も解るようになって、ベルリンへ訪れ――、そんな彼の話を、このまま聞いていてやることが出来た、というのだろうか。
もちろん、聞いてやらなくてはならないのだろう。もうそれだけの歳月が経っているのだから。
そして、エリオットには何の罪もない。
だが、それでも、もし、彼が彼女に似ていなければ――。
幼い頃の赤毛が、柔らかい金髪に変わることもなく、顔中に広がっていたソバカスが、跡形も残さず消えてさえいなければ――。
そう考えるのは、薫の未練がましさのせいだけ、だったのだろうか。
だとすれば、今の薫の姿は、滑稽なものであったに違いない。
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