月と涙

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10月1日 中秋  夜11時 ベランダに出た。むっとした空気が体を覆う。準備していた椅子をひろげ、静かに腰掛けた。少し動くだけでも汗がにじむ。ポケットにしまってあるハンカチを取り出し、そっと汗を拭った。  ハンカチをしまい、何をするでもなく、ただ、空を見上げる。時折吹く夜風が静かに 髪をゆらしていた。 中秋の名月。 夜の闇によくとけこんだその光はどこか儚くて美しい。その光は時折、人間に悪戯(いたずら)をする。  このお月見は毎年恒例の行事だった。一年に一夜、空を眺め、夜に揺られる。  ただ、ただ、月を見つめつづける。そこに、何があるわけでもないのに。  ただただ月を。月だけを。食い入るように。 「月ばっか見てんなよ。」 はっ  声のした方を振り向くとベランダにもたれかかって立つ君の姿があった。  気のせいか少し赤く染まった頬をほころばせ、澄んだその()で私の目をまっすぐ見つめる。 「え?何固まってんの?」 君は少し笑って私に聞く。その体が淡い光を放っている。 「…俺さ、月弥(つきみ)が、どっか行っちゃう気がして…。」  君はちょっと不安そうに言った。  その顔をぼうっとした頭のままで見つめる。  君が私を見つめ返して少し照れたように笑った。  その瞬間、心の中に言葉があふれた。 ――私は、どこにもいかないよ。どこにも、いかないよ。どこにも、いかないから、絶対、いかないから、一生、君のそばにいるから、だから、だから、どこにもいかないで。 ――いかないで… 「…」 君への返事は声にはならずに、ただ、君の名前を呼んだ。  無意識に君に手を伸ばす。ふるえる手が 君に ふれ――  光の粉が舞った。 …いや、そんな気がした。  幻を見ていた。正確にいうと、過去の記憶の中の君を。  去年もここで月見をしていた。「君」と「私」の二人で。  食い入るように月だけを見る私に、君は 「月ばっか見てんなよ」 固まる私に「何固まってんの」って笑って、最後には不安そうに、 「月弥(つきみ)がどっか行っちゃう気がして…」 なんてこぼしていた。  私は、何と答えたのだろう。記憶を必死にたぐり寄せる。 「そりゃあ、…いつかはどっかに、いくよ…君もね?」  そう、確かそう答えた。そしたら君は悲しそうな顔をしてつぶやいた。 「嫌だよ…」 その瞳を私の心に届かせた。  その言葉に応えるように私が口を開く。 「でも私は、ずぅっと。一生。…君のそばに、いたいなぁ…。」  たぐり寄せた記憶に涙があふれる。 「ずっと…」 ――君の、そばに  言葉に嗚咽がまじる。次から次に涙があふれた。整わない呼吸に喉が音を立てる。 ――居たいよッ 居たかったよ  地面にしゃがみ込んで顔を伏せる。声にならないものが涙になってあふれる。  涙ながらに君の名前を呼ぶ。 会いたいよ 会いたいよ 触れたいよ 抱きしめてよ  今までこらえてきたものが全部 あふれでてこぼれおちる。 「泣くなよ。大丈夫だよ。月弥(つきみ)なら。…だって、俺がいるじゃん。」 頭上で声がした。  涙のにじむ目で見上げる。なつかしい君の笑顔がぼやけて見えた。  さらにあふれる涙をぬぐうように君が私に覆い被さった。 ――パッ 光の粉が舞い、私の中に 静かに溶け込んだ。
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